ロシアのウクライナ侵攻について、本邦ではプーチンは何を考えているか分からないとか、プーチンは誤判断した云々曰う識者(私に言わせれば御用学者や政権提灯持ちジャーナリストとしか表現使用の無い方々)がいるが、ロシアがウクライナに侵攻した理由・背景は極めてシンプルに思える。
①侵攻した理由:NATO勢力(≒西欧諸国)のウクライナへの伸長は、ロシアの安全保障(ここでは国防と同義)上、ロシアの許容限界を超える。
②侵攻した背景:米国は政治的に混乱し、対ロシアで有効な手を打つことができない。
上記理由・背景により、ロシアはウクライナに侵攻したのであろう。①については10年ほど前から、旧西側のロシア専門家達は、NATOがウクライナまで伸長(する兆候も含む)したならばロシアは戦争に訴えてでもこれを阻止するだろうといってきてことであり、その通りになったということである。
②については、米国は党派主義により分断されており、ロシアに関し挙国的に対処することはできないという読みがロシア政府首脳部にあったのであろうし、それはその通りになると、私は推測する。次の中間選挙で共和党が勝利した場合(そして現段階においては、共和党が勝つ見込みが高いと言われている)、当選者の多くは伝統的な共和党議員ではなく、前トランプ大統領のような議員が多く登場することを考えると、米国の政治的分断は続くことはあっても、対ロシアで超党派的な動きになる可能性はほぼないことから、ロシア政府首脳の読みはそう外れていないと言えるであろう。
ロシアのウクライナ侵攻に伴い、ロシア軍の進軍速度が遅れているという報道もでているが、現在のフェーズが市街地戦に移行したことを考えると、当たり前と言える。市街地戦は時間を要するものであるというのが、戦史である。市街地戦に突入したことを踏まえ、ロシア軍の進軍速度云々するのは軍事的に見れば失当であろう。ロシアは上記①の政治目的を達成するためには、被害・損害が多くなたっとしても、市街地戦を戦い抜くのではないかと予想する。
また、ロシア軍は原子力発電所に対して攻撃を行ったというのは、ある意味驚きであったが、これもロシア側の断固たる意思表示であろう。話は少し発散するが、当該事象でロシアは問題だと日本社会が朝野をあげて非難するのであれば、日本で対中脅威に備えて自衛隊を強化せよとか言っている原発推進派(その多くは自称保守)は、原発の安全保障上のリスクを再度考えてから意見を言えといいたくなる。
今回のロシアのウクライナ侵攻を受け、政権投げだし×2男(安倍晋三)が、日本も核を持つべき云々言い出したのは、ある意味読み通りであったが、こんな知的水準の低いバカが本邦の宰相をやっていたかと思うと、背筋が凍るというより、日本はもう斜陽が進みすぎて、いよいよ駄目なんだろうなという思いを強くしてしまった。そもそも、仮に日本が核武装をしたとして、他国が日本に戦争を仕掛ける場合、何をするかといえば、まずは脅威の排除であり、米軍の来援阻止、空自基地の破壊と、核装備部隊への打撃であろう。核装備部隊への打撃で問題となるのが、地域的に縦深のない日本で核兵器をどこに置くのかということと、相手側の核先制使用の可能性である。政権放り出し×2男は長いこと首相の座に就いていて、この辺の思考訓練はしてなかったのだろうかと思ってしまう。さらに言えば、日本の核武装は近隣諸国の核武装正当化への格好の口実となり、北朝鮮の非核化どころか韓国の核武装を惹起しかねなくなる。その結果東アジアの安全保障環境は更に複雑かつ厳しいものになってしまうであろう。また、核兵器の製造・維持管理には莫大な経費を要するが、少子高齢化対策が喫緊の課題となる本邦において、そのような財政余力はどこにあると言うのであろうか。そもそも、NPT体制との整合性をどの方に考えているのか疑問である。いったいこの男は、長いこと首相の座にいて安全保障に詳しい役人や政治家から何を学んでいたのかと言いたくなる。
上記、ウクライナ情勢にかんして縷々述べてきたが、今後の見通し・注目点を書くと、アメリカはロシア封じ込めに動くであろう。その際、問題となるのが、中国の扱いである。私は、中国とロシアはユーラシア勢力として一体で見た方が、本邦の安全保障を考える上で有効だと考える者であるが、国際社会は主権国家単位で動いており、この見方からすると、冷戦期の様にロシア封じ込めのために、アメリカが中国を利用しようとするのは当然であろう。仮にロシア封じ込めのためにアメリカが対中融和的になった場合、現在対中脅威論を煽りまくっている現政府や御用学者・ジャーナリストはどーするのであろうか。御用学者やジャーナリストは、「日本人らしく」腹でも切って社会・国民にお詫びするのであろうか(嫌みはこの辺にしておく)。日本の安全保障政策は現状として米国の東アジア政策と不離一体になっているので、いままでの自衛隊の南西シフトを改め北海道・東北に自衛隊を重点配備し直してロシア封じ込めの一翼を担わせるとともに、中国敵視を隠さなかった安倍政権以降のスタンスを改めることになるのであろうか。今点、非常に気になるところである。
中露関係、米中関係、そして日中関係について、書きたいことは種々あるが、これらは次回にゆずることとして、今回の雑感はここまでとしたい。
日本における新型コロナ対応について、最早、日本の統治機構はここまで劣化したかと慨嘆せざるを得ない。
世界最先端の医療技術があるにも係わらず、トランプ政権下で新型コロナ対応についてメタメタと思われたアメリカ、罹患者が急増しアメリカに負けず劣らず新型コロナ対応について駄目かとおもわれていたジョンソン政権下のイギリスは、本ブログを書いている段階で新型コロナによる痛手から急回復しつつある。(アメリカ(参考:NHK報道)イギリス(参考:FNN報道))。
アジアに目をむけると、新型コロナで右往左往しているのは東アジアでは北朝鮮と日本だけという体たらくである(中国:(参考:NHK報道)韓国(参考:中央日報日本語版))。かつて、アジア雁行型発展の先頭に立っていたとして、アジア諸国のお手本になっていた日本の姿は、もう今の日本には無いと断ぜざるを得ない状況である。
日本の新型コロナ対応の何が駄目かと言えば、拙ブログで9月に指摘(参考:支離滅裂な安倍政権の新型コロナ対応2)した事項ではあるが、①そもそも検査を幅広く実施すべきなのに、検査対象を何故か絞ったままであることに加え、②特に重症患者の受け入れ可能な医療施設整備不十分、③ワクチン確保及び確保した後の接種態勢が不十分という問題点がここ最近秋あらかになったところである。
政策・施策とは畢竟人がすることなので、日本国政府は何から何まで先読みし、完璧にやれとは言わない。しかし、日本の新型コロナ対応が救い難いのは、この一年間、他国を先行例として研究し、十分な対策を行う時間的余裕があったにも係わらず、現在の惨状であるということにある。この根本原因を考えると、無理を承知で何でもゴリ押しして強行突破を図っていた、第2次安倍政権の政治手法が日本の統治機構を毒したとしか言いようがないであろう。国内政治の場面でしか通用しないこのやり方を、自然科学の領域である感染症対策に、現在の政府が準用したことに日本の悲劇があると言える。
自民党総裁が替わっても政治手法が変化しないのであれば、新型コロナ対応を他国並にするに、日本社会が取るべき方策は政権交代以外無いということが結論になろう。
前ブログで「保守」について種々論じたが、もう少し簡単に考えると、大きく日本人がイメージする国家像は下記の3分類があるのではないかと思う。①アジア・世界に冠たる「大日本」②商業により国家・社会の発展を目指す「商業立国日本」③国力・国情に応じて部相応の国際的地位に甘んじる「小日本」
これらは明治以降日本に存在した考え方であり、何も戦後特有ではない。①の立場に立つ代表的人物としては福沢諭吉がおり、②は渋沢栄一や新渡戸稲造、そして石橋湛山もこの系譜に属するであろう。③としては夏目漱石がその代表であろう。それぞれの著作を読めば、この点を理解できる。
戦後日本は、軍事的にソ連に対抗すべくもなく、所謂西側陣営に属し、②を追求してきたといえる。よって、戦後保守と言えば②のことであろう。他方、昨今保守を称している者達は①の立場に立ち、②や③の立場の者に種々攻撃を加えているという構図であると見る。①が保守と主張するのは、無理筋というのが私の見立てだが、彼らにしてみれば②は経済「大国」であるうちは是認できたが、中韓の経済的興隆により「大国」を主張し得なくなってきたことから、韓国・中国を敵視することにより大国意識を保っているのであろう。そしてアベノミクスなるかなり無理のあった失敗する運命にあった経済政策にすがり、再度「大日本」の再興を期したというところではないだろうか。「大日本」に弱者は存在してはならず、そのような者達は斬り捨ててしまえというのが、彼らの考えなのであろう。
いずれにせよ、日本国民というか人々を如何に幸福にするかという考えとは程遠い方々であり、こういう考えの方々が社会で影響力を振るっていることは、日本社会の不幸であると感じる次第である。
昨今、日本社会において「保守」という言葉が乱用されていると感じる。感じるというのは、単なる排外的主張をしている者も「保守」と称しており、そもそも、戦後どころか軍部の発言力が異常に高まった1930年以降を除いた戦前日本の外交路線を否定するような発言をしているアホな政治家や評論家と称する者達が、保守を自称するような状況が発生しており、それに言論界・政界から批判の声があまり上がらない状況は、まさに「保守」という言葉の乱用であろうと思うからである。そこで、今回のブログでは、日本における保守及び保守的な政策とは何であるかということについて論考してみたい。
そもそも保守とは何かであるが、本ブログでは、18世紀の英の政治思想家であるE・バークの考え方に則って論考する。E・バークの考え方とは、畢竟、「従前の制度には、祖先の叡智が堆積している。」「これを不完全な存在である人間と言う存在の理性により否定するのは危険」というのがその考えであると、私は理解しているので、以下これを前提に話を進めて行く。
日本における保守を考える上で主要な論点となるのは、①社会のあり方②経済政策③安全保障であろう。保守と言えば歴史観を言い出す手合いがいるが、私に言わせれば①の社会のあり方のスピンオフである。よって、歴史観についてはそこで言及したい。以下、上記①から③について日本社会に存在する対立軸を出しながら、①から③関する保守とは何かについて述べて行く。ここで難しいのが、①から③は相互に密接に関係しあいうことである。若干議論を前倒にすると、移民政策について①の観点からは保守ではなく、②の観点からは保守的と言えるということである。こういう点については、以下、論考を進める上で言及するが、本ブログを読んでいると混乱してしまう可能性もあることから、あえて本パラグラフで言い分け的に触れさせてもらった。
まず、①社会のあり方についてであるが、対立軸の極を書くと、最も右に、国家・社会を一つの共同体(共同体という言葉が難しければ家族と読み替えてもいいと思う)と見なし、そこに所属する者は同質な者であり、結果として同質な者から構成される集団内の秩序が維持されるという考え方がある。最も左の極に社会を構成しているのは個人なのであるから、国家・社会は個人の自由を最大限尊重し、個人の行動に制約をかけるべきではないと言う考え方があろう。今の日本社会においては、これらの極を採用する集団は政治的に大きな力とはなり得ず、アナログ的な表現になるが、これらの極のどちらに近いか・遠いかが、政治家や評論家の主義主張の相違点になっていると言える。
では、社会のあり方に関する、従前の政策はどうであったのかと言うと、日本社会について単一国家・単一民族論を前提に、日本社会は一つの共同体であると言うことを暗黙の前提とし、国籍については出生地主義をとらず、帰化要件を厳密にし、社会の構成員の同質性を努めてたもちつつ、個人の権利・行動の自由を最大限尊重しようとするものであろう。よって、①の観点で言えば、移民について懐疑的・否定的な見解は「保守的」といえるのであろうが、在日コリアンは日本から出ていけ、在日中国人を追い出せ等の見解は、個人の権利・行動の尊重から逸脱するものであり、どうみても「保守」とはいえず、あえて表現するなら排外思想としか言いようがないであろう。
なお、戦前・戦中日本を賛美する方々の多くは、上記で言えば右の極に近い立場をとっていると思われる。彼らにしてみれば共同体の神話である歴史に、己の祖先の汚点があってはならず、その立場から過去の日本を否定的に捉えようとする動きに宗教的な情熱をもって反駁を加えているのではないかと、私は評価しているところである。
次に②の経済であるが、ここでも両極の思想を提示し、これに関する距離をもって日本の保守とは何かについて論じる。無論、現実に影響力を有する治勢力の主張は、それら両極の間にあるのは先に指摘したとおりである。以下、本題に入るが、最も右に夜警国家観というか、素朴な古典的自由主義、つまり経済活動への国家の介入を否定するもの、最も左に経済活動により生じる社会構成員間の経済格差を無くす、つまり徹底した富の再配分による経済的格差の生起を公共セクターの力により防止・解消するという考え方を据え、従前の日本はどうであったのかという事を考えると、ここで戦前と戦後の捻れが出てくる。戦前は、右の極に非常に近い社会であり、戦後は現実として資本主義経済下、国民間の経済格差はあるものの、努めて格差をなくする努力をする、つまり左の極を努力目標としていた社会であったと言っていいだろう。経済について「保守」を論じる際は、戦前社会を常態とみるのか、戦後社会を常態とみるのかで、何を保守とするかでまるで異なってくるであろう。ここでは歴史の連続性を重視し(そもそも、社会政策重視は総力戦体制を構築する上での戦前からの流れであり、戦後社会はその政策を継承したとも言える)、資本主義及び経済活動に伴う国民間の経済的格差生起を前提としつつ、国民間の格差解消を努力目標としてきた経済政策こそが、日本における保守的な経済政策であると本ブログでは規定したい。
上記のように、国民間の格差解消を努力目標としてきた政策を保守的な経済政策とするのであれば、自民党の片山さつきのように、格差を公然と肯定するような政治家やそれを主張する政治家・評論家が「保守」を称していること自体、おかしいといえる。この点は、上記①の社会のあり方について保守である人物が必ずしも経済政策について保守的ではないということから生じている可能性がある。つまり、日本社会を一つの共同体と考えることと、経済政策についてレッセフェール的に格差を是正する必要がないという立場が、一人の個人の中で両立しているということである。これは、個人的には驚天動地の思考なのであるが、そう理解するしか、片山さつき等格差を平然と肯定する自主保守の存在を説明できないと考える。従前は、国民共同体の一体性を醸成するため、格差是正施策がとられてきた。これはナチスドイツにおける各種社会政策を見るまでもなく、共同体を持するためには、成員の平等性が重要になることからも自明であると言えよう。ところが、本邦の国家共同体論に立脚していると推測される者達は、日本社会における格差を是認しているのである。こうした矛盾が「保守」を巡り近年噴出しているところが、本邦における政策論議を難しくしていると感じる。一例を挙げると、格差是正に否定的な事象「保守」の輩がいるとして、当該人物に「おまえのどこが保守なんだ?」と聞いたところで、本人は①の意味で保守だと称しているだけなので、会話が成立しなうということがSNS上でよく生起しているところに、本邦における政策論議を難しくしている背景があるのではないかと愚行するところである。
最後に、③安全保障であるが、これについても右の極に、日本は西欧諸国と伍してアジアの大国として屺立するという考え、左の極に日本は諸国と良好な関係を維持しつつ日本社会の繁栄を追求するという考えがある。これについても、①と②で述べたように、どちらか極端にぶれている主張は、現実的影響力を有する政治勢力で採用しているところはなく、どちらにウェイトをおいているかという程度の差であろう。戦後日本については、日米安保を基軸としている、経済面についてアジア諸国において圧倒的規模を有していたと言うことを前提として、左の極に寄った安全保障政策であったと言えよう。つまり、戦後日本の安全保障政策は米国の軍事力と圧倒的な経済力を背景に、周辺諸国と良好な関係を維持しつつ日本社会の経済的繁栄を追求するものであったと言え、これが日本の保守的な安全保障政策であると言える。この政策は、経済面で日本が大きな力を持っているという点で右の極に近い勢力もある程度是認しうる政策であったと言えよう。但し、安全保障政策については、これが保守的政策だから、近隣諸国に敵対的な事を主張する政治家や評論家が保守を自称するのはおかしいと完全に言い切れない面がある。当該政策の前提であった圧倒的な経済力が過去のものとなってしまったことに加え、米国の軍事的な東アジア関与も長い目で見れば怪しくなってきているということもある。事象面から言えば、周辺諸国との良好な関係を維持するのが保守的な安全保障政策であると言えよう。しかしながら、右の極に考えが近い人々は圧倒的な経済力に着目し、日本が圧倒的な力を東アジアで持つことが保守的な安全保障政策であると考えているのであろう。ここに、我が国の「保守的な」安全保障政策を論ずるところの難しさがあると感じる次第である。
なお、以下余談ではあるが、圧倒的な経済力も中韓が経済力をつけるに従い、これが本邦の安全保障政策の前提ではなくなったことのインパクトは殊の外大きいと感じる。そこで、周辺諸国と良好な関係を維持しつつ日本社会の経済的繁栄を追求するという従前の安全保障政策について、左の極の側面が21世紀に入り目立ってきたと言えよう。また、本邦の安全保障政策を語る上で日米安保が前提と言うことは、自主防衛・外交路線を指向した段階で保守と言えなくなってしまうということである。周辺諸国と良好な関係を維持しつつ日本社会の経済的繁栄を追求するという政策に対米自主路線が加わったのが、鳩山内閣ではなかったのかと考えている。
以上つらつらと書いたが、上記①から③について無自覚なまま、いずれか一つについて保守的な持論の持ち主が私は保守であると主張することにより話が混乱すると言うのが昨今の本邦におけるSNS等が荒れる原因の一つなのではないかと感じる、そもそも、上記①から③のどれをとっても保守と言いがたい者達、主に①及び③の右の極に近い者達が保守を自称しているのが実態なのではないかと考える。