先日の参議院本会議において、参議院環境委員長の川口順子氏が、私的な外遊を優先し、委員会開催 の職務を放棄したとして同委員長を解任された。
これに対し、川口議員は「私は、領土と主権を守り、日中関係を改善するという重要な国益を守ったことにより解任されたわけですので、国会の判断は間違っていると言わざるを得ません。」と反論している。
ここでは、①国会会期中の委員長の海外渡航は認められていない ②そもそも、中国外務省の招聘で行われている会合であり、既に相手の手の内に乗っている ③参院での職責は環境委員長であり、外交云々は職責外 ④私的な話で主権云々するほうがおかしい という、そもそも川口氏及び自民との主張が根本から間違っているということは敢えて問題にしない。
本ブログにおいては、川口氏のいう【国益】というものに焦点を充てて書きたい。
そもそも、国益とはなんであろうか。国益とは字義のとおり、「国の利益」である。一方、その対義語は何か。【売国】であろうか。売国とは国を売るということであるが、「国の利益」に対して国を売るでは対義語になりえない。
国の利益に対する対義語であるのだから、国益の対義語は国の損失を意味する【国損】が対義語として近いといえよう。また、国に対して個人の利益というところで【私益】も対義語となり得る。
さて、川口氏や自民党は、委員会の開催日に中国における私的会合を優先したことをもって【国益】と表現したが、では、国会における環境委員会開催は【国益】ではないのだろうか。また、中国の要人と会話することは、国会で環境に関する審議を行うことより重要な国益なのであろうか。
端的に言えば、国会における環境委員会開催は紛う事なき【国益】であるし、それが中国の要人と私的に会話することより重要な【国益】であるとは誰も判断できないであろう。
このように考えると、川口氏や自民党、そして一部メディア(産経新聞)が国益云々騒いでいたが、彼らは単に川口氏の行動を正当化するために【国益】という単語を使用していただけであり、川口氏が中国人と会話することの利益と国会における審議の、どちらがより国の利益であるかなどと言うことは、深く考えていないと言うことがわかる。
そもそも、国家議員、財界人、役人、言論人等、公のために活動する者で、凡そ国家のために働かず、私のために働いている、国家に害を与えようと活動している者がいるのだろうか。ここはほぼ断言して言うが、ほぼ全員が自分の行いは国のためになると思って行動しているといえる。公の場において国の利益より個の利益を優先しようとして行動している者、国に損失を与えようと行動している者はまずいない。ただ、疑わしい事例として、産経新聞の一部社員が国の利益というより、単なる魔女狩り的下品さをもって記事を書いているようだが、彼らにしても国のためと思ってやっているのだろうと、私としては理解している。
このようにみると、党派的見地、自己の主張へのこだわりから、自分の主張は国益、相手側は国益に反する、売国云々主張しているのが、世間一般における国益論議であるといえる。
経済政策による対立、安全保障政策に関する対立、人権に関する対立、種々対立の要因はあるが、ほぼ全員が「自分の行動は国のためになる」、つまり国益になると思ってやっているのであり、これに対し、売国、国益を損ねる云々言って見たところで、単に判断基準が違うとしかいいようがないであろう。
川口氏の事例からみてわかるように、【国益】論議は自分の思想・心情によりいかようにもなるものである。このような単語を用いて自己の行動の正当化を行うあたり、国の利益をどのように考えているのかと疑問に思う。さらに言うと、国の利益など余り考えず、自分の主義主張、考えこそ国の利益に沿っていると考え、そこで思考停止しているとしかいえないであろう。このような状況で発せられる【国益】なる言葉にいかほどの重みがあろうか。そのような状況において発せられた【国益】なる言葉には全く重みがない、軽い言葉になってしまってるといえる。
国益という言葉が、現在の日本において軽く扱われている以上、私は【国益】論議をみると、どうも眉に唾をつけてしまう。
私自身、仕事で国家行政の末端を担っているわけだが、私自身は、何かを考える上で考える基準は「公益」にすべきであると考えている。例えば、ある政策は社会・個人の改善・発展にどのように役立つのであろうか。ある政策を行うことによる社会・他人の損失は何か。このような基準である。
幸か不幸か、日本社会において民族・宗教による対立は顕在化していないため、ほとんどの場合において、国の利益と日本社会における利益は同一であると言える。
百人百様の見解があるにも関わらず、党派的見地で自己正当化の方便として発せられる【国益】という言葉の現代社会における使用状況を鑑みると、公人は【公益】という視点で者を見て、社会を見る視点が必要であると強く感じる次第である。