カイブログ2

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EUが負け、SWIFTが負け、 ……そしてドルが負ける。

2022-07-23 22:04:29 | イルミ

間違っていた。

2022-07-23 15:50:55 | 聖書
言が肉となった
1初めにがあった。言は神と共にあった。言は神であった。
2この言は、初めに神と共にあった。 
3万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 
4言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 
5光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
6神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。 
7彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。 
8彼は光ではなく、光について証しをするために来た。 
9その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。 
10言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 
11言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 
12しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 
13この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
14言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。 
15ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」 
16わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。 
17律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。 
18いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
 
洗礼者ヨハネの証し
19さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、 
20彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。 
21彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。 
22そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」 
23ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。
「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。
『主の道をまっすぐにせよ』と。」
24遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。 
25彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、 
26ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。 
27その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」 
28これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。
 
神の小羊
29その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。 
30『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。 
31わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」 
32そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。 
33わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。 
34わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」
 
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言とは言葉を現実化し真実とするイエスキリストを指す。
 
世はキリストの言葉で出来たが、世はキリストを受け入れなかったというのが正解で、以前ヨハネとキリストを勘違いして解釈してました。
 
ヨハネはキリストを証明する人ですが、キリストを洗礼した後に捕まり首切られ死亡。
 
 
キリストは天に戻った聖霊ヨハネを地に使わして、主への道をまっすぐにする任務を与えるが、
 
聖霊は聖書によると自由が許されていると書かれている。
 
つまり、してもしなくても良いとも解釈できる。