サン=フェリペ号の漂着以降、秀吉はキリスト教による日本征服を恐れて、バテレン追放令につぐ禁教令を発布。秀吉の命を受けた石田三成は京都や大坂にいた宣教師ら26名を捕らえました。
彼らは耳を切り落とされて市中引き回しにあい、長崎で処刑されることになります。当時長崎はキリシタンの町として栄えていたため、秀吉がキリスト教に寛大ではないことを示すのにうってつけの場所でした。
そして、1597年に26人は磔の刑に処されました。キリスト教の信仰を理由に、日本の最高権力者が信者を処刑したのはこれが初めてで、この出来事は「二十六聖人の殉教」と呼ばれています。
さらに1622年には二十六聖人の処刑が行われた西坂で、宣教師ら25人が火あぶり、その他キリシタン31人が斬首されるという「元和の大殉教」が起きました。
現在は温泉地として有名な長崎県の雲仙地獄では、その煮えたぎる熱湯を使用した拷問が行われました。
熱湯に漬けては引き上げるを繰り返したり、柄杓で掬った熱湯を少しずつかけていくという残酷極まりないものでした。雲仙は文字通り、地獄と化しました。
1637年、飢饉や重税、キリシタン弾圧に苦しんでいた島原・天草地方の領民約3万7000人が廃城となっていた原城に立てこもるという一揆を起こしました。島原の乱です。一揆軍のリーダーは16歳の益田四郎時貞。通称、天草四郎でした。
島原の乱が起きた島原はキリシタン大名・有馬晴信の領地であったため、キリシタン文化が栄え、領民ほぼ全員が熱心なキリスト教の信徒でした。
一揆軍は手強く、幕府軍は力攻めで城を落とすことは不可能と判断し、兵糧攻めにしました。その結果、88日目で原城は落城。女性や子供も含む、一揆軍は皆殺し。リーダーの四郎も討ち取られました。
権力者たちは、信仰を棄てろ、さもなければ拷問され、殺されると彼らに迫った。仲間のキリシタンたちは「火あぶりにされ、熱湯を浴びせられ、逆さ磔(はりつけ)、打ち首、水責め、浜辺に立てた十字架につけられたまま、満ち潮になぶられる」といった仕打ちを受けた。
犠牲者数は60万人以上という説がある。