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君が代 ヘブライ語

2024-07-28 22:12:23 | 聖書

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まず、旧約聖書の最後となるマラキ書の3章24節に注目してみましょう。旧約聖書の最後を飾るこの節には、「彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。私が来て、破滅をもってこの地を撃つことがないように」と書かれています。古代、イスラエルの預言者は、この世のもの、つまり天地は、いつしか滅び去るというメッセージを一貫して語り続けてきました。予言の内容については、聖書の中でも預言書と呼ばれる書簡の随所に収められています。しかしながら、信仰によって生きる民は、それらの災害から救われ、神によって贖われることも語られています。そして多くの民は、その教えを信じたのです。それ故、天地が滅びても、神が御顔を見せてくださり、救いの手が差し伸べられるから民は喜ぶという、証にも聞こえる言葉は、まんざら思いすごしではなく、君が代の最後の文脈にヘブライ語で綴られた、信仰告白のようなのです。

2つめの理由は、「ムシュマッ(ド)」という言葉に、キリスト信仰に関連する特殊な意味が含まれていることです。「ムシュマッ(ド)」の元来の意味は「破壊」です。しかしながら、イエスキリストの時代以降、キリストを信じるものと、その教えを否定してユダヤ教に徹する者とが激しく敵対していく最中、ユダヤ人の中でもキリスト教に改宗した人はいつしか、「ムシュマッ(ド)」、すなわちユダヤ人でありながら「破壊された者」として差別されるようになったのです。こうしてキリストを信じる「ムシュマッ(ド)」は、ユダヤ人から蔑視され、完全に仲間外れにされるようになりました。

もし、「君が代」の作者がイスラエルからの渡来者の末裔であり、キリスト者、つまりイエスキリストを信仰する民の集団であったとするならば、「ムシュマッ(ド)」という言葉が極めて重要な意味を持つことになります。すると、「コ(ル)カノ・ムシュマッ(ド)」が表面的には、「全地が滅びる」の意味に聞こえるものの、その真意としては、「全ての基礎はキリスト者」「全地はキリストにあり」、という本質的な信仰告白の意味が含まれていたことになります。この2重の意味こそ、「君が代」が語ろうとする真髄であり、「苔のむすまで」と歌うことにより、「全てはムシュマ(ド)」、「全てはキリストにあり」という熱い信仰の思いが告げられていたのです。

「君が代」の歌詞とは、神の選民であるイスラエルの民が、自らに託された使命を明文化した、力強い信仰告白のメッセージだったのです。「君が代」は、「神よ、立ち上がって来てください!」という祈りの叫びである「君が代は」(クムバヤハ)、という掛け声から始まります。そして「千代に八千代に」(チヤニ・ヤチヤニ)と呼ばれた「シオンの民、神の選民」は、神の大いなる恵みを受ける「残された民」として喜び、神の救いを祈り続けたことが、「細石の」(サッサレ・イシュノ)の意味です。その結果、「神は私に御顔を見せてくださった」という思いが、日本語では「巌となりて」(イワオティーニラタ)と語られたのです。そして、例え全地が滅びても、全ての基礎はキリストにある故、大丈夫という強い証の思いが、「苔のむすまで」(コルカノ・ムシュマデ)という言葉をもって表現されました。そこには、「全てはキリストにあり」という信仰告白の思いが込められていたのです。

「君が代」は、ヘブライ語で書かれた信仰の賛歌です。そこには、日本人、そして世界中の人が知るべき、素晴らしい救いのメッセージが記されていたのです。

君が代 ヘブライ語
神よ、立ち上がって、来てください
シオン、神の選民! 残りの民は喜び、救いを待ち望みます!
神が御顔を見せてくださる
すべての基はキリストにあり

 

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君が代は神の城へ入る選民に対しての歌であって、日本国民に対しての歌ではない。


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