今日のみことばは「神が地上に住まわせた御霊をねたむほどに慕っておられる」と書かれています。この愛はどれほどのものでしょうか。この一文を言語本来の意味から言うと、「神は、その御霊があなた方の中で歓迎されることを、ねたむほどの愛を持って望まれる」と書かれています。「ねたむ」とは本来否定的な意味で使われる言葉ですが、ねたむほどの愛とは、どれほど強いものでしょうか。また、これほどの愛を持って望まれるとは、どれほどのものでしょう。
この、ねたむほどの愛を持って、主が望まれることは、「御霊が私たちの中で歓迎されること」なのです。聖霊様を歓迎するとは、どのようなことでしょうか。私はこの箇所を読んだ時、雅歌の2章14節が思い起こさせられました。
岩の裂け目、 がけの隠れ場にいる私の鳩よ。
私に、 顔を見せておくれ。
あなたの声を聞かせておくれ。
あなたの声は愛らしく、 あなたの顔は美しい。
聖書には御霊、つまり聖霊様は様々な表現で書かれています。
・柔和さの「鳩」(マルコ1:9~11)
・神との生きたかかわりをもたらす「息または風」(エゼ37:1~10)
・渇きをいやす生ける「水」(ヨハネ7:37~39)
・豊かな収穫をもたらす初めと後の「雨」(ヨエル2:23~31)
・結実の「露」(詩篇133:3)
・喜びをの「ぶどう酒」(ヨハネ2:1~11)
・力をもたらす「油」(使徒の働き1:8)
・純粋さと熱意の「火」(マタイ3:11~12)
ここから分かる通り、聖霊様は「鳩」と表現されています。雅歌の2章14節の「鳩」に「聖霊様」を当てはめて見るなら、下記のようになります。
岩の裂け目、 がけの隠れ場にいる私の「聖霊」よ。
私に、 顔を見せておくれ。
あなたの声を聞かせておくれ。
あなたの声は愛らしく、 あなたの顔は美しい。
聖霊様をねたむほどに愛しておられる天のお父さんは、イエス様を通して聖霊様を私たちに送って下さり、主を信じる私たちの内に住まわせて下さいました。この、私たちの内に住まわれる聖霊様を、天の父はねたむほどに愛しておられるのです。
しかし、私たちはこの聖霊様を岩の裂け目、がけの隠れ場に隠していないでしょうか。つまり、聖霊様を尊ぶことをせず、自分のしたいこと、目の欲、肉の欲、暮らし向きの自慢という岩の裂け目、がけの隠れ場に隠してしまっていないでしょうか。
そのように、私たちが聖霊様を何かの岩の裂け目、がけの隠れ場にかくしてしまうなら、天のお父さんは隠されてしまっている聖霊様に「顔を見せておくれ。声を聞かせておくれ」と願われるのではないでしょうか。
エペソ人への手紙4章30節には下記のように書かれています。
「神の聖霊を悲しませてはいけません。 あなたがたは、 贖いの日のために、 聖霊によって証印を押されているのです。」
では、聖霊様を私たちのうちに歓迎し、尊ぶにはどのようにすればいいのでしょうか。それは、今日の聖書の箇所に続くところに書かれています。
<ヤコブの手紙4章6-10節>
しかし、 神は、 さらに豊かな恵みを与えてくださいます。 ですから、 こう言われています。 「神は、 高ぶる者を退け、 へりくだる者に恵みをお授けになる。 」
ですから、 神に従いなさい。 そして、 悪魔に立ち向かいなさい。 そうすれば、 悪魔はあなたがたから逃げ去ります。
神に近づきなさい。 そうすれば、 神はあなたがたに近づいてくださいます。 罪ある人たち。 手を洗いきよめなさい。 二心の人たち。 心を清くしなさい。
あなたがたは、 苦しみなさい。 悲しみなさい。 泣きなさい。 あなたがたの笑いを悲しみに、 喜びを憂いに変えなさい。
主の御前でへりくだりなさい。 そうすれば、 主があなたがたを高くしてくださいます。