国鉄があった時代blog版 鉄道ジャーナリスト加藤好啓

 国鉄当時を知る方に是非思い出話など教えていただければと思っています。
 国会審議議事録を掲載中です。

国鉄労働組合史 178

2011-05-23 10:00:00 | 国鉄労働組合史

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第三章 分割・民営化攻撃の本格化と国労闘争

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第九節 国鉄改革法の成立と国労本部方針の揺らぎ
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├○ 二 第四九回定期全国大会(千葉)の「大胆な妥協」方針の提起 │
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 「労使共同宣言」の締結以後、国鉄当局と「宣言」締結組合の一体となった国労攻撃が本格的に展開され始めた。国労脱退者による真国労の結成により、国鉄改革推進グループはその勢力を徐々に拡大していった。「宣言」締結四組合は当局や運輸大臣のテコ入れもあり、結束を強めだし、86年7月18日に「改革労協」を結成した。当局は、余剰人員対策を実施して派遣、休職をはじめ希望退職の募集、新たに広域異動などを通じて強圧的職員管理を推進し、86年7月初めに「人材活用センター」を設置して多くの国労組合員を収容した。 総評の第75回定期大会が7月15日~18日の4日間開かれた。この大会では「労働戦線の全的統一構想案」を提出したように労働戦線の統一を推進する方向を決定することと、もう一つの重要議題が「国鉄再建闘争」であった。
86年度運動方針では、2月の臨時大会の方針で掲げられた「国会闘争の強化」「総対話運動と11月ダイヤ改定闘争」に加え、「雇用闘争のとりくみ」が示された。それは、分割・民営化による18万5000人体制に反対し、解決可能な雇用対策は社会党案しかないことを認めさせていくことである、としていた。方針提案において真柄事務局長は「社会党案の旗は降ろしませんけれど、状況的に難しいということを判断しつつ、・・・・・・雇用、組織を絶対に守る」と述べた。つまり、分割・民営化反対の方針を掲げるのが困難な状況になった、という総評方針であった。
 衆参同日選挙での自民党の圧勝も加わり、国労を取り巻く情勢は厳しさを一段と増した。かかる状況のなかで、国労第49同定期全国大会が7月22日から4日間、千葉市で開かれた。初日冒頭の委員長挨拶のなかで山崎委員長は「国労としてここ2、3カ月がもっとも大切な時期である。いまやらねばならないと判断したときは、大胆に機敏に決断する塗意である。やってから、なぜそうしたのか、理由を付して機関と全組合員に明らかにする。急速な変化に機敏に対応しなければ、雇用と組織は守れない。このことなしに『旗』を掲げることはできない。雇用と組織を守る、この目的達成のため、戦術上の諸問題の決断は、当然とはいえ中央闘争委員会に一任していただきたい」と要請した。
 大会では、発言者のほとんどが本部一任問題にふれ、激論がかわされた。賛成派の代議員は「私どもは、選挙闘争こそまさに組織にとって、あるいは『分割・民営化』阻止の闘いを進める上で何にもまさる重要な闘いであると位置づけをいたしました。…1・しかし同日選は、国労・小林恒人は勝利しましたが、自民党圧勝という厳しい現実について、国鉄問題が未曽有の困難な状況を余儀なくされている、そういうことを意味しています。……この敗北は組合員の胸に重くのしかかっている態があります。……雇用安定協約のない現実と選別のおどしの中で、脱退した組合員は一人として国労を批判して去る者はいない現実があります。私どもは、雇用不安があり、みずからの生活保障を自分が防衛する、国労に期待する現状にないという判断が働いている事実をどうするのだろうかという点も考えなければならぬと思います。脱退した者で国労に大変世話になった者がおりました『大変申し訳ない。子供の今後のこと、年老いた両親のこと、もしも失業したらという不安感….:』、そして『許してほしい』とあやまられたときに、私は有効な対応ができ得ない現実がきわめて残念で、胸がしめつけられる思いでいっぱいでした。私たちは理論的教育宣伝はすることができても、現実課題として本人の生活保障を具体的に伝え、そして安心感を与えるという実態について、それをつくることが急務となっている現状を知っています。……なんといってもやはり雇用安定協約がほしい、そういう組合員の悲壮な声がある」( 札幌)と発言した。あるいは「雇用不安は極限」に達し、「暴走する車から命を守るため緊急避難は当然」との意見を述べ、本部の提案を支持した。
 反対派の代議員は、「私も全国大会に参加をする当日まで、実は動労と鉄労による組織切り崩し攻撃にたいして、支部内の職場の組合員と文字どおりひざを交えて討論をしてまいりました。動労・鉄労の脱退工作は、デマと中傷そのものです。たとえば、……『国労をやめて動労に来れば人材活用センターに行かなくてもいい。
国労にいればそのまま旧国鉄だよ。選別されるよ』という不安という不安を根こそぎ持ち出して、国労組合員の不安を増長させているわけであります。……しかし、この間の職場組合員の討論の中で組合員が一様にいっているのは『確かに雇用不安はある。国労にいれば選別されるかもしれない。雇用安定協約があれば安心するかもしれない。あるいは脱退者も出ないかもしれない。しかし労使共同宣言を締結しての雇用安定協約であれば必要ない。われわれは動労組合員のようにはなりたくない。あのような組合になってほしくない』といっています。『どの道を選んでも。時期が来れば選別される。だから国労が共同宣言に手を染めることだけはしないでほしい』このように大会参加をする当日まで私は訴えられてきました。……今日までの運動がそうであったように、闘いを背景にしない政労交渉や幹部の取引によって事が解決するような状況でないことは、本部を含めてだれもが承知しているはずです。だからこそ、われわれは5000万署名運動や駅の無人化、サービスの切り捨てやダイヤの改善など、職場と地域の広範な大衆闘争を結合して取り組んできたはずです。『分割・民営化』反対といって先頭に立って闘ってきました。その中で地元住民も一緒になって闘ってきました。……それを今度は、国労が『雇用と組織を守る』といって、その闘いの最前線から退却することになったとすれば、どのように見られるでしょうか」( 秋田) と本部の提案を批判した。あるいは、「後退や妥協で雇用は守れない」「分割・民営化反対で闘ってこそ雇用も組織も守れる」と主張し、提案に反対した。
 大会では国労分裂を避けるため、舞台裏の折衝が続けられ、次のような集約答弁で方針案を承認した。「雇用を確保し組織を維持するため、総評と密接な連携をとりながら、現実的に大胆な対応をしていく。この基本線に沿って対処するため大会は中央闘争委員会にその扱いを一任し、緊急・重要な課題の決定については、事前または事後に機関にはかることとする」。
 この決定により国労は、①あくまで雇用を確保し、組織を守ることを最重点課題とする、②このために総評の方針を支持し、全面的にその指導に従う、③組織の維持確立をはかり、組織戦を勝ち抜く、④雇用確保にあたり、いっさいの選別・差別の排除に向けて一丸となって全力をあげて闘うことになった。
 千葉大会直後、国労本部はマスコミなどにも参加を呼びかけて、「人活センター調査団」を九州、北海道に派遣した。当局はこの調査団をピケを張って阻止してきたが、その模様はテレビを通じて全国に放映された。

続く

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国鉄労働組合史 177

2011-05-22 10:00:00 | 国鉄労働組合史

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第三章 分割・民営化攻撃の本格化と国労闘争

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第九節 国鉄改革法の成立と国労本部方針の揺らぎ
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├○ 一 衆・参同日選挙での自民党の圧勝と国鉄改革法案の成立 │
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 国鉄改革法の成立

 選挙後、自民党は中曽根総裁の続投を決め、9月11日に臨時国会を開会し、25日に国鉄改革八法案再提出にともなう趣旨説明が行われた。9月15日に開かれた衆議院本会議において「国鉄改革に関する特別委員会」の設置を、賛成多数で可決した。
 国会に再提出された国鉄改革関連法案は、「日本国有鉄道改革法案」「旅客鉄道株式会社及び日本貨物鉄道株式会社に関する法案」「新幹線鉄道保有機構法案」「日本国有鉄道清算事業団法案」「日本国有鉄道退職希望職員及び日本国有鉄道清算事業団職員の再就職の促進に関する特別措置法案」「鉄道事業法案」「日本国有鉄道改革法等施行法案」「地方税法及び国有資産等所在市町村交付金及び納付金に関する法律の一部を改正する法律案」である。
 「日本国有鉄道改革法案」は分割・民営化の基本的な改革理念を盛り込む監理委員会の答申を忠実に条文化した法案で、87年4月1日に国鉄改革を実行し、東日本など旅客六会社と貨物会社を分離すること、新幹線については新たに保有機構を設立し一括保有して貸し付ける、現国鉄は新事業体を分離した後、清算事業団となり、北海道、四国、九州の三旅客会社については経営安定化のための基金を設立する、という内容であり、国鉄分割・民営化の基本法の性格をもっていた。
 「旅客鉄道株式会社及び日本貨物鉄道株式会社に関する法案」は、新設される会社の目的・事業や新会社設立の方法などが盛り込まれている。「新幹線鉄道保有機構法案」は東北・上越・東海道・山陽の四新幹線の鉄道施設を一括保有し、本州の三旅客会社に貸し付けることを目的とする保有機構について定めた法案であるが、整備新幹線は除外してある。日本国有鉄道清算事業団法案」は、長期債務の処理、国鉄の土地その他のしさんの処分などをおこなうとともに、新会社に不採用となった職員の再就職にあたることを目的とする清算法人を設立することを定めてある。「日本国有鉄道退職希望職員及び日本国有鉄道清算事業団職員の再就職の促進に関する特別措置法案」は、3年の時限立法であり、希望退職者と清算事業団職員の再就職を援助・促進することを趣旨としている。以上の五法案が分割・民営化の基幹法案である。 
 そのほかに、民営化した新会社と私鉄等を一括して規制する。「鉄道事業法案」と「日本国有鉄道改革法等施行法案」、「地方税法及び国有資産等所在市町村交付金及び納付金に関する法律の一部を改正する法律案」の3法律案が関連法案として提出された(法律の詳細は四章三章)。
 これらの法案は「特別委員会」で集中審議されることになり、9月25日から本格的な論戦が始まった。
 社会党は、前述した「非分割・株式会社化」の独自案を国会に提出し、国鉄の公共性維持を主張した。共産党は、分割・民営化に反対し、「要員削減で安全上の問題もでる」だけでなく、国民の交通権を確立するために公的企業として国鉄を維持すべきだと強調した。公明党は分割・民営化に賛成であるが、本州分割で二分割案を提唱した。民社党は政府案に賛成であった。
 衆参両院の国鉄改革特別委員会を中心とする国鉄改革法案の質疑時間は、衆議院で約56時間、参議院で約46時間であり、問題の大きさ、広さから言っても十分な論議がつくされたとは言えなかった。しかも、質問に対して政府が十分な答弁をしなかったり、明確な方針を示さず曖昧なままにした課題があった。新会社発足に伴って生ずる問題点を盛り込んだ付帯決議が特別委員会で法案とともに採択された。付帯決議の骨子は次の通りである。

 ① 国と各旅客会社は収支の改善を図り、地域鉄道網を健全に保全し、運賃の適正水準維持に努め、輸送の安全確保に万全  を期す。また、陸海空の交通環境変化に対応しうるよう総合交通体系の整備・確立を推進する。(②、③略)。  
 ④ 特定地方交通線については、地域社会経済に与える影響を慎重に検討し、自治体等と十分協議し、取り扱いを定める。
 ⑤、⑥略)。
 ⑦ 長期債務処理は各年度予算で的確な措置を講ずる。また旅客会社等の株式売却については公正性確保等で慎重な検討を行う。(⑧略)。
 ⑨ 国鉄職員の雇用と生活の安定を図るため、
イ、新会社の採用基準と選定方法は本人の希望を尊重し、所属労組で差別されぬよう特段の留意をする。
ロ、再就職職員の公的部門受け入れは改革実施前に一括採用を内定するよう極力配慮する。
 ハ、北海道、九州など再就職困難な地域では、できる限り新事業体で吸収するよう努める。
ニ、基本的賃金、労働条件については国鉄と関係労組とで十分協議するよう配慮する。
ホ、地域異動者に公的住宅の確保、高校の確保と転・編入の内申書による選考などの措置を講ずる。
 ⑩ 国鉄共済年金については89年度までの分は掛け金・給与に影響させることなく、国鉄の自助努力と国の責任で処理するよう86年度中に財源措置の結論を出す。
(⑪、⑫、⑬略)。
 そして、86年11月28日、参議院本会議において国鉄改革八法案は、自民党、公明党、民社党、新政クラブ、サラリーマン新党などの賛成によって成立した。

続く

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国鉄労働組合史 176

2011-05-21 10:00:00 | 国鉄労働組合史

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第三章 分割・民営化攻撃の本格化と国労闘争

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第九節 国鉄改革法の成立と国労本部方針の揺らぎ
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├○ 一 衆・参同日選挙での自民党の圧勝と国鉄改革法案の成立 │
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 衆・参同日選挙で争点となった国鉄の分割・民営化

 第104通常国会の会期末目前の5月21日、衆議院の定数是正法案が衆議院を、22日には参議院を通過したことから、中曽根首相は自民党の安定多数を獲得することを狙い、国会解散による衆・参同日選挙に打って出た。参議院選挙は6月18日に総選挙も21日に公示されいずれも投票日は7月6日となった。
 国労にとって、この選挙は極めて重要な闘いであった。国鉄改革法案は廃案となったが、選挙後の臨時国会に再び提出してくることは確実であり、選挙結果いかんで国鉄改革法案の帰趨が決定するからであった。国労は中央闘争委員会の名で、概略次のような檄を発し、全組合員とその家族に訴えた。
  「この選挙戦は国労がこれまで経験した以上に大切な闘いである。分割・民営化反対、雇用確保の闘いの正念場は次期特別国 会であることから、選挙後の勢力分野いかんは国会審議の帰趨をけっすることになる。なんとしても敗北は許されない。われわれは『闘うことなしに雇用は守れない』と主張して来た。い よいよその闘いの正念場がきたのである。全組合員が運動員となり、選挙戦に取り組むときがきたのである。衆議院13人、参議院3人の組織内候補はもとより、日本社会党の全員当選を
 果たすため、死力をつくそうではないか」。
 また、この選挙のもう一つの重大な争点に大型間接税の導入とマル優の廃止があった。中曽根首相は「大型間接税の導入は考えていない」と繰り返し強調したが、自民党の選挙公約である「減税の断行」を実施する財源は明確にされていなかった。
 中曽根首相は6月12日、選挙公示前の遊説先での記者会見において、「国鉄改革は行革の大眼目の一つであり、不退転の決意でやりぬく。私の責任においてやりぬくという固い決意だ」と述べ、自分の首相任期中に分割・民営化法案の成立をはかることを明らかにした。また、会見のなかで首相は「選挙が終わって国会を開いたら、できるだけ能率的にやって、効率的な集中審議というやり方で国会審議を行わなければならない」と語り、臨時国会で87年4月1日に分割・民営実施のために法案の再提出と集中審議による早期決着の構えを示した。
 こうした発言で国鉄問題がダブル選挙の重大争点に位置付けられたことから、国鉄分割・民営化反対の主張を主権者の権利行使(投票)の形で表明しようという運動が進められた。この運動には、「国鉄分割・民営化に異議あり!市民ネットワーク」や各地のローカル線を守る住民組織など市民・住民団体が中心となり、「国民の足を守る中央会議」や全交運、総評などの協力で始められた。正式名称は「国鉄ローカル線を廃止し21世紀への鉄道の未来を閉ざす政治家に投票しない主権行使運動」であり、事務局は6月10日に発足した。
 国労組合員の選挙活動に対し、国鉄当局は掲示板の規制、勤務の締め付け、人材活用センターの設置による活動妨害、関連企業を通じての関連企業労働者への圧力など、さまざまな妨害行為で国労組織内候補の当選を阻む行動を続けた。
 7月6日に投票が行われた衆参同日選挙は、自民党の圧勝、社会党の惨敗に終わった。自民党は無所属候補の復党を含めて304議席を獲得したのに対し、社会党は解散時の109議席を下回り、85議席となった。また、参議院でも自民党は改選時の63を72議席に増やしたのに対し、社会党は改選数の20議席を維持したにとどまった。国労の組織内候補は、衆議院選挙では小林恒人、戸田菊雄、広瀬秀吉、沢田広、山下八洲夫、永井孝信、緒方克陽、新盛辰雄の八氏が当選したが、斎藤一保、下平正一、富塚三夫、横山利秋、児玉末男の五氏は落選した。また、参議院選挙では瀬谷英行、青木薪次の二氏が当選したが、羽田野尚氏は落選した。この結果、臨時国会に再提出されることが確実な国鉄改革法案は成立の見通しが強まり、国労にとって厳しい状況となった。

続く

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国鉄労働組合史 175

2011-05-20 10:00:00 | 国鉄労働組合史

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第三章 分割・民営化攻撃の本格化と国労闘争

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第九節 国鉄改革法の成立と国労本部方針の揺らぎ
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├○ 一 衆・参同日選挙での自民党の圧勝と国鉄改革法案の成立 │
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 社会党の国鉄改革法案と国労の選択

 1986年1月26日に二つの国鉄改革法案の骨子が発表された。一つは、政府による監理委員会の「最終答申」を具体化した法案であり、もう一つは、社会党の非分割・株式会社化を内容とする法案であった。
 社会党案の骨子は、
 ①新会社は「日本鉄道株式会社」とし、全国ネットワークを維持する、
 ②会社の株式の7割を国が保有し、国からの特別助成を事業の公共性によって受ける、
 ③学識経験者・経済界・労働界・利用者代表などから成る経営委員会を設置し、経営の基本方針などを決める、

などとなっていた。総評は、2月5~6日の臨時大会において、社会党の「日本鉄道株式会社法案要綱」を「原点とし、院内多数派工作をおこなう」との方針を決めた。大会で発言した国労の代議員は、「社会党の法案は支持する」との意見を述べた。
 国労はこの見解を3月17~18日の拡大中央委員会にはかった。中央委員会の方針案では「社会党案が政府の国鉄解体法案を廃案に追い込む目的をもって策定されたものとしてとらえ、これを支持する」とあった。方針案討論のなかで「同法案は基本的に国労の大会決定の方針と異なるところがあり、支持は路線転換だ」という反対意見もあり、はげしい論議をよんだ。本部側の総括答弁では「社会党案は各論で国労の政策要求と異なる部分もあるが、大綱では合致するといえる。限られた時間の中で急速に世論を喚起し、多数派の形成を急ぐ必要がある。この最中にも分割・民営を既定のものとして、強行する合理化、雇用の危機の深化がある。
一刻の猶予も許されない非常事態だ。解体法案を廃案に追い込むため、本中央委員会で社会党案支持の完全に意思統一したい」と述べ、賛成多数で原案どおり方針が決定された。
 3月3日、政府は国鉄改革法案を国会に提出し、4月1日に関連9法案のトップを切って国鉄の長期債務の負担軽減と職員の希望退職促進する「61年緊急措置法」の趣旨説明を行った。この法案の骨子は、
 ①国鉄が国の資金運用部資金から有利子で借りている債務を一般会計に振り替え、無利子で貸し付けた形にする、
 ②希望退職に応じた国鉄職員に対し給与の約10ヵ月分を上乗せする、

というものであった。この法案の審議が先行し、5月21日に成立した。5月22日の国会閉会により他法案は継続審議となったが、6月2日に臨時国会が招集され、即日解散となったため廃案となり、選挙後の臨時国会に再提出することとなった。

続く

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国鉄労働組合史 174

2011-05-19 10:00:00 | 国鉄労働組合史

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第三章 分割・民営化攻撃の本格化と国労闘争

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第八節 監理委員会最終答申前後の賃金、労働条件をめぐる取り組み
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├○ 四 期末手当支払い基準改悪反対闘争 │
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 国労当局は、1986年5月27日に、毎年3月に支給される期末手当の支払い基準について、この年以降は勤務成績に応じて個人差を付けた支給基準を行いたいという提案を、正式に提案してきた。この新提案は、すでに当局が1986年3月の段階から示唆していたのであるが、その内容は以下の通りである。

  ① 欠勤については欠勤日により10%、40%、70%の三段階に分けて減額する。
  ② 病気欠勤については病欠日数より5%、10%、15%、20%の四段階に分けて減額する。
  ③ 「勤務成績が優秀な者」については5%増とする。「良好でない者」は5%減とする。(③の 対象人員は10%とする)
    (なお、欠勤日数については「期間率」を設ける。すなわち、年休や公休を 除く欠勤日数が 半年間で4日~30日以内は10%の減額。31日~90日 は40%の減額、91日以上は70 %の減額とする)

 この当局提案にたいして、国労は、「昇給昇格」差別の上に、さらに勤務成績を理由として差別を助長する労務政策であると反発した。そして、27日の交渉では、次のような主張を展開し、当局の再考を求めた。
  「国鉄には、すでに「信賞必罰」の制度がある。にもかかわらず、国鉄問題 が重大局面を迎えている時期に、労使の不信を拡大するような提案はすべき ではない。
  当局による雇用安定協約の締結拒否や差別昇給など、国労とその組合員に 対する不当な攻撃がなされている現状で、この政策の公明性・公平性を期待 することはできない。
 国鉄労働者の低賃金を前提とすれば、期末手当は生活給であり、生活給に 格差をつけるべきではない。
 当局提案では、10%の枠を設けているが、国鉄労働者を〝よい子?〝悪い子?に区別するものである。
 これまでの支払い方法(一律方式)は安定しており、信頼関係に裏づけられていた。これを変更する必要はない。」
 さらにまた、国労本部は、5月31日には「期末手当の支払いに関する申し入れ」を国鉄当局に手渡した。そして、この「申し入れ」のなかで国労の方針が具体的に示されたのである。そこで、その内容を紹介しよう。国労の主張は、
①現場長の恣意的な判断基準となる「勤務成績」という査定を除外し、「期間率」だけを基準とすること、
②「期間率」による減額は最小限にとどめること、
③新たな制度による期末手当の支払いについての「調査期間」は協定締結以降のものとすること、
④新制度については周知徹底をはかる必要があるので、変更は年末手当以降とすること、というものであった。

つまり、国労の主張は、現場長の恣意的判断によって賃金に個人差がつけられたり、各現場長の判断で相異が生じるような基準は認められないし、このような制度は正しい職員管理手段ではないというものである。そして、「期間率」などの客観的で公正な基準と軽微な経済負担による制度を要求して、交渉を続けた。 しかしながら、6月2日には、鉄労、動労などの四組合が当局提案を認めて妥結した。そのために、国労組合員を除く四組合への夏季手当の支払いもあり得る状況となった。このような事情を考慮して、国労は当局との交渉で、「個人の思想信条や感情、または所属組合を理由に成績率の適用はしない」との当局の見解を引き出した段階で妥結を余儀なくされた。その結果、国労が主張してきた成績率の排除にはいたらず、6月7日に妥結した。

続く

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国鉄労働組合史 173

2011-05-18 12:58:12 | 国鉄労働組合史

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第三章 分割・民営化攻撃の本格化と国労闘争

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第八節 監理委員会最終答申前後の賃金、労働条件をめぐる取り組み
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├○ 三 一九八六年春闘 │
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 1986(昭和61)年1月28日に開かれた第145回拡大中央委員会において 賃金の引き上げ、労働時間の短縮、大幅減税など、制度・政策要求の前進を通して生活の維持・向上をめざすと同時に、反「行革」、「国鉄の分割民営化」反対、雇用確保の春闘として1986年春闘を位置づけて闘うこと、公労協、交通共闘を重視し、賃上げについては生活防衛から生活の改善、向上を勝ち取る、という基本方針が提起された。また、3月4~5日に開催された第73回青年部中央委員会(伊東)の活動方針では、86年春闘勝利に向けての具体的な闘いとして、

 ①生活実態の討議、要求討論を組織し、1人ひとりの闘う根拠を明らかにする、
 ②職場での賃金討議を広げ、全職場で学習会を組織する、
 ③スト権確立投票で100%態勢をはかる努力をする、
 ④県評、公労協、交通、地区労における今日までの交流を大切にし、地域春闘、統一闘争をつくりあげる、などの方針が打ち出された。

 ちなみに、前年の10月に国労が実施した「生活実態と賃金要求額」に関するアンケート調査の概要を紹介しておこう。この調査は、札幌、秋田、高崎、東京、長野、米子、熊本の7地本で回収された調査票によるものである。それによれば、 毎月の赤字額 国鉄からの収入だけを基準とすれば、5万円以上(18・8%)、3万円以上(18・7%)、2万円以上(13・3%)、 借金の理由 家具・自動車などの購入(46・0%)、住宅、土地購入(39・8%)、生活資金(29・8%)、教育資金(9・4%)となっている。また、 共働きの理由 妻の収入が必要(80・1%)、子供の教育費(39・7%)、住宅ローンや借金返済(38・3%)、 暮らし向きについて、よくなった(1・4%)、変わらない(25・3%)、悪くなった(70以上%)となっている。
 このような組合員の生活実態調査の結果もふまえて、国労は、3月17~18日の第146回拡大中央委員会において、1986年春闘における賃上げ要求を満場一致で決定した。その主な内容は、①1986年4月1日以降の国鉄労働者の基準内賃金を29000円(13・1%)の原資をもって引き上げること、②35歳、17年勤続の条件を有する標準労働者の基準内賃金を23万7000円とする、③期末手当は年間一括解決方式として、5・2ヶ月分を支払うこと、というものであった。そして、本部はこの組合要求を、3月20日に国鉄当局に提出し、次いで3月27日から具体的な交渉に移った。
 この間、1986年春闘は4月の第2週には春闘相場を決定する民間大手交渉のヤマ場に突入し、金属労協、私鉄、全電通などが4月9~10日に決着した。
 公務員共闘・公労協は、4月9日には「中央集会」(日比谷野外音楽堂)を開いた。国労は、この集会に参加すると同時に、86春闘と国鉄の「分割・民営化」の闘いを結びつけ、4月10~12日には全国統一行動として全組合員のワッペン闘争を組織した。
また、10日には、「本社前抗議集会」を行い、11日には都内主要駅頭での宣伝活動、国会運輸委員会の傍聴、社会党、共産党議員への要請、激励行動が行われた。
 こうした動きのなかで、4月14日には、総評・公労協等の8団体(総評・同盟・中立・新産別・全民労協・公務員共闘・公労協・全官公)は、JC回答などにより春闘相場が出そろった後に政労交渉に移った。政労交渉では組合側は、

 ①有額回答の早期提示、
 ②公企体等労働者の賃金水準の格差是正、
 ③仲裁裁定の即時完全実施、
 ④人事院勧告の完全実施などの要求を主張した。

同時に、総評・公労協は、国鉄に関しては業種による格差回答が提示される状況をも予想して、「各公企体の有額回答にあたっては格差をつけない」ように要請した。この政労交渉の結果をふまえて、4月18日に、国鉄をはじめとする公企体当局から具体的な有額回答が提示された。国鉄については、1098円(0・5%)の引き上げ、定昇込み6041円(2・75%)の回答であった。ちなみに、この0・5%の有額回答は各公企体とも同率であり、有額回答での格差回答は阻止することができた。しかしながら、国労は、この回答は昨年度を下回る超低額回答であり、国鉄労働者の生活や賃金の実態を無視した回答であると判断し、当面にたいして最高を促した。これにたいして、国鉄当局は、4月19日の交渉において、「昨日の回答は最終回答であり、再回答を行う考えはない」との態度を表明した。この結果、国労は当局との交渉の打ち切りを通告せざるを得ず、4月21日に公労委にたいして調停の申請を行った。こうして、1986年春闘の決着は公労委の調停に委ねられることとなった。
 24日深夜にいたり、9372円(定昇込み加重平均4・34%)の賃上げを内容とする調停委員長見解が提示された。しかしながら、この調停案にたいしては公社側、組合側がともに拒否したため、仲裁裁定に移行することになり6月3日に仲裁裁定が示された。この裁定の内容は調停委員長見解と同一であり、国鉄の場合には4429円(2・02%)となった。

続く

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国鉄労働組合史 172

2011-05-17 10:00:00 | 国鉄労働組合史

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第三章 分割・民営化攻撃の本格化と国労闘争

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第八節 監理委員会最終答申前後の賃金、労働条件をめぐる取り組み
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┌──────────────────┐
├○ 二 国鉄共済年金制度改悪反対闘争 │
└──────────────────┘

 国鉄共済年金制度を改正しようとする動きは、国家財政の再建を標榜した臨調答申のなかで、「国家負担の削減をはかるために現行年金制度の抜本的再検討の緊要性」が叫ばれたことから本格化することになった。そしてこの年金制度改革の動きは、第102回通常国会において、船員保険の廃止や基礎年金の再編成が行われたのに続いて、1985年末の第103臨時国会では共済年金法の改正として具体化されていったのである。これら一連の公的年金制度の改正は1995年度までに公的年金制度の一元化をめざす政府方針のもとで、「高齢化社会に対応する安定した年金制度の改正、年金制度間の格差是正、婦人の年金権の確立、全国民共通の年金制度の導入」の方向を実現していくための改革であった。
 このような年金改革の動きにたいして、国労は、第44回全国大会(1982年7月、東京・日比谷)以来、共済年金制度の政府方針に反対し共済年金の安定制を確保する闘いを組織してきた。
国労が政府方針に強く反対してきたのは、政府のめざす年金改革が、高齢化社会に対応する安定した年金制度をめざすものではなく、国民年金や厚生、共済年金の総体的給付水準を大幅に削減することによって国家負担の軽減をはかり、他方では、婦人の年金権の確立という名目で、国民年金への加入を義務づけ掛金を国民からもれなく徴収するものだからであった。
 こうして国労は、共済年金制度の改悪に反対し、国鉄共済年金制度の安定性を確保するために、退職者組合、家族会との共闘による署名活動、国会請願運動、本社集団交渉、中央統一集会への参加、学習会等の諸行動を積極的に展開してきた。また、総評、公労協との共闘を強化し、院内では社会党と連携して闘いを進めた。同時に、この闘いにおける国労の基本的方針は、国鉄共済年金財源の確保、制度の安定性の確保、職域年金部分およびみなし従前額方式の適用、スライド停止の解除等を重点要求とするものであった。
 この結果、先にも説明したように共済年金法は、1985年末の第103臨時国会で改正されたのであるが、政府原案は以下のように修正された。すなわち、
 ①政府原案については、スライド要素問題、職域年金部分の増額問題など部分的に修正させた。
 ②国鉄共済年金の財源確保問題および制度の安定性確保問題については、政府の統一見解を引き出した。
 ③職域年金部分(3階部分)の適用問題については、大蔵委員会と内閣委員会の付帯決議により今後の検討課題となった。
 ④いわゆる、〝みなし従前額保障方式の適用問題については、国家公務員、電電、たばこなど他共済グループから国鉄が支援(財調計画)を受けていることを理由に適用除外となった。
 ⑤財調計画で国鉄の自助努力として課せられている「スライド10%停止」の解除問題については、昭和61年4月1日以降退職を選択する者については、スライド停止解除となった。

 なお、国労は、当面の取り組みとしては、昭和60年度退職該当者等の高齢者の生活相談上からも必要であることから、今回の「制度改正」の内容等の徹底をはかり、年金財源制度問題等について次のような方針を決定した。

 ① 財政計画期間内に生じる不足金の確保問題のうち、「国鉄の自助努力」とされている部分については、共済掛金の引き上げ、スライドの停止延長、給 付率の切り下げ等個人負担方式は絶対に行わない。
 ② 1990年以降の制度のあり方、問題については、学識経験者と国鉄労働組合の代表を含む民主的機関を設置して検討すること。

続く

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国鉄労働組合史 171

2011-05-16 10:00:00 | 国鉄労働組合史

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第三章 分割・民営化攻撃の本格化と国労闘争

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第八節 監理委員会最終答申前後の賃金、労働条件をめぐる取り組み
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┌───────────────────────────┐
├○ 一 動力車・自動車乗務員の勤務基準の改悪反対の闘い │
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 自動車乗務員の勤務基準改悪反対の闘い

 動力車乗務員の勤務制度の改悪が国鉄当局のペースで実現した1984年4月から約8カ月後の12月17日には、当局は国鉄の自動車乗務員についても同様の勤務基準の改悪をめざして新たな提案を提起してきた。すなわち、当局提案の内容は、「法内超勤の導入」、「勤務内容の大幅な改悪」を目的として、「民間バス並み」の効率化を実現しようというものであった。これにたいして、国労は、

①法内超勤の導入にはあくまでも反対して闘う、
②交番作業基準の改悪に反対し、現行の労働条件の改善をめざし、中央・地方交渉を強化する、
③バス路線廃止反対運動の強化、
④他組合先行妥結の当局の策動にあくまで反対して闘う、

という方針のもとで、当局との交渉に臨んだ。労使交渉では、当局は1985年9月末をもって「有効期間の定めのない協定等の取り扱いに関する協定」に定める9カ月目に相当するとして、交渉期限を限定しつつ国労に当局案を押しつけようとした。また、国鉄当局の12ブロック分割構想が報道されたため、国労は、「国鉄バス分離、分割・民営化を(当局が)主張するのであれば、勤務の交渉をする意味はない」と強く抗議し、このために交渉が約1カ月間中断する状況も生まれた。さらに、当局は妥結時期は1985年9月末とするという姿勢を崩さず、しかも当局提案の基本部分は譲歩しないという強行姿勢を貫こうとしてきた。
 しかし、交渉の最終段階では、

①法内超勤については「40時間をクリアするもの」の明確化、
②準備時間35分でできない作業がある場合は、指定し加算する、
③待ち合わせ勤務時間を15
分から35分に修正、
④1日の労働時間11時間を「原則10時間は高速線、その他は現行どおり、例外は認める」こととした、
⑤実乗務時間は、当局の「8時間」を「6時間30分、必要なもの8時間」と修正、
⑥団貸し日最高キロ設定は地方協議で検討、
⑦予備勤務については、労基法第32条と施行規則26条を併用する、

細部の運用は地方協議で検討する、という内容で妥結した。

続く

労働基準法 第32条(労働時間)
 
 使用者は、労働者に、休憩時間を除き1週間について40時間を超えて、労働させてはならない。
2 使用者は、1週間の各日については、労働者に、休憩時間を除き1日について8時間を超えて、労働させてはならない。

労働基準法施行規則 第26条
 
使用者は、法別表第1第4号に掲げる事業において列車、気動車又は電車に乗務する労働者で予備の勤務に就くものについては、1箇月以内の一定の期間を平均し1週間当たりの労働時間が40時間を超えない限りにおいて、法第32条の2第1項 の規定にかかわらず、1週間について40時間、1日について8時間を超えて労働させることができる。
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国鉄労働組合史 170

2011-05-15 10:00:00 | 国鉄労働組合史

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第三章 分割・民営化攻撃の本格化と国労闘争

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第八節 監理委員会最終答申前後の賃金、労働条件をめぐる取り組み
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┌───────────────────────────┐
├○ 一 動力車・自動車乗務員の勤務基準の改悪反対の闘い │
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 改正案の提示と妥結

 だが先の確認によって動力車乗務員の勤務に関する交渉が直ちに進展したわけではなかった。実際、この問題を協議すべく設置された「内達専門委員会」においても、勤務条件の改善をめざす組合側と業務能率の向上を意図する当局側の主張が衝突して、合意点を見い出すことは困難であった。しかし1978年10月のダイヤ改正を契機として、ダイヤ改正交渉の場でこの問題が議論された結果、1981年末をメドに動力車乗務員の勤務制度を改正するという合意が成立した。
 この合意にもとづいて、1981年4月には国鉄本社内に職員局・運転局合同のプロジェクトチームが発足。当局サイドからの改正案の準備が進められた。そして、この改正案の大枠については、1981年9月に発表された国鉄の経営改善計画に関する説明のなかで関係組合にたいして提示されるに至ったのである。当局提案の骨子は、

①換算労働時間制の廃止、
②運用表作成にあたって、所定労働時間を超えて組むことの制度化、
③労働時間の構成要素の見直し、
④一継続乗務キロの延伸等ダイヤ作成基準の見直し、 
⑤異車種混運用の拡大等により、

労働時間の充実を図るとともに関係協定の総合化、簡素化を行うこととする、という内容であった。国鉄当局は、この内容をふまえて改正案を作成し、19
82年1月に関係組合に具体的提案を行った。
 さて、その後の労使交渉は、労使の予想通りに難航せざるを得なかった。というのも、所定労働時間を超えて乗務割交番を作成することや一継続乗務キロを延伸(1人乗務220キロ)するなどの労働時間延長に関する当局提案にたいして組合側が強力に反対せざるを得なかったからである。
 しかし、国鉄労使間の力関係は、この時期以降、当局側の優位へと移行しつつあった。いわゆる臨調・行革路線を推進する自民党政府のバックアップを背景として、国鉄当局は1983年7月には「協約改訂」の手続きを通告したばかりか、翌年の1984年には3月31日までには妥結したいという意向を一方的に組合側に通告してきた。その結果、1984年3月31日には鉄労と動労が当局提案を受け入れたため、翌4月1日には国労、全動労も当局提案の受諾を余儀なくされることとなったのである。

続く

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国鉄労働組合史 169

2011-05-14 10:00:00 | 国鉄労働組合史

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第三章 分割・民営化攻撃の本格化と国労闘争

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第八節 監理委員会最終答申前後の賃金、労働条件をめぐる取り組み
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├○ 一 動力車・自動車乗務員の勤務基準の改悪反対の闘い │
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 動力車乗務員の勤務基準の問題点

 1985年4月1日より、動力車乗務員の勤務制度の根幹を規定していた、いわゆる「内達一号」が労使交渉の結果改正された。
この結果、動力車乗務員の勤務制度の原則に大きな変更が生じることとなった。  
 この「内達一号」という特別規程が作成されたのは1948(昭和23)年であり、鉄道輸送の再建と効率化が要求されていた時代であった。このような時代状況を反映して、「内達一号」は、①業務能率の増進を図ることを目的とし、②実乗務時間をベースに、その他の附帯する作業時間を一定の割合で換算する(例えば、準備時間は二分の一、便乗時間は3分の一)こと、③換算作業時間の基準(5時間30分または5時間45分)を設け、交番表はこの基準にもとづいて作成する、④月間の勤務実績による換算作業時間が、基準換算作業時間を超える場合には超過勤務手当を支給する、という内容を骨子をした勤務制度としてスタートした。
 これ以降、この規程と関連して、国鉄労使間においては「1日平均基準換算作業時間」の性格をめぐって見解の対立が顕在化していった。つまり、「換算5時間30分が作業の限度である」とする組合側と、「拘束7時間30分の範囲内における能率手当ともいうべき超過勤務手当支給上の計算基準である」という国鉄当局の対立であった。そして組合と当局との見解の対立は、根本的には解消されることなく労使双方がこの基準にはある程度の幅があることを認めたうえで相互に譲歩することによってひとつの基準を黙認することで、この問題に一応の決着をつけてきたのであった。
 しかしながら、高度成長期には、動力近代化に伴い列車速度の向上や車両運用のロングランがすすめられ、乗務範囲の拡大や長距離乗務が現実のモノとなった。またこのような事態に対応すべく、「動力車乗務員の一継続最高乗務キロ及び同時間に関する協定(動労)」、「動力車乗務員の仕業及び交番作成に伴う労働条件に関する協定(国労)」(1961年3月及び10月)などのロングラン協定が結ばれた。また、その後には「動力車乗務員の乗務割交番作成に伴う勤務基準に関する協定(1965年4月)によってダイヤ作成基準が協定化された。
 こうして、動力車乗務員の勤務基準が複雑化し、国鉄の勤務制度のなかでも最も難解なものとなったので、右の諸協定を総合化し簡素化する必要が生じてきた。他方、組合サイドからも、「換算作業時間制」に関する解釈や、その他、①折返し待合せ時間の性格、②夜間換算、高速換算率の設定、③一勤務単位の超過勤務整理、④訓練時間の設定に関する改善要求が提出されるようになった結果、1974年11月に至って「動力車乗務員の勤務制度を抜本的に検討する」という確認が国鉄当局と組合側とでなされた。

続く

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国鉄労働組合史 168

2011-05-13 10:00:00 | 国鉄労働組合史

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第三章 分割・民営化攻撃の本格化と国労闘争

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第七節 国労攻撃の本格化と国労の反撃
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├○ 六 総評弁護団の調査活動 │
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 こうした攻撃に対し、国労は総評弁護団や社会党、共産党の協力のもとで一連の職場調査や職場における人権侵害、国鉄当局による不当労働行為摘発の運動に取り組んだ。かつて、1970年代においても、マル生反対闘争の一環として実施された総評弁護団の調査活動が現場管理者の不当労働行為の実態を暴露し、マル生運動の不当性を国民世論として形成していくうえで一定の役割を果たした。
 85年8月3日、国鉄の分割・民営化に反対する国労の闘争支援を決定していた九州総評弁護団( 谷川宮太郎団長) は「第一次国鉄人権侵害調査団」を編成し、長崎・熊本地区で調査活動を行った。
そして、8月6日の総括会議では、労働者の人権を侵害した管理者には「警告書」を送付する、ひどい人権侵害をした現場管理者は弁護士会人権擁護委員会への救済申し立てと損害賠償請求を行うことなどを確認した。なお、この職場調査で、長崎車掌区、同保線区、長崎駅を対象とした調査を行った際、長崎車掌区では、管理者が勤務中に不都合な行為があったとして2名の国労組合員に減給処分、2ヵ月以上の乗務はずしや反省文を強要した事実が確認された。また、長崎駅では、国労ワッペンの着用者には仕事をさせず、ワッペンをはずせと強要した事実も明らかにされた。
 85年10月20~31日には、社会党の国会議員と国労弁護国によって、東京、新橋、赤羽、全町等の駅と東京要員機動センター新橋支所、新宿保線区、豊田電車区、三鷹電車区などの職場を対象とした職場調査が行われた。この調査では、国労組合員から職場の実態についての報告を受けると同時に、国労組合員に対する不当労働行為についてそれぞれの職場責任者の追及を行った。
例えば、東京駅の調査では、①分会役員に対する強制配転、②ワッペン着用者に対する処分、③本人の希望のいかんにかかわらず行われた強制配転、などの問題を中心に、駅長をはじめ現場管理者を追及した。
 86年2月7日には、社会党国会議員を中心とする調査団が秋田の土崎工場を対象とした調査活動を実施した。この調査では、現場管理者が、①国鉄新聞や5000万署名運動のポスターを掲示板からはがしたこと、②点呼に応じないとの理由で配置変更をしていることや、③その他国労組合員に対する嫌がらせや脅迫的言動を行っていることに対して抗議を行った。同時に、秋田鉄道管理局に対しては、土崎工場の労務管理について厳しく抗議し善処するよう申し入れた。
 さらに、86年8月19- 29日の1○日間、国労と総評弁護団は社会党、共産党の協力のもとに職場調査を行った。調査内容は、①「合理化」が安全をどれだけおびやかしているか、②労働者、労働組合の諸権利は守られているか、③「人活センター」の実態、を中心とするものだった。なお、調査は19~21日は門司池本・22~29日は大阪、兵庫京都、静岡東京の各地方本部で実施された。調査団は国会議員、学者・弁護士、県評、地方議員から構成された。門司地本では、聞き取り調査に国労組合員40人が参加、職制の横暴ぶりや人活センターの実態が報止。された。京都梅小路貨物駅では管理者約80人が動員され、「業務に支障がある」との理由で組合事務所を訪問しようとする調査団の入構を拒否するという挙に出た。調査団は、「組合事務所は業務とは関係ない。本部、地本から来ているのに入構させないのは不当労働行為である」と激しく抗議・追及した。その後この職場から「人活センター」に
収容されている組合員から聞き取り調査を行った。
 これに対して、東京では、赤羽「人活センター」で聞き取り調査が実施された。この人活センターでは、国労組合員は現地での仕事ではなく、田端や上野での仕事に出向させられたり、当局が意図的に過員を作り出し必要な業務を外注に回しているという実態が報告された。東京要員機動センター新橋支所では、新橋駅の国労組合員に対して現場当局は一方的に機動センターに担務指定を通告し、本来の業務から外すといった状況が常態化しつつあるとの説明がなされた。
分割. 民営化直前の1987年3月2~3日には、社会党国会議員団と国労による北海道地方を対象とした「採用. 配属」に関する不当差別についての実態調査が行われた。また3月5~6日には九州地方を対象とした第一次調査も実施された。さらに、共産党も国労の要請に応じて3月6~7日には調査団を北海道に派遣し、10~11日には九州地方に調査団を派遣した。
 最後に、分割. 民営化後の87年7月13日には、青木宗色法政大学総長、中山和久早大教授、宮里邦雄弁護士など学者、文化人、弁護士一八氏の呼びかけで、「国鉄民営化に伴う国労差別実態調査」が実施された。この調査には、53人の学者、文化人、弁護士に加えて、労働組合や市民団体からも多数の人々が参加し、総勢187人の大調査団となった。調査団は4班にわかれ、東京・新宿・三鷹電車区、大井町・上野・荻窪の各駅、新幹線、要員機動センター、清算事業団など15分会の代表から聞き取り調査を行った。そして、同日の午後には調査の中間総括として全体の交流集会が総評会館で行われた。交流集会では、国労を脱退しなければ担当替えをするという脅迫や不当配属で組合役員. 活動家が根こそぎ本務を外されて職場を追われた事例、また、「出向」も一方的に実施され、人手不足から安全輸送が危機に陥っているという職場の実態が明らかにされた。これらの調査によって暴露された現場当局の明らかな不当労働行為は、関係機関への提訴を含む法的措置が取られた。また、調査の実施は、しばしば現場当局の妨害に直面し、その意味でも現場当局を追及する闘いの場とならざるを得なかった。
そして、これらの調査結果はマスコミ報道や社会党、共産党による国会での政府や国鉄当局追及に活用され、分割・民営化反対の世論を形成していく役割を果たした。

続く

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国鉄労働組合史 167

2011-05-12 10:00:00 | 国鉄労働組合史

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第三章 分割・民営化攻撃の本格化と国労闘争

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第七節 国労攻撃の本格化と国労の反撃
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├○ 五 普通課程特設職員研修科の教育・訓練と国労の反撃 │
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 国鉄当局の攻撃は、全国に「人材活用センタ-」という名称の「収容施設」を設置するだけに留まらなかった。企業人教育が、国労組合員を排除するような形で行なれたのに対して、普通課程特設職員研修科は、「人材活用センタ-」に収容された国労所属の活動家を主たる対象にして実施された。
 この職員研修は、国鉄の「分割・民営化」を目前とする1986年8月末以降、2回ほど実施されたが、第1回普通課程特設職員研修科に参加した活動家によれば、受講者全員が各地の「人材活用センタ-」から送られてきた人達であり、しかも、国鉄当局に「改悛の情」を示した、あるいは、国鉄当局側に「寝返る」のではないかと推測された、国労所属の活動家だけに対象者が絞られた。このような一部の組合活動家だけが選抜されて、この企業内研修に派遣された。
 国鉄当局の考え方は、「人材活用センタ-」に収容された国労所属の活動家であっても、「いささかなりとも、救える目のある職員は救ってやること、しかし、言っても聞かない職員はほっとくしかない。人活=清算事業団ではない、人活から救ってやる人を是非申告してほしい」というものであった。中野人活センタ-から参加した活動家の証言によれば、上司から「研修を受ければ何か良いことがある」という言質が与えられたという。ここで「何か良いこと」という言質が、国鉄の「分割・民営化」後にJRに残れるということを意味していたと想定される。        
 第1回普通課程特設職員研修科の教育研修カリキュラムによれば、第1に、このカリキュラムでは、「てんびんの詩」「それぞれの岐路」「未知に挑む」「八甲田山」などのビデオ鑑賞時間が設定されており、このビデオを見た後、受講者は小集団に分かれて討論を行うことが求められた。このような小集団活動での討論は、「自主研修」「職員意見発表会」と連動しており、民営化に向けての職員の「意識改革」「思想転換」を狙いとするものであった。
 第2に、この教育研修の後半部分は、AIA訓練(Adventure InAtitudes) という名の感受性訓練で占められた。これは「内観トレーニング」と連動するものであり、その狙いは受講者に対する接客態度の改善であった。つまり、人活センア-から派遣された受講者に、「望ましい接客態度とは何か」を反省させ、そのことを通じて将来のJR社員に「望ましい接客態度とは何か」を感じ取らせようというのである。
 第3に、入学当日から最後の日まで、毎朝必ず団体行動訓練が行なわれ、「国旗」の掲揚と体操が行なわれた。団体行動訓練とは「国鉄体操、指差確認、喚呼応答、基本姿勢等業務遂行の基本となる動作を中心とする」訓練であるが、その実はまるで軍事教練であるかのように、指導教官から「歩け」「進め」「止まれ」「右へ回れ」などの号令が繰り返され、そのたびに受講者は隊列を組んで号令にしたがって行動するのである。この団体行動訓練、「オープンロード」は、ビデオ「八甲田山」と連動しており、受講者は入学当夜に「八甲田山」を見せられた。この団体行動訓練の総仕上げは、8月の猛暑のさなかに箱根八里を縦歩する「オープンロード」であった。この軍隊の行軍にも似た「地獄の特訓」は、国労組合員のみならずマスコミの注目を集めた。多くのマスコミは、普通課程特設職員研修科の教育・訓練を「国鉄人活センタ-特訓」「企業人教育の一環」として批判的に取り上げた。
 結局、箱根八里のオープンロードは、ビラ配布、抗議集会等を組織した国労本部、国鉄闘争を支援する他労組、支援団体などの激しい抗議によって中途で中止に追い込まれた。
 なお、第2回の普通課程特設職員研修科の教育・訓練に対しては、国労は組合員への指導を強化した。なぜなら、第1回目の普通過程特設職員研修科への参加者の多くが、国労本部において国労バッジを付けて堂々と参加するように指導されたにも拘らず、三島駅に着いた途端に、国労バッジを付けるかどうかで意見が分かれ、結局、国労バッジを取りさって参加することになったからであり、また、この普通課程特設職員研修科の教育・訓練を受講したものの中から、国労を自ら進んで脱退するものが出たからである。
 このような事態を重視して、国労本部は、国労の活動家たちに対して国労バッジを胸に付けて入校するように指導した。国労バッジを着けて入校した国労活動家たちは、即刻、研修所所長から全員が放校処分に付されたが、国鉄当局は、事実上、第2回目の普通課程特設職員研修科の教育・訓練の実施を断念せざるをえないという事態に追い込まれた。


続く
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国鉄労働組合史 166

2011-05-11 10:00:00 | 国鉄労働組合史

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第三章 分割・民営化攻撃の本格化と国労闘争

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第七節 国労攻撃の本格化と国労の反撃
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├○ 四  人材活用センタ-の設置と国労の反撃 │
└──────────────────────┘

同時に、国労組合員をこの「強制収容所」に隔離・収容するやり方は、国民世論と国労組合員の怒りの一大契機ともなった。国労組合員の怒りと思いは、労使共同宣言を受諾し、これに署名しようという執行部提案を国労・修善寺大会において否決することにつながった。国労大会で多数の代議員が否決したことは、「理不尽・不条理には忽然と異義申し立てをしよう」「座して死を待つより闘って活路を開こう」「どんなに苦しくても仲間を売るまい」「労働力を打っても、良心まで、魂までも売ることはすまい」という、国労組合員がもつ不屈の精神の一端を示したものであった。そして、このような毅然たる決起は、単に国労所属の多くの組合員ばかりでなく、資本と闘う階級的な労働組合の発展を担い、それを心から願う多くの労働者たちに励ましと、勇気を与えた。
 この人材活用センターは、民営化に伴う人事異動の発令によって、87年3月10日に廃止されたが、その時点で、全国1400ヵ所、約1万8000人の規模であった。
 国労は、人材活用センターを使った攻撃に対し、裁判闘争も積極的に展開した。国鉄福知山人材活用センター事件で、京都地裁福知山支部は、87年2月26日、技術主任、技術係、車両検査長、事務係などの国労組合員らのセンターにおける作業内容が、「その必要性、有用性が必ずしも明らかではなく、申請人らの有する専門分野の技能活用されておらず、職種転換が明らかでない」ので、「本件発令は、人事権濫用で無効」とした。
 次に、人材活用センターでの刑事事件で無罪となった横浜貨車区の人活事件は、当局の謀略事件として、社会的にも注目され、厳しく断罪された。本件は、横浜貨車区に配属された3人の国労組合員らが、国労潰しを目的とする同センターの廃止、職場復帰を強く要求して、助役ら現場管理者と厳しく対立しつつ、闘っている中で生じた暴力事件であった。公訴事実は、助役らに対する暴行と公務執行妨害罪、不退去罪であったが、横浜地裁は、93年5月14日、無罪とした(一審で無罪確定)。しかも、当局、検察側が証拠として提出した録音テープから、管理者側の挑発の策謀まで暴露された。本件にかかわり、横浜地裁は94年2月1日、助役にたいする暴力行為を理由とした懲戒免職処分を無効とし、第一審判決までの賃金仮払いをも認め、国労および関係組合員らは全面勝利を得た(95年6月30日東京高裁判決でも支持)。3人の組合員らはJR復帰を求めて闘いをつづけている。(96年1月現在)


続く

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国鉄労働組合史 165

2011-05-10 15:00:00 | 国鉄労働組合史

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第三章 分割・民営化攻撃の本格化と国労闘争

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第七節 国労攻撃の本格化と国労の反撃
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├○ 四  人材活用センタ-の設置と国労の反撃 │
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 1986(昭和61)年7月1日、国鉄当局は、今後膨大になると予想される「余剰人員」に対し、「所要を上回る人数を集中的に配置して有効活用を図る」として、全国一斉に1010ヵ所に「人材活用センタ-」を設置した。「人材活用センタ-」は、それが廃止される1987年3月まで増設され、全国1440ヵ所に設けられ、約2万1000人の職員が隔離・収容された。これまで、修理工場だった廃屋を利用して設けられた横浜人材活用センタ-の場合、国民や市民の目を遠ざけるように、周囲は有針鉄線で囲まれていた。全国的規模で設置された「人材活用センタ-」は、国労組合員を職場から隔離・収容し、国鉄の「分割・民営化」時に新会社から排除しようとしたものである。「人材活用センタ-」はその名称とは裏腹に、国鉄改革で生じると推定される「余剰人員」を集中的に隔離・管理するものであった。
 そこでは、団体旅行券やパック旅行券の販売等の増収活動に取り組ませるとか、民間企業を事業活動、業務内容等を紹介するビデオを見せるとか、若干の教育・訓練らしきものも行われたとはいえ、それは一部のことに過ぎず、収容された労働者は、車内の特別清掃、線路周辺での草刈り・草むしり、銘木磨きや文鎮作り等の「業務」を強制された。また、ほとんど何等の仕事も与えられず、詰所に放置されることもあった。「人材活用センタ-」は、労働者から就業場所を奪い、働く権利を侵害し、人間の尊厳を著しく否定するものであった。
 人材活用センターに配属された職員数とその所属組合員数のうち、86年7月5日現在によると、国労所属の組合員が75%、動労11%、鉄労11%、その他3%で圧倒的に国労組合員が占めていた。収容された国労組合員の多くは分会の役員クラスなどの職場の組合活動家であった。彼らは運転、改札、車掌といった本務をはずされて、全国の「収容所」入れられたが、国鉄の「分割・民営化」を目前とするこの時期に、このような収容施設を全国に設置することは、鉄道本来の業務に従事する労働者と清算事業団送りとなる労働者とを選別し、清算事業団送りにする労働者を一括的に管理する必要があったからであり、また、全動労、国労に所属していれば、どんな処遇を受けることになるかを示そうという脅迫的行為であった。つまり「国労にいれば人活送りになる」という宣伝効果を狙った、一種の見せしめでもあった。また、第49回全国大会を目前に控えた国労執行部に対して、労使協調路線の方向にむけての路線変更を迫ろうというものであった。
 注目すべきことは、第一に、人材活用センターに配属される場合に、職員の異動、兼務という形で行われたことである。「余剰人員」対策の一環として従来、「要員機動センタ-」が設けられ、ここへの配属については、周辺に勤務する職員がローテーションで回されることが多かった。しかし、この人材活用センターへの配属に当たっては、国鉄当局が本人を指名するという形の異動・兼務で行われた。第2に、人材活用センタ-への配属が、一方的・強制的に実施されたことである。従来、職場長が配置転換や職種転換を命じる場合には、本人の同意を得てから行われるのが職場の労働慣行であった。しかし、この人材活用センターへの配属は、本人の同意を得るという手続きなしに強行された。
 このような「人材活用センタ-」への隔離・収容は、政府や国鉄当局の思惑通りには進行しなかった。「人材活用センタ-」は、国内・国外のマスコミやジャ-ナリズムの注目を浴び、このような非人道的なやり方への批判が国鉄当局に向けられる契機となった。

続く

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国鉄労働組合史 164

2011-05-10 08:26:56 | 国鉄労働組合史

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第七節 国労攻撃の本格化と国労の反撃
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├○ 三 企業人教育の実施 │
└────────────┘

続き

第二に、「考える小集団」づくりが受講者に推奨された。ビデオ鑑賞後、受講者たちはそれぞれの小集団に別れて、企業収益を高める観点や職場の労使協調の観点から、「何をどのように改善すべきか」について、集団で議論を要請さられた。「部外講師による講話」「課題討論」「職員意見発表会」「発表・クラス討論」等の時間が、カリキュラムのなかで占める割合が高いが、講話を聞いた後の討論や職員意見発表会では、この「考える小集団」を単位とする小集団活動を通じてなわれた「成果」が問われた。小集団活動を通じて参画意識を高めると同時に、受講者の「意識改革」「意識転換」を狙ったのである。
 第三に、「団体行動訓練」「国鉄体操」等に現われている、まるで戦時中の軍事教練のような教育・訓練が行われた。氏名呼称でも、名前の呼び捨てが公然と行われ、学園管理者によるどんな指示も命令口調で行われた。学園の管理者、指導員の命令や指示に対する盲目的・絶対的な服従が受講者に要求された。これは、「職場規律の確立」「命令と服従の労務管理」にとって、どんな理不尽な「職務命令」にも服する職員が必要であることを意味していた。
企業人教育が実際どのように行われたかは、受講日初日に書類を忘れたことで講師から人前で強く叱られた新幹線運転士の一人が、企業人教育終了後に「これでは国鉄にもう残れない」として自殺をしてしまったことからも、その一端が窺われる(『神奈川新聞』1986年10月26日付)。
 企業人教育の対象予定者七万人に対して、受講申込み者八万人、実際の受講者は5万5000人であった。3泊4日の教育カリキュラムを修了して職場に戻ると、国鉄当局の強い指導をテコに、受講者たちはそれぞれの職場でインフォーマル集団を組織し、率先してオレンジカードの販売、定期券の販売ルートの拡大、省エネ・節約のケチケチ運動など増収活動に、また、就業時間外に行われる「職場改善」のための小集団活動に取り組むと同時に、「国労にいてはJR社に入れない」と触れ回り、積極的に職場における国労脱退工作の先兵の役割を果たした。


続く

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