国鉄があった時代blog版 鉄道ジャーナリスト加藤好啓

 国鉄当時を知る方に是非思い出話など教えていただければと思っています。
 国会審議議事録を掲載中です。

偉人伝 石田礼助総裁物語 第12話 持たせ切りを止めさせた石田総裁

2021-11-14 19:37:37 | 国鉄総裁

持たせ切を止めさせた、石田総裁

現在は改札へは交通系ICカードをタッチするだけが一般的となり、あの便利さは正直使い出すと癖になりますね。

最近では市中の買い物も交通系ICカードで支払えるので、ついついチャージして、それで買い物をするものですからすぐ無くなるなんてことの繰り返しをしています。

しかし、自動改札が普及するまでは、駅員がいない駅から乗った場合は車掌から補充券を発行して貰う以外は、駅で切符を購入して、改札口で入鋏して貰うことが一般的でした。

駅員が一枚一枚切符を確認して入鋏してくれるわけですが、ラッシュ時などではさばくのが大変と言うことで、長らく乗客に切符を持たせたまま駅員が切符を切るという持たせ切りが横行していました。

これを全面的に止めさせたと石田総裁が幹部に伝えたとして、朝日新聞が特ダネとしてアップした後、各社が後追いしたそうです

石田総裁は就任直後から、ずっと持たせ切り廃止を提唱していた

持たせ切りの開始に関しては石田総裁が就任直後から気にしていたようで、国鉄部内紙、国鉄線1964年6月号の「旅客サービス向上運動について」と言う記事を参照しますと、導入部分から当時の国鉄の様子が窺えます。

当時の様子を、国鉄部内紙の1966年5月号「世論アラカルト」という記事では以下のように書かれています。

利用者の国鉄に対する不満は、大きくわけて特急券、寝台券等がなかなか手に入らないとか通勤電車が殺人的混雑をするとかいう、国鉄の基礎的輸送力不足、投資不足に起因する物的サ
ービス面と、出札係が、つり銭を投げたとか、改札係が不親切であったとかいう人的サービス面、つまりフロントサービスの二つにわけれる。
中略
後者の人的サービスについては目立った改善がなされておらず、旅客の国鉄に対する苦情不満は依然あとを絶たない。

と有りますように、もちろん親切な出札係や改札係がいたとしても、概ね世論の論調はこんな雰囲気でした。

そこで、フロントサービス向上と言うことで、サービス向上運動が発達するわけですが、これによりますと駅での接客、特に乗車券類の販売などに時間が取られがち(当時はマルスは殆ど導入されて居らず)で、長い時間を待たせることになるので、これを改善させたいとしています。

特に改札における持たせ切については総裁からも特に注意されているとして以下のように特に記述しています。

窓口の整備強化、座席予約の自動化等を促進する必要がある。また改札のいわゆる「持たせ切り」については総裁からもとくに注意をうけている。

と有るように、就任直後の頃から特にこうした行為に関しては総裁は意識していたことが窺えます。

世論は、持たせ切廃止よりももっと接客サービスをよくして欲しいと注文

石田総裁は、国鉄運賃の改定を行ったこともあり、更なるサービスの改善と言うことで、特に持たせ切り廃止を強く厳命したのでしょう。
国鉄線1966年5月号に掲載されていましたので、少し長いですが、引用してみたいと思います。

『・・・・・まるでお客を数でこなすような改札態度には、折り目正しい明治人としてハラハラする。ことに大幅値上げ後、サービス向上によけい心をつかう総裁は、気になって仕方がなかったらしい。営業関係の幹部を呼んで注意した。
幹部たちも知らないわけではなかった。しかし現場にも事情がある。
ラッシュ時の駅では、人手の少ない改札係が一人で両側の改札口を受持たねばならない。ハサミを持つ手の側のお客から、いちいち別の手で切符を受取っていたのでは、どうにも間に合わないことがある。
それがクセになって、ついズルズルにーーという説明を問いても、石田さんは承知しなかった。
「事がらは小さいかもしれんが、お客に対する態度の基本に関することじゃないか。人手のやりくりには、まだ工夫の余地があるだろう。」・・・・

国鉄線 1966年5月号 世論アラカルト

と言うことで、それまで慣例となっていた持たせ切りを石田総裁は止めさせようとしたのですが、実際持たせ切りとはどんなイメージなのでしょうか。

簡単にいえば、乗客は切符を手に持って改札が係の駅員の入鋏ハサミの前付近に持っていく、駅員は乗客が持ったままの切符に入鋏するもので、入鋏ハサミが常に動作しているので、誤って乗客の指の怪我をさせると言うこともあり得るわけで、評判としてはあまり良くなかったのも事実ですが、利用客としてもやむを得ないという思いはあったようです。

それが、以下の内容のなるのですが。

接客職員のフロントサービスがいつの場合でもジャーナリズムや国民全般から批判の的となっている。改札掛の持たせ切りは今までも何回か投書などにとりあげられていたが、要員、作業方法などで完全廃止はむつかしいとされていた。
今回の総裁指示の「持たせ切り廃止」は、朝日新聞の特ダネの形で報道されたが、その後、読売・東京新聞のコラムでとりあげられており、産経は国電主要駅に取材して、その効果を調べあげている。

と書かれていますが、世論としては持たせ切りが必ずしも悪いと思っていないようで、

持たせ切りのイラスト、国鉄線 1966年5月号 世論アラカルトから引用

産経新聞の朝刊には、以下のように載っていたと記述されています。

三月二十二日付産経〔朝刊〕の記事によりますと、旅客の多いラッシュアワー時には持たせ切りのほうが早いし、旅客の中も承知の上でキップを切リやすいように差出す人もいるわけで。

『やめてほしいが、混雑するときはムリかもしれない』とか、『急いでいるときは持たせ切りをしやすいようにキップをだしています。問題はそれより駅員の心構えではないですか。キップをいちいち受取る駅員でも横柄な感じの人は多いし』・・・・という言葉をのせている。

とあるように、国民の間では朝ラッシュ時などの持たせ切りはやむを得ないと思うが、それ以上に駅員の態度が横柄であったりするのは何ともならないものかということで、この頃世論としては、真のサービス向上は、国民の望みであったと言えそうです。

そして、国鉄に対しては、明治以降の官設鉄道の頃からの「乗せてやる」「運んでやる」という意識が根強く残っているのではないかという意見も有ったようです。

よろしければお願いします、資料の購入費用に充てさせていただきます。
https://ofuse.me/blackcat0610

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偉人伝 石田礼助総裁物語 第11話 国鉄バス参入に対して、民間バス会社との攻防

2021-10-17 21:38:48 | 国鉄総裁

国鉄バスの実情をよく理解していた石田禮助総裁

石田禮介総裁の逸話は、色々ありますが、今回はハイウエイバスに関するお話しです。

国鉄では、名神高速道路開通に伴い、高速バスへの参入を認められたわけですが、この参入を認めるために、石田礼助総裁と磯崎副総裁による尽力が大変大きかったと言われています。

その背景には、石田禮助氏が監査委員長時代に国鉄バスとしての問題を把握していたことも大きいと言えそうです。
1962年7月号の 国鉄線という雑誌の座談会 石田監査委員長を囲んでと言う記事で、以下のような発言があったのですが、非常に興味深いことですので、一部抜粋してアップしたいと思います。

名神国道は国鉄全体の問題

前略 
石田 監査委員会の人たちと紀州に行って尾鷲から三五キロの山道を国鉄バスで通ったんですが、そのときに運転手の後で見ていて、実にうまいものだと思いましたね。なにも運転が上手ということでなく、実に細心の注意を払っているんです。ほんとうに敬意を表しました。聞いてみると開業以来一七、八年になるけれど一回も事故はないということでした。
わたしは帰って来てさっそく総裁に、こういうことがあるんだ、あなたの記憶にとどめておいて機会があったらほめてやらなければいけない、と言ったんです。
 国鉄自動車の営業面において今一番の問題はなにかというと、例の名神国道に乗入れることで、国鉄全体としても大きな問題です。これはぜひやらなければなない。ところが運輸省は許すかどうかはっきりしないんですね。それでわたしは自動車局長にいうんですよ。名神国道でおなじ条件で国鉄とほかの自動車会社が営業したら、どっちにお客さんが乗るかきいてみろ、必らず国鉄に乗るというに違いない。
それだったら、世論をバックにして運輸省に話したらどうかということです。
 先週、経団連の顧問会議がありましてね、その席上でこう言ったんです。名神高速道路ができるが、これができると国鉄にとって非常な脅威である。しかも東海道は国鉄の宝庫であるから、そこへ民間の自動車に乗り込まれることは、国鉄としてえらいことである。輸送量としては東海道路線の二割しかないそうだ、が、二割を取られることは国鉄の大問題だ。国鉄擁護のために国鉄自動車を走らせることがぜひ必要で、普通の電鉄会社も沿線にパスを経営しているのに、国鉄だけがいかんというのは変じゃないか、それよりお客さんはどっちの自動車に乗ることを希望するか、もし諸君だったらどっちに乗るか。これをきいたら、みな国鉄自動車に乗るというんですね。
 今度、国鉄は大きな事故(三河島事故)を起したけれども、それでも国鉄の安全性については非常な信用がある。自動車局は運輸省に対してこういう声があることを話すべきであって、運輸省がそれを蹴るとしたら相当の勇気がいるんですよ。

と発言をしてるわけですが、こうした発言が根底にあったからこそ、リップサービスに終わらずに、粘り強く交渉して、国鉄バスが名神高速で、自動車事業に参入できたと言えそうです。

国鉄バスは、以下に示すように元々は鉄道路線の先行や代行などが主であるため、山間僻地などを走る場合が多く、戦後はいち早く独立採算制が導入されて、収支係数も改善したものの黒字には至らないままでしたので、国鉄バスの高速バス参入は自動車局にして見れば悲願であったと言えそうです。

国鉄バスの使命とは・・・

  • 先行    鉄道敷設法に記された予定線などの鉄道路線を敷設する計画がある区間において、鉄道が完成するまでの暫定的な交通手段として国鉄バスを運行する形態を
  • 代行    先行線に似ているが、鉄道路線を敷設する計画がある区間において鉄道としての採算が見込めないことから鉄道の代わりとして運行するもの
  • 培養    旅客や貨物を集めることを目的に、鉄道駅から離れた町と鉄道駅を結んだもの
  • 短絡    鉄道利用では遠回りとなる2駅間にバス路線を設け、ルートの短絡を図ったもの
    国鉄バスの使命は、この四つが原則であったが、昭和34年の第31回国会、「参議院予算委員会 第15号 昭和34年3月20日」において、今後は都市間の中距離も鉄道の補助、補完のために自動車で経営していきたいということを考えております。
    と、十河総裁が発言しており、この頃から。新たな国鉄バスの使命として、以下の
  • 補完    国鉄の鉄道線の並行道路上の路線。あるいは鉄道と共に組み合わされて幹線交通網の一環を成すべき路線

    と言う概念が、取り入れられました。
    以下は、参議院予算委員会での当該部分を抜粋したものです。

参考:参議院予算委員会 第15号 昭和34年3月20日
中村(正雄)委員 国鉄は省営自動車を経営いたしておりますが、国鉄の省営自動車の路線の新設に対しまする基本的な一つの方針を伺いたいと思います。
説明員(十河総裁)線路建設に代行いたす場合、あるいは先行いたす場合、あるいは培養の場合もしくは短絡と申しまして短かく連絡のできるような、大体そういうことを主にして考えておりますが、最近には都市の膨張が非常に急激に進んで参りまして、同時にまた道路が相当よくなって参りましたから、都市間の中距離も鉄道の補助、補完のために自動車で経営していきたいということを考えております。
中村(正雄)委員今国鉄から発表になりました国鉄の経営いたします自動車の方針は、運輸省としてもこれを承認いたしておるのかどうか、運輸大臣にお聞きしたい。
国務大臣(永野護君) 承認いたしております。

中村正雄議員は、日本社会党の参議院議員で、元国鉄職員であったと記録が残されています。

国鉄総裁がトップセールスで、国鉄に高速バス参入の権利を獲得

そして、国鉄が数ある競願の中から、名神高速への高速バス参入を果たしたのは、石田禮助総裁と、磯崎叡副総裁のトップが積極的に動いた結果でした。

以下に簡単ですが、その概要を書かせていただくとともに、改めて詳細は別の機会にさせていいただきます。
日本初の高速道路、名神高速開通に向けて、(名古屋鉄道・阪急電鉄・京阪電気鉄道・近江鉄道を中心として、日本急行バス)が設立されますが、全国の高速道路上にバス網を展開するという、実質政府主導で行われたことから、バス事業者が加盟する日本乗合自動車協会【現在の日本バス協会】加盟バス会社も参加したとされています。日本急行バスは、高速道上のみの運行を行う会社として申請しており、高速のバスターミナル等で乗客は、地元のバス会社に乗り換えて貰うという考え方をとっていました。
これに対して、国鉄は高速道路を線路に見立てて、新たな路線として運転するというもので、昭和36年に申請し、同時に試作車も導入していました。
当時の資料が出てこないのですが、全体に丸みのあるスタイルで、その後の高速バスのスタイルとは異なるものでした。

国鉄線 昭和38年8月号から引用させていただきました。
バスは、昭和37年に試作された、いすゞBU20PA改の国鉄専用の形式のようです。
塗装は、赤色とクリーム色だったようです。
実際には、営業に供されることはなかったようですが、152km/hを記録したと記述されています。

さらに、名鉄・近鉄なども単独で名神高速道路への高速バスの参入を求めて、混戦状態となり国鉄を含めた11社が競合する形となりました。
当初は、日本急行バスに国鉄が出資する形で、「新日本急行バス」を提案されますが、国鉄側が拒否したことで紛糾し。最終的には、

最終的には、運輸審議会による聴聞が行われることとなり、民間バス事業者は、国鉄の高速バス事業は日本国有鉄道法に照らして、国鉄の業務外であるとして反論しますが、昭和34年3月の参議院予算委員会で、国鉄バスに関しては、「補完    国鉄の鉄道線の並行道路上の路線。あるいは鉄道と共に組み合わされて幹線交通網の一環を成すべき路線」を保有することを運輸大臣も前述の通り承認していることから、石田総裁と、磯崎総裁はそれを受けて以下の趣旨で反論したそうです。

  • 高速道路上のパス経営は日鉄法第三条の「鉄道事業に関連する自動車事業」の範囲内である。
  • 国鉄は国民の共有財産である。
  • 国鉄はバス事業を兼営して総合的な運輸業へ発展することが必要であり、現状のままでバスの鉄道に及ぼす影響を放置すれば大き
    な国民的負担を招来する。
    民業を圧迫するものではない。国鉄は独占を主張しているのではない。国鉄バスは税制面での有利さはあるが一方多大の赤字路
    線の経営を行なわねばならず、民営との競争条件でとくに有利であるわけではない。

以上の反論を石田礼助総裁はするのですが、ここから先が石田総裁の石田総裁たる堂々としたところであり、その部分は、昭和39年 9月号、国鉄線という冊子から引用させていただこうと思います。

以下、引用開始

こまで総裁は、あらかじめ提出された公述書通りの公述を行なって来たが、最後に、民間資本の圧迫という意見は一見耳に入りやすいが、つきつめれば営利追求に立った反対のための反対であると激しくきめつける。ここでそれまで大公聴会の雰囲気にのまれてか静粛を保っていた傍聴席から思わずという感じで拍手がわく。
続けて総裁は「国鉄は行政当局である運輸省の見解に従うべきで、さもなければ法治国家としての秩序が保たれないというような極端な意見を吐く人がいる。しかし別に運輸省だって神様でないんだ。時には誤ることもある」と、ずばり。
ここでまた傍聴席から爆笑と拍手。列席していた運輸省幹部も思わず苦笑。
「誤った時には堂々と正しきことを主張するのが物の道理というものだ。それが国鉄の管理者たるわれわれの責任であり義務であると堅く信ずる」
との結びに会場はしんとなって最後に激しい拍手でクライマックスに達する。

とあるように、最後は石田総裁らしい発言で締めているのが理解いただけると思います。答弁内容は副総裁であった磯崎氏が中心になってまとめたものでしょうが、最後のこうした発言を、審議会の前で堂々と言えるのは、石田氏だけではなかったでしょうか。

国鉄は国民の財産であり、民業圧迫というのはいわば、「営利追求に立った反対のための反対であると激しくきめつける。」

まぁ、多少強引とも取れますが、こうした発言があればこそ、国鉄バスが、高速道路に参入できたわけで、現在のドリーム号に限らず、多くの高速バスをJRが運用できるその礎を気付いた第一歩であったと言えます。

実際には、中国道の開通で津山まで高速バスを補完という名目で走らせたところ、在来ローカル線よりも速くて快適ということで、肝心の姫新・因美線の急行が廃止に追い込まれるなどの逆転現象が生じてしまいました。

最終的には、国鉄バス並びに、日本高速自動車(近鉄が主導)、日本急行バス(最終的に名鉄が主導)に免許が交付されることとなりました。

偉人伝 石田礼助総裁物語 第11話 この人がいたから、JRバスは実現した?国鉄と高速バス参入に関する運輸省との攻防

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偉人伝 石田礼助総裁物語 第10話 国鉄は専売公社とは仕事の内容が違うと国会で発言、物議を醸すことに

2021-09-30 00:31:31 | 国鉄総裁

ほぼ一ヶ月ぶりですが、石田礼助総裁物語を更新したいと思います。

むしろ政府委員がハラハラする、国会での言動

この話は、非常に有名なのでご存じの方も多いかと思いますが、専売公社の職員の待遇と国鉄職員の待遇が殆ど同じと言うことは怪しからんとして、国会で発言したものですから。
専売公社の全専売労働組合からクレームが来たという曰くの話。

この時の様子は、「粗にして野だが卑ではない」でも語られていますが、参議院の運輸委員会で堂々としたもので、以下のような話が残されています。

衆参両院での石田の率直な発言は続いた、事務当局は政府委員ははらはらのし通しであった。
そして、3月5日、参議院予算委員会。
この日離れた席とマイクの間を度々往復する石田の姿を見かねて田中角栄が見かねて、空いている総理大臣席に坐るようにと、すすめた。
石田は遠慮なく、そこへ腰を下ろした。
その石田に黒金官房長官がメモを渡してきた。
「低姿勢、低姿勢」
大きく書かれている。
「総裁、なんだい」
田中が訊くのでそのメモを見せたところ、田中は
「構わない、やりなさいよ」
石田にしてみれば、言われるまでもないことであった。
「私は低姿勢は嫌いだなあ、低姿勢を取る必要ないもんな、私の柄に合わないですよ。変に威張るなんと言うことはないけれども、何も自分を卑下して下げなくても良いところを下げるなんてことは出来ませんよ。」
と言う考え方である。

いかにも石田総裁らしい言動ですが、総理大臣席に堂々と坐って、堂々としている点などは中々出来ることではないでしょうね。

物議を醸した、専売公社の口撃

専売公社はたばこを作って売れば良いが、国鉄の職員は命をかけて働いているのに、殆ど同じ給料というのはおかしいではないかという発言ですが、この背景には過密なダイヤと言われた鶴見事故の件があったことは言うまでもありません。
議事録を探してみますと、当時の第四六回通常国会3月7日開催の「参議院予算委員会」で発言されたものでした。
該当部分の発言を抜粋してみたいと思います。

○亀田得治君(元日本社会党参議院議員・左派)
 前略
 そこで、最後に、あと五分でありますので、多少違った角度から総裁に御検討を願いたいという点があるわけです。それは、いろいろな設備関係というものが、安全運転を完成するのに、もちろんこれは必要なことでありますが、そこに働く人ですね、人の関係というものを、もっと研究する必要があるのではないか。そういう点が案外抜かっておるのではないかという感じがするわけですね。中略。大事な人命を扱っておる乗務関係の人なんですから、ほかの人命を大事にしてくれと要求する以上は、まずその人たちの人命を国鉄総裁が、これだけ考えているのだと、そういうあたたかいものが私は出てこなければいかぬのじゃないかという感じを持っているのです。そういう点について、基本的に、どう考えておられますか。

○説明員(石田礼助君) 私はこれは、ごもっともの質問だと思います。やはり事業は人なり、いかに運転、保安の設備を整えてみたところで、あるいは踏切の問題を解決してみたところで、やはり結局は人なんです。中略
 それから、その次に私が考えておることは、これはまだ総理大臣の了解を得てないんですが、待遇の問題です。私は、いまの国鉄の職員に対する待遇というものは、いわゆる三公社並みということになっておりますが、これははなはだ不公平だ。一体、専売公社の人間と国鉄の人間と、同じように取り扱うなんていうのは、これは職務給というものを全然無視した考え方だ。
 これは、私は、今度の仲裁裁定に持ち出す考えであります。とにかく運転士なんていうものは、これは命をかけておる。専売公社の仕事なんというものは、たばこをつくって売れば、それでいい、これは、政府はやはり考えてくれにゃいかぬと私は思う。大蔵大臣がここにいらっしゃいますから、まず第一に私は、こういうことを言ってさしつかえないと思う。国鉄の総裁と専売公社の総裁と同じ給料なんて、そんなことがありますか。こういうことは、私一文ももらってないから言うんですよ。私はほしいから言うんじゃない。決してこれは、公平な取り扱いじゃないと思う。たとえば、専売公社の給与と国鉄の給与と比べてごらんなさい。ほとんど変わりありません。ところが、向こうは、男八〇に対して、女二〇でしょう。国鉄は、男九七に対して女三だ。その平均が、ほとんど変わらぬ。
 しかも、その仕事たるや、とにかく運転士やなんかの仕事を見てごらんなさい。夜よなか弁当を下げて、そして夜と昼間と間違えてやっておるような仕事だ。これを全然、無差別悪平等式の取り扱いをするというところが、人を使う道として間違っている。これは私は、国鉄総裁の責任において、ぜひとも是正せにゃならぬ問題だと考える。
 それで、たとえば運転士が引き継ぎに行って、泊まってくる、そしてまた帰ってくるという場合の休養設備その他の点についても、着々として改善をして、できるだけ彼らが、ほんとうに気持よく責任をもって仕事をできるようにしたいと、こういうようなことに考えておる次第であります。

以上、引用終わり

ここで、改めて国鉄の昭和30年代から40年代前半までの職員の死傷者数をグラフ化したものが下記になります。


グラフを見ていただくと判るのですが、昭和30年代は特に、多くの事故が発生していることをご理解いただけるかと思います。
実際、こうした死傷事故で多いのが操車場における入換作業であり、走行中の貨車に飛び乗ってブレーキを掛けるわけですが、当然のことながら列車の到着と到着の合間に処理をせねばばらず、24時間休み無く続けられる仕事でした。
作業自体は比較的単純とは言え、走行する貨車に飛び乗るわけですから、非常に危険ですし、足を踏み外して、もしくは、飛び降り損ねて怪我をするなんてことは十分あり得るわけで、その結果、車輪に足を挟まれるという悲惨な事故が後を絶たなかったのです。

そうしたことを知ったうえで、国鉄職員の給与を改定せよと迫るわけです、それが以下の発言でした。

「私は、いまの国鉄の職員に対する待遇というものは、いわゆる三公社並みということになっておりますが、これははなはだ不公平だ。一体、専売公社の人間と国鉄の人間と、同じように取り扱うなんていうのは、これは職務給というものを全然無視した考え方だ。」

となるわけです。

質問した社会党代議士がむしろ石田をフォローすることに

こうした発言には質問をした社会党の方がびっくりしてしまって、社会党の藤田進議員がいかのように取りなしたと記録に残っています。
あくまでも、石田総裁の発言は、専売公社の給与が高いと言うことではなく、大蔵省所管の専売公社と比して低いのだと、むしろ質問した側がそれを取りなすという羽目になってしまったわけで。

この発言は、むしろ国鉄にしてみれば痛快であったでしょう。

当時のその発言を、当時の参議院運輸委員会ら引用してみたいと思います。

○藤田進君 関連。特に、国鉄総裁の石田さんの発言というのは非常な影響を持つわけでございますが、先ほど御発言の中に例示されて、三公社五現業の中で、特に大蔵大臣所管の専売公社を取り上げられまして、内容を説明せられ、これと比較して国鉄は低いということを言われた、その真意は、大蔵大臣、非常に敏感な人でありますから、所管の専売がどうも給与が高い、それをこれから、ひとつブレーキをかけなければならないという作用を期待されているのじゃないだろうと思うのであります。今日、いわゆる可処分所得について論じられ、最底生活ということが、むしろ論争になっているときで、専売公社の職員なり、あるいはまあ総裁を含めてもけっこうですが、これが高いのだ、下げろという趣旨じゃなくて、そういう比較論から見ても、なおかつ国鉄のほうが劣る、質的にも危険率から見ても。
 したがって、国鉄のあなたの傘下の待遇について論じられたのであって、専売が高くて困るというのじゃなくて、そういう点に力点があったと私は思うわけですが、非常に将来問題を残しますので、この点の真意をひとつ明確にしておいていただきたいと思います。
○説明員(石田礼助君) 私がさっき申し上げたことは、これは言い過ぎかもしれぬ。決して私は、専売公社を下げて国鉄を上げるというのではない。いずれにしても、国鉄の給与というものは、いかに三公社に比べて劣っているか、要するに、これを上げにゃいかぬということのために、はなはだどうも専売公社を佐倉宗五郎のように言って、相済まなかったのですが、申し上げたのであります。どうぞその点を御了承願いたいと思います。

斯様に、社会党としては想定していた以上の返ってきたわけで、それ以上言うことはなくなってしまったのでした。

最初に質問した、亀田得治は、

総裁から、人の問題について、ずいぶん積極的なあたたかい御答弁を伺いましたので、実は多少準備しておったわけです。人の問題について、あなたが非常に人というものを無視しておられるようなことをおっしゃれば、もう少しお伺いしなければならぬと思っておったのですが、どうも逆のようでありますから」ということで、むしろ石田の発言をフォローするようになってしまったわけですが。
いかにも石田礼助らしい、堂々等した人であったと言えそうです。

こうした発言は、国鉄職員には励みに

ある意味で爆弾発言的な言動でしたが、国鉄職員には大きな励みになったようで、国鉄部内紙の交通技術や、国鉄線という雑誌でも名古屋駅長と石田総裁の対談でも感謝の言葉が書かれています。

以下は、国鉄線の記事、「仕事を楽しみ、熱をもとう」から引用したものです。

山内 かって総裁が、専売公社の職員と、ウチの職員とは仕事の内容が違うんだと、あれだけはっきり、しかもずばりと事実をうったえていただいて、非常に職員自体意欲を燃やし張り切ってやっております。
石田 実際、専売局の仕事と国鉄の仕事はまるでタチが違うんですよ。仕事の難易から言えば問題にならない。専売局は単に国家の収入をふやすだけのことで、タバコなんでものは百害あって一益なしだ。それに比べると国鉄の仕事はこれがうまくいくかいかないかで、国の経済の発展に影響するという大問題ですよ。
山内 それにもかかわらず、いろいろ国鉄は劣勢下に置かれておったが、それを総裁、が、それこそ信念と勇気、そして迫力をもって、政界といわず、財界といわず、報道関係あるいは労働界といわず、積極的にPRされて、今度の第三次長期計画を実行されたということで、非常に明るい希望で、新しく入ってくるものと共々によろこんでおります。

続く

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第5代国鉄総裁 石田礼助とは 第10話

2021-08-31 08:04:15 | 国鉄総裁

気がつけば、1ヶ月以上明けてしまいました、今回も石田礼助総裁のお話をさせていただこうと思います。

石田礼助総裁は、昭和39年度の予算で400億円復活と国鉄基本懇談会の設置が行われ「頭をなでられたわけです、とてもこんなことでは国鉄としての使命を尽くすことは出来ぬ」と左手を腰に当てて世を反らせて、代議士たちを正に睥睨しての発言であった」
と、粗にして野では書かれていますが、昭和39年2月7日の衆議院運輸委員会第五号に、その当時の運輸記録が残されていますので、参照してみたいと思いますが。

この質問に至る背景には、田中織之進議員【日本社会党・左派】が、政府の国鉄に対する取り組みについて、総裁としてどのように考えているのかという質問から来たものでした。

そこで、石田総裁は以下のように述べたそうです。
以下、長くなりますが誤解の無いようにするために全文引用したいと思います。

○石田説明員 お答えいたします。
 御承知のとおり、国鉄は戦時におきましてだいぶ打ちこわされた。戦後においての修理というものも、ようやくほんとうに真剣にかかったのは昭和三十二年からです。それまでというものは、ほんとうの寡少資本の投資によって十分の修理もやらなければ、また輸送力を増強することもやらぬ。一方に経済というものはしんしんとして発展いたしまして、輸送需要というものは非常にふえてきたというようなことで、第一次五ヵ年計画では主として修理の問題、輸送力の増強というものもありますが、これはきわめてわずかなものです。それをやっておるうちに、とてももう追っつけないというようなことで、途中で第二次五ヵ年計画というものを立てまして、それが四十年に完成すると、そこにおいて輸送力の増強というものも相当にやるということになったのでありますが、いろいろの財政上の都合で三十八年度までには六割を完成しなければならぬのがようやく四割しか完成しない。そこで、こんなことではとても国鉄としては輸送使命を遂行することはできぬ。一方に世界にも珍しい過密ダイヤのもとに運転している。したがって、あやまって事故でも起こるというと、連鎖反応によって大きな事故になる。ここにおいて何とかひとつやらなければならぬということで、私は国鉄総裁として総理大臣に対して第二次五ヵ年計画はあと三十九年と四十年の二年しかないのだから、その間に残りの六割をぜひ完成するようにしたいので、予算をぜひ考えてもらいたい、こういうことでお願いしたのでありますが、御承知のとおり財政投融資その他において千億ばかり打ち切られた。三拝九拝の後、ようやく債務負担というような、ことしには金の使えない、来年になってようやく金の使えるようなもので四百億円、そのほかに百億円というようなことで、頭をなでられたわけです。とてもこんなことでは国鉄としての使命を尽くすことはできぬ。この改善策を一体どこにわれわれは求めるか、こういう問題であります。

国鉄としては、それまでも少ない予算をやり繰りしてきた、第二次五カ年計画も計画の半分を過ぎたが未だ、4割であり残り2年で実行するための予算を請求したのに、債務負担行為として400億円、他に100億円が認められたとしていますが、大いに不満が残るとしています。

ここで、債務負担行為について解説を加えさせていただきますと。
債務負担行為とは、会計年度を跨いで事前に予算を確保すると言う意味合いのものです。

例えば、自動車を購入するのに現金で買いたいのですが、手持ちの現金が200万円しかなく、購入したい自動車が300万円の場合、200万は現金で払って、残り100万は来月払うと言う約束をして車の引渡を受ける、そんなイメージです。
国や地方自治体の会計では、債務負担行為は次年度の予算で支払いを確定させてあるものであり、予算を他に流用することは出来ません。
ですので、総裁としても枠として純粋に財政投融資などから受け入れられたわけではなく、借金の先送りのような方法で、決着をつけさせられたことに対して、不満があったと思われます。

さらに、石田総裁は、国鉄の輸送力増強工事は、所得倍増計画と対をなすものであり、こうした国鉄の改良計画などは、「国鉄ばかりでなくて、大蔵省、通産省、それから国会議員その他の方々に入っていただいて、政府の案として計画を立てるように、そういう意味からして委員会をひとつ設置していただきたい」という風に、国鉄だけが長期計画で輸送力増強等しているわけではなく、政府全体の問題として取るあえげるべきだとして、堂々と語っています。

このように、石田礼助総裁の答弁は、官僚出身でないことで、所謂、しがらみがないという点で良かったわけで、石田礼助総裁も指摘しているように、経済成長と国鉄の輸送力増強はセットであり、改めて国の政策として取り上げるべきではないのかという極めて正論を述べています。

しかし、政府の考え方は引き続き、国鉄に対しては冷たいものでありました。
結局、総裁は昭和40年度を初年度とする長期計画を立てることになりますが、それにより更に国鉄の財政は追いやられていくことになるのですが、その辺は改めてアップしてみたいと思います。

以下で、今回の運輸委員会の議事録全体を読むことが出来ます。

併せてご覧ください。

第46回国会 衆議院 運輸委員会 第5号 昭和39年2月7日

 

 

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第5代国鉄総裁 石田礼助とは 第9話

2021-07-24 21:57:23 | 国鉄総裁

辞表を書くも諫められる

石田総裁は、鶴見自己の責任を負って辞表を提出するも慰留されることとなりました、三河島事故で十河総裁が辞表を提出したとき、

「辞めれば責任がとれるものではない」

十河を諫めた言葉がそのまま。石田禮助の言葉に、刺さるのでした。

さらなる安全に対するこだわり

石田の態度には、鶴見事故の遺族もそして世間も、その立場をよく理解して、励ましの手紙などもきたことで、ようやく石田総裁は、国鉄総裁としての新たな覚悟を固めたようでした。
「安全の確保」を今まで以上に意識するようになり、昭和37年の三河島事故で設置された、本社における事故調査委員会を毎月開催させたそうです。

この委員会は、形式的な会議ではなく石田総裁以下全役員と局長以上、更に主幹の各課長、各管理局の総務課長が出席して、全国で起こった運転事故についてケーススタディを行うというものでした。

石田総裁にしてみれば、国鉄はそれこそ電車であれば一編成で1000人近くの命を運んでいるわけであるとしていることを意識しており、それは後に物議を醸した、「国鉄はたばこを巻いている専売局とは違う」という迷言が飛び出したのもこうした思いがあったからと言えます。

39年度予算要求では、池田総理に直談判

石田は、要るものは要るとして、強気の要求をさせ、昭和39年度は予算で 2,733億円(在来線のみ)の改良費を要求したそうです。
(国鉄としては、第2次五カ年計画を遂行するためには、2年間で6,574億円が必要であり、昭和39年度は在来線だけで2,733億円、新幹線を含めれば3,376億円)

これに対し大蔵原案では、政府予算案としてほぼ前年並みの1330億円を計上したそうで。

大蔵省としては、「殿、ご乱心」ならぬ、「総裁、ご乱心」として、国鉄を非難したと言われています。

石田総裁は、就任時に池田総理から、「出来るだけの応援はする」という口約束を取り付けており、

「総理が約束を守らぬようなら、辞任する」と息巻き、

最終的に以下のような条件で政治的決着が図られることになりました。

予算400億円復活と国鉄基本懇談会の設置

政府案としては、最終的には、要求を約1,000億円も下回る 1. 754億円ですが、420億円ほど増額された形での決着となりました。
以下は、大蔵省と国鉄との間で取り交わされた条件でした。

改良費 2,733億円の要求に対し979億円減の 1,754億円という政府案が次のような附帯条件のもとに決定した。
i) 38年度において新幹線工事に流用した 100 億円を38年度に補正する。
ii ) 39年度の不足分は差当り 400 億円の債務負担額をつける。
iii) 39年度においては優先補正措置を講ずる。

また、この決定以外の条件の 1 つとして「国鉄経営の抜本的再建のため、党及び政府は国鉄の基本問題を調査する委員会を設置し、 昭和40年度以降の第3次計画及びこれに対する資金確保の方策についての検討を速かに開始すること」が申合わせ事項として了承されたそうです。

雑誌 国鉄線1964年11月号 から引用

 

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第5代国鉄総裁 石田礼助とは 第8話

2021-06-29 10:39:57 | 国鉄総裁

棺の前で声をなくす石田禮助総裁

鶴見事故は、走行中の貨車が脱線して、隣の線路を支障、その横を走っていた電車が接触して脱線、運悪く対向線路を走っていた上り電車の側面に衝突したわけで、上り電車が架線の異常な揺れに気付いて減速していたのですが、完全に停車していたわけではなく、4両目の中間付近から5両目に掛けて抉るような形となりました。
下り電車の先頭車は、衝撃で原形をとどめぬほどに粉砕され、衝撃を受けた4両目と5両目の車両は、台枠から上がきれいになくなっていました。

この事故で、160名を超す命が失われ、下り電車先頭の運転士も殉職しています。

遺体は近くの総持寺に搬入され、駆けつけた石田総裁は、かろうじて焼香を済ませると、遺族に頭を上げる事も出来ず、

「本当に申し訳ないことをいたしました」

とうな垂れるばかりであったと書かれています。

その姿は大変な取り乱しようであったと言われて、記者には一言

「ヘルだ」(地獄だ)

とだけ呟いたそうです。

11月22日には、石田国鉄総裁が施主となる合同慰霊法要が行われることとなり、入院中(事件数日後に自民党本部を訪れた際、廊下で転倒して腕を骨折、大事を取って入院)の病院から片腕を吊った状態ででかけたそうです。磯崎副総裁が代行しよとしたが、

「どうしても自分が行く」

と聞かなかったと言われています。

だが、遺族の前では嗚咽して、用意した弔辞もろくに読めなかったと言われています。

鶴見事故合同慰霊法要 11/22

曹洞宗本山総持寺(鶴見)で、石田総裁施主によって、犠牲者160柱の合同慰霊法要が、遺族607名、綾部運輸大臣ほか来賓者100余名及び国鉄全幹部、関係者約300名が列席で行われ、4時15分国鉄全機関においても、全職員黙祷、犠牲者の冥福が祈られた

国鉄があった時代 昭和38年後半から引用

職員に対して訓示を発表

11月15日、石田総裁は以下の通り、全職員向けに訓示を発表しました。

国有鉄道 1985年6月号から該当部分を全文引用させていただきます。

「三河島事故からl年半、この間、私たちは事故防止のために最善の努力を尽してきました。
その結果運転事故も減少の傾向をたどり、私は職員の皆さんに感謝しながら、更に一層安全な国鉄をつくることに楽しみすら感じて毎日の仕事をしてきました。
しかるに11月9日21時51分、東海道本線鶴見・横浜間において200名をこえる死傷者を出す大事故を起したのであります。なくなられた方々や負傷された方々に対しては誠に申訳なく、御遺族の方々にはお慰めする言葉もありません。
国鉄は、毎日1,500万人をこえる旅客と55万トンにのぼる貨物を託され、わが国発展のための基幹ともいうべき輸送の仕事をになっています。
したがって私たちは、輸送の安全のために、覚悟を新たにして最善の努力をすること以外、国民の皆さんに対しておわびするみちはありません。
                    一(以下略)(昭和38年11月15日、総裁石田礼助

という談話を発表しています。

こうして、石田礼助総裁は、更に安全投資と言うことに傾注することとなります。
そして、後に有名になる、報酬の全額返納を申し出るのでした。

給与の全額返納を申し出る

鶴見事故以降いよいよ、総裁という仕事は金を貰ってもする仕事ではないという意を強くします。
アメリカでは、アップルの創業者スティーブ・ジョブスが復帰後の報酬を1ドルしか受け取っていないとして話題になりましたが、これは石田禮助も若い頃にアメリカの成功者が行っていた、「ワン・ダラーマン」を意識していたものと思われます。

1$の報酬しか得なくとも、トップたるものその責任を負いプロフェッショナルの仕事をするということを実践したものでした。

そこで、石田禮助総裁はそれまでも、給与の全額を受け取っていなかった(当時の総裁の給与は30万円であったが、10万円しか受け取っていなかった)が、事故以後は全額受け取らないことを決めてその旨を文書にしたためたそうです。

以下、粗にして野だが卑ではないから引用させていただきます。

「12月分より俸給を全額返上いたします。左様ご承知下さい。之に代え、1年ブランデー1本頂戴出来れば仕合わせです」

引用の本文では、「ひらがな」部分が「カタカナ」書きでしたが、読みやすさのため敢えてひらがなにさせていただきました。

もっとも、困ったのは本社の経理局であったようで、こうした申し出に困惑してしまったとも言われていますが。結局、退任するまで報酬を受け取ることはなく、公に生きると言うことを実践していったと言えます。

続く

 

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第5代国鉄総裁 石田礼助とは 第7話

2021-06-05 22:58:16 | 国鉄総裁

本日も石田礼助総裁のお話をさせていただこうと思います。

石田礼助を襲った悲劇

総裁に就任した石田は、国鉄は地域と地域を結ぶ等国土の平均的開発等が使命であるというのが持論であったそうだが、朝ラッシュ時の様子を視察して、通勤問題が安全問題であることを改めて思い知らされたと書かれています。

実際、国鉄の監査委員長時代から安全対策については例外であるとしていたそうで、十河総裁が線路保守費を削減しようとした際も、撤回させたとも言われています。

その辺を「粗にして野だが卑ではない」から引用させていただきます。

国鉄監査委員長時代、石田は「儲からなけりゃやっちゃいかん」としきりに効率を説いてきたが、しかし、安全につては例外としていた。
 老朽化した青函連絡船の更新を強く推進してきたし、十河総裁が線路保守費を大幅削減することを決めると、石田は十河に迫って、全額復活させた。
総裁就任直後発表した一文の中でも、石田は書いている。

「風の向きによって、時に夜汽車の響きが寝室にまで届くことがある。深夜である。万物が平穏なひとときをひたすら貪っている時刻に、なお起きていて職務に励む人のあることを思うと、厳粛な気持ちにならざるを得ない。”神よ、願わくは安全を守り給え”と祈る気持ちになる。」

願いはむなしく、魔の11月9日(土曜日)

この日は、午後3時12分、福岡県大牟田市三川町の三井三池炭鉱三川坑で粉塵爆発事故が発生し、458名の死者と839名もの一酸化炭素中毒患者を出す大事故が起きたばかりであり、さらに同じ日に、国鉄でも、21時51分ごろに、鶴見事故が発生し160名もの乗客の死者を出す大惨事となりました。
石田総裁が、
本来であれば通勤対策は国鉄の仕事ではないが、安全対策を図らなくてはならない、過密ダイヤと路線の酷使では何時大事故が起こっても不思議ではない、なんとしても安全対策だけは何よりも優先させるべきであるして、取り組もうとした矢先・・・でした。

土曜日の夜と言うことで、多くの乗客が乗っていました。この事故では、下り貨物列車の脱線した貨車と接触した上り電車の先頭車が対向して走っていた下り電車の4両目側面に突っ込み、そのまま引きずられるように5両目中間付近まで車体をえぐっていくようにして停車しました。この事故で上り電車2000S電車の運転士も死亡し、160名の乗客の死者を出すこととなりました。

事故の概要はすでにご存じの方も多いかと存じますが、以下に概要を書かせていただきます。

事故の概況
昭和38年11月9日21時51分ごろ、 東海道本線鶴見・横浜間において下り第2365(下り)貨物列車の後部 3両が脱線し、 上り旅客線を支障した。 これに上り第2000S電車が約92km/hの速度で衝突、この衝撃により電車3 両が脱線し、 前頭部がおりから同地点を進行中の下り第21138電車の4両目と5両目に衝突、4両目の後部並びに、5両目の前部を刃物でえぐったような形で車両を破壊、三河島事故を上回る大惨事となった。

この事故は想定以上の大惨事であり、石田は現場の指揮を磯崎副総裁に任せるとともに、池田総理に事故が発生した旨の報告を行ったそうですが、非常に憔悴しきっていたそうです。

復旧作業は、鶴見駅に現地対策本部を設置するとともに、本社、関東支社、東京鉄道管理局(当時はまだ分離していなかった)にも対策本部がそれぞれ設置され、負傷者は近くの病院に、遺体は鶴見の総持寺に収容されたと記録されています。

ショックを隠しきれない石田総裁

石田総裁は、池田首相に報告後、遺体が安置されている総持寺に足を運んだそうですが、160を超す棺の列を見て顔色を失ったそうです。

その様子を、粗にして野だが卑ではないから再び引用させていただこうと思います。

急を聞いた石田は、磯崎以下に現場の指揮を取らせるとともに、池田総理に電話をかけた。
だが、石田は、
「えらいことをやりました・・・」
と言っただけで絶句する。

池田は石田を叱咤した。

「総裁、あなたがそんなことで、どうしますか。しっかりしなさい、総裁!」

電話の後、池田は側近に漏らした。

「弱ったな、大変ショックを受けているようだ」

その後、前述の通り総持寺に足を運ぶがずらりと並ぶ棺に言葉を失い。かろうじて焼香を済ませた後、石田総裁は遺族を前に頭を上げられず、

「本当に申し訳ないことをいたしました」

とうな垂れるばかりであったと言われています。
それほど、この事故は石田総裁にしてみればショックであったのでした。

事故後の9月12日には、参議院運輸委員会でも国会尋問があり、そこでは下記のように発言しています。

そして、ここで進退伺いを運輸大臣に提出したとされていますが、最終的に慰留され、事故の徹底究明を行うことになりました。
三河島事故の際、辞表を出した十河総裁に対して、
「辞めれば責任がとれるものではない」
と十河を諫めた言葉が、今度は自らに返ってくるのでした。

その辺の事情を参議院運輸委員会 の議事録から見ていただこうと思います。

なお、国会での証言並びに、監査報告書などにつきましては、別途の機会に資料ををアップさせていただきます。

第44回国会 参議院運輸委員会 第二号から抜粋

今回の事故は、全く国鉄の責任でありまして、何ら疑いをいれる余地なしであります。罹災者に対し、天下に対し、何ともおわびの申しようがないのであります。
 それで、国鉄といたしましては、これに対して、第一に罹災者に対する弔慰の問題でありますが、これは国鉄のできる範囲においてできるだけのことをいたしたい。しかも、それも早くいたしたいと存じております。同時に、負傷者に対しましては、早く全治をいたされまするように、できるだけの努力をいたしておるのであります。
 第二は、この事故の原因を徹底的に調査いたしまして、今後このようなことの起こらないように、極力努力するつもりでおるのであります。
 それから、国鉄総裁としての私の責任問題でありまするが、直ちに辞表を出して罹災者並びに天下に対して謝するということが考えられたのでありまするが、このような安易の方法は責任上とるべき態度でないと私は確信しておる。それよりは、今申し上げたような処置の解決にまず全力を尽くす。そうして、自分の進退問題につきましては、すべて総理大臣及び運輸大臣に出します意味において進退伺いを出す、そういう意味で、昨日私は運輸大臣に進退伺いを出したような次第でございます。
 それで、事故の詳細その他につきましては、副総裁から詳しく申し上げたいと存じます。

続く

 

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第5代国鉄総裁 石田礼助とは 第6話

2021-05-30 07:53:40 | 国鉄総裁

石田総裁はジェントルマン

前回、志免の所長を異動させて抜擢したことは書きましたが、誰を抜擢したのか正直私は調べ切れていないのですが、城山三郎氏の記述では、仙台鉄道管理局長へ栄転させて、その後東京鉄道管理局長へ、さらには常務理事へと登用したとあるのですが、残念ながら現時点ではこれ以上はわかりませんでした。

他にも、石田礼助総裁は外国生活が長かったこともあり、紳士としての振る舞いは一流であったようです。
当時は、女性を下に見る傾向が強い男尊女卑の時代ですが、石田総裁はそうではなかったようで、レディファストが板に付いていたと言われています。

例えば、エレベータへの乗降など常にレディファーストで、女性秘書や掃除のおばさんも女性を先に乗せたと言ったことが、「粗にして野だが卑ではない」に描かれています。

新総裁は総裁室付けの秘書にはどううつったか、佐々木和子は言う。

「こわいようでいて、気さくでやさしい方でした。呼鈴でいくと、それまでは決まって男の秘書を呼べと言われたものでしたが、石田さんは全て直接に指図されました。」

エレベータへの乗降はあくまでレディ・ファースト。女性秘書や掃除のおばさんを先にした。

「どうぞ、と言って、それがとても身についていました。」

このように、常に正直に生きる権力を笠に着ないという生き方をした方だと言えそうです。
さらに、石田は7月に磯崎副総裁からの提案で、朝の通勤ラッシュの様子を実際にその目で見ることになりました。

ラッシュ時の様子を見て国鉄の責任を痛感

最初の訪問は、7月2日 新宿駅であったようです。
以下は、弊ブログ、国鉄があった時代から抜粋したものです。

石田総裁炎暑下を初の現場視察 7/2

7時50分から8時25分まで、新宿駅で山手、中央線など各線と駅の混雑状況を視察

石田国鉄総裁、ラッシュ時の上野駅を視察 7/16

7:20から赤羽駅を、8:25から8時45分まで上野駅を視察、石田総裁は、かねてからの関心事ともあって混雑緩和の早期対策の責任を痛感され、“事故だけは絶対に起こしたくない.このためには国鉄はいまま.でのように目先にとらわれず.三段がまえくらいで、根本的な対策に前進しなければならない”と決心を語った

石田総裁就任初の西下 7/29

    7月29日から8月2日までの予定で、大阪地区の通勤輸送状況、新幹線建設工事の進捗状況視察と大阪府、市およぴ財界へのあいさつのため、特急第一富士号で西下

と有りますように、7月中に新宿・上野・大阪などでラッシュ時の状況を視察していくのでした。

そして得た結論は、輸送力の増強と安全対策で有るといことでした。

実際、視察を終えて記者たちには、三河島事故のような大事故後起こる危険性がないとは言えない、当面の打開策を考えないと・・・という発言をしています。

改めて石田は総裁としての国鉄の責任というものを感じたようであったと言われています。

実際、石田は監査委員長時代からの持論として、国鉄は全国ネットワークであり、地域と地域を結ぶなど国土の均衡開発の手伝いをするものであり。首都圏などで郊外に住宅地が広がるのは政府や地方自治体が考えるべき問題であると考えていたのですが、実際問題として、当時のラッシュは現在とは比べものにならないほど過激なもので、「押し屋」と言われる人が電車に通勤客を押し込むそれが日常であり、時に靴が片方だけ残ったとか・・・笑えない事情は多々ありました。
特に中央線などは、戦後東京23区内から転出した多くの人が八王子市などに居を構えたことから中央線の混雑が激化、101系電車が最初に中央線に投入されたことは皆さんもよくご存じのことかと思います。

再び、「粗にして野だが卑ではない」から引用してみたいと思います。

通勤対策について、これまで石田には石田なりの意見があった。

首都圏などでは住宅地が郊外へと広がり、通勤距離はのび。通勤人口はふえる一方である。これはそれら地域の問題であり。政府や地方自治体が対策を考えるべきである。
  国鉄はもともと全国を対象とし、地域と地域を結ぶとう国土の平均的開発に役立つのが使命である・・・と。
石田は、これまでのそうした考え方を「悔い改めた」とも言った。

そして、こうした国鉄の実情を見てから、できる限りの安全対策と輸送力増強に力を注ごうとしたのですが。その矢先に、過密ダイヤが原因となる大事故が起こってしまいます。

11月9日に発生した、鶴見事故でした。
鶴見事故に関するお話以降は、次回お話をさせていただこうと思います。

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第五代国鉄総裁 石田礼助 第四話 第五代国鉄総裁就任、職員向け訓示全文掲載

2021-05-28 10:02:45 | 国鉄総裁

第五代国鉄総裁 石田礼助 第四話 第五代国鉄総裁就任、職員向け訓示全文掲載

以前blogで紹介した、石田礼助総裁のお話第5回目の動画版です。
石田礼助氏の国鉄に対する思い、そしてリーダーとしての考え方、今でも十分参考になることはあると思う。

是非とも、リーダーと呼ばれる方や政治家に見ていただきたい。

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第5代国鉄総裁 石田礼助とは 第5話

2021-05-22 21:51:24 | 国鉄総裁

引き続き、石田礼助総裁のお話をさせていただこうと思います。

今回は、少し毛色を変えて、国鉄部内紙、「国有鉄道」の昭和38年7月号に掲載されていた、国鉄総裁就任の挨拶からを全文引用した上で私見を述べてみたいと思います。

石田禮助氏は、昭和38年5月、十河総裁の後任と言うことで、第5代国鉄総裁に就任することとなりました。

国有鉄道と言う国鉄職員向けの部内紙の冊子で、下記のように、「仕事に誇りを持って」という表題で、職員向けに挨拶がなされていました。
著作権の問題もありますが、敢えて全文掲載させていただきます。

国鉄職員に向けて、就任の挨拶

仕事に誇りをもって

総裁 石田 禮助


十河前総裁は任期八年間にわたって実に大きな業績を残された。戦中戦後の酷使によって疲弊にあえいでいた国鉄が、よく今日にまで立ち直り得たのは、職員諸君の健闘のあったことはもちろんであるが、十河前総裁の国鉄を愛する、いや国を思うひたむきな情熱と努力に負うところ、まことに大きいものがあると思う。

今般十河さんの後を受けて私が国鉄のかじを取ることになったが、私は幸い過去6年間、国鉄監査委員会の委員長として国鉄を横から見てきたことでもあり、 国鉄についての若干の知識と愛情をもっているつもりである。
思うに国鉄の仕事は輸送のサービスである。1年に50数億人の生命と2億トンの国民の財産を預かり、その信頼を受けて文化と経済の発展に尽す。
私が半生を送った物産会社では、いわば欲得の仕事をしてきたわけだが、国鉄のように国民のためにサービスを提供するということは、まことに尊い仕事である。

ご承知のように、いま国鉄は、あらゆる面からみて重大な転機にさしかかっているが、私は、国民のために是非ともかじを取り誤まることなく、健全な鉄道づくりに精根を傾けたいと思う。職員諸君も、単に人や物を運搬する仕事をしているということではなく、仕事に誇りを持ってやっていただきたいと思う。

しかし、国鉄のサービスの根本は、何と言っても十分なる輸送力を持つことだと思う。
今の状態は、十分にこれを果しているとは思えない。もちろんこのためには、複線化や車両の増備等にばく大な投資を必要とする。
この意味で、現在進めている東海道新幹線を含めた第2次5箇年計画は絶対にやり遂げなければならないものと思う。 
最近新幹線工事の予算不足が明らかになり、大きな問題になっているが、これについても政府、国会のご支援を得てすみやかに善後措置を講じ、所期の計画の達成に努めたい。第2次5箇年計画の完成によって、国鉄はサービスの面にも、経営の面にも生気と希望をとりもどすことができ、これによる職員の士気の高揚は必ずや大きいものがあると確信している。
32年以来推進している第1次・第2次5箇年計画によって、国鉄は、計画以前に比べ表面的には顕著な立直りをみせつつあることは事実だが、先般の諮問委員 会の答申にもあるように、掘り下げてみると公共企業体として運営していく上において、財政上、制度上まだまだ多くの病根を抱えており、経営改善の途はなおけわしいものがある。
私はこれらの問題に順次検討を加え、可能なものから解決していきたいと思っている。しかし、これらはいずれにせよ、諸君の真なる協力があってはじめてできることと思うので、是非ともよろしくお願いしたい。

石田礼助総裁の心には、監査委員長を2期6年務めて来たことで得た素直な気持ちであったでしょう、

特に、「国鉄のように国民のためにサービスを提供するということは、まことに尊い仕事である」という言葉は、純粋に国鉄という公共サービス(パブリック・サービス)であると自ら信じていたからに他なりません。
また、石田総裁は、国会議員に対しても権力と戦うという気持ちはさらさら持っていませんでした。

国会議員は、代議士と言われるように国民の代表であり、公益の代表者であるという考え方であり、むしろ同士であると考えていたのでした。

それは、国会議員に対して、「諸君にも責任がある」と言った発言は、一緒になって改めるべきは改めていこうと言うことで、国会議員の責任を詰めると言ったつもりではなく、公益の代表者同士話し合おうではないかという意識から来たものでした。
公務員をしていると、どうしても政治家に支配される・・・と言うか、組織的にはそうならざるを得ないところがあるだけに、それに対してこれだけはっきりいてくれるだけでも、国鉄職員の多くも救われたと思われます。

破天荒な国鉄総裁

総裁に就任した、硬直した国鉄の組織を少しでも風通しが良いものにしようとしました。

その特徴的なことの一つに、総裁室のドアをオープンにしたことでした。

「誰でも、自由に、いつでも入りたまえ」

秘書を通さず、立ち会わせず誰とでも会うスタイルを作ったのでした。
私も、郵政局で仕事をしたことがありますが、どこでもトップの部屋は厳重に秘書課が固めているというのが一般的であり、郵便局などでも局長室のドアは常に固く閉ざされていると言うのが一般的でした。
私の知る限りでは、研修所で女性所長が就任したとき、慣例を破ってドアをオープンにして、自由に入れるようにしていた時期がありましたが極めて例外中の例外でした。p>

他にも、監査委員長時代から、ノン・キャリア組の抜擢を進言しており、実際に総裁に就任してからは、大学卒ではない人材を本社の広報部長(局長級)に抜擢したり、局長たちから成る会議のメンバーに加えるなどの人事を図ったそうです。

その後、昭和39年6月30日をもって閉山した志免鉱業所【昭和39年7月1日からは、志免炭鉱整理事務所】の所長を抜擢する人事を行うのですが、この辺は次回にアップさせていただこうと思います。

続く

 

 

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第5代国鉄総裁 石田礼助 第4話 第5代国鉄総裁就任、世論は概ね好意的

2021-05-20 06:33:57 | 国鉄総裁

第5代国鉄総裁 石田礼助 第4話 第5代国鉄総裁就任、世論は概ね好意的
国鉄総裁 石田礼助物語の第4回目動画版になります。
非常に魅力的な理想の上司として、広く知られて評価されるべきではないでしょうか?

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石田怜助総裁物語 第三話 石田礼助国鉄総裁誕生

2021-05-17 22:53:00 | 国鉄総裁

石田怜助総裁物語 第三話 石田礼助国鉄総裁誕生

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第5代国鉄総裁 石田礼助とは 第4話

2021-05-04 22:07:08 | 国鉄総裁

石田総裁誕生

石田総裁のことを参照するのに、城山三郎の伝記、「粗にして野だが卑ではない」を参考に書かせていただく部分が多いことを最初にお断りしておきます。

石田総裁は、十河氏の後任として、昭和38年5月20日に第5代国鉄総裁として就任しました。
その際の記者団との会見で

  •             新幹線と第2次5箇年計画の完成
  •             諮問委員会答申問題の解決
  •             能率と投資効果の向上
  •             安全確保
  •             汚職追放等

 以上5項目にわたる方針を披瀝、あくまで奉仕と犠牲の精神でサービスに徹する所信を明らかにした。

国鉄があった時代 http://jnrera3.webcrow.jp/nenpyou/shouwa_JNR/s_38.html

なお、14時から本社9階大会議室では、国鉄45万職員に向け、新旧両総裁のあいさつが行なわれ、SHF網で全国に同時中継されたそうです。

参照・国鉄があった時代 昭和38年前半

「粗にして野だが卑ではない」の意味とは?

石田総裁の考えの根底にあることは、正しいことを正々堂々とするという信念でした。
この考え方が、「粗にして野だが卑ではない」と言う言葉であり、敢えてそこに私心があるとすれば、それは『天国への旅券(Passport to heaven)』を得るためだという心でした。
私心というか欲というものからではなく、あくまでも公に徹すると言うことを信念にしていた人であったことが窺えます。
また、石田総裁の優れていたことは,その責任の取り方でした。

仕事は任せるが最終的な責任は自分が取るというスタンスで、十河総裁時代に辞職していた磯崎叡を副総裁に据えると共に、昭和33年に退職して、日本交通技術株式会社社長に就いていた藤井松太郎を呼び戻して再び技師長に据えることで、自信のスタッフを固めていくことになりました。

ここに、十河総裁時代に辞めた二人が帰ってくることとなったのです。

さて、ここで「粗にして野だが卑ではない」から、当時の就任直後のお話しなどを引用させていただきます。


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 石田の国鉄についての理念は明確であった。
 「企業精神で能率的に経営していく」そのため「できるだけ合理化をやらなけりゃいかん」し、「もっと営利心をもて」
 同時に、「弾力性のある独立採算」ができるよう、政府・国会に強く働きかける。
 総裁の仕事としては、嫌なこと、総裁でしかできないことだけやり、決断はするが、実務はすべて磯崎以下に任せる。弁解はしない。責任はとる。
 それは、これまでの長い支店長生活で一貫してとり続けてきた姿勢でもあった。
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理想的な上司、手柄は部下に、責任はトップに

池田勇人が画策したように、政敵に成長していた佐藤栄作を牽制しつつ、国鉄には企業性を持たせるために石田総裁を総裁に据えたその狙いは当たったと言えそうです。
また、石田礼助は、就任時77歳という高齢であり、十河氏が就任したときが71歳であっただけに更に高齢になった国鉄総裁に対して、不安を示す声もありましたが、それに対しては、「気分はヤングソルジャー」「心はウオームハートじゃ」と言ってのけたように、その年齢を感じさせないパワーがありました。

そして、ここで書かれていますように、石田総裁は、「弾力性のある独立採算」ができるよう、政府・国会に強く働きかける。と宣言しているように、実際に国会などに直接働きかけるのでした。

世論は新総裁に概ね好意的

さて、ここで。新総裁誕生を世論はどの様に捉えていたのでしょうか、国鉄線 昭和38年7月号の世論アラカルトに当時の新聞記事などの様子が書かれているのですが、旧三井物産の社長という財界の大立者であり,国鉄の監査委員長を2期6年勤めたおり、世間では概ね好評理に迎え入れられていたようです。
国鉄線 昭和38年7月号から引用してみたいと思います。


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5月20日、国鉄の総裁に石田礼助氏が任命された。新総裁は、財界の相談役的存住であったし、国鉄の監査委員長を二期、六年もっとめられたいわば国鉄にとっても大久保彦左的存在だったということで、世論は新総裁を心からなる拍手をもって歓迎したし、またそれだけに新総裁に対する期待も大きいようだ。「だれもなりてのなかった国鉄総裁を敢然として引きうけ、勇気りんリんとその抱負を語る石田新総裁の信念と熱怠は大したものだ。国鉄の悩みも矛盾も弱点も欠陥も一応は知りつくしているといってよい。ずばずばと病めるマンモス"国鉄"の病原を衡き、おれはこうしてこの病気をなおすつもりだ、とはっきりいいきる。そして国鉄に今なお残る官僚風と親方日の丸意識を極端に憎む。国鉄のもつ公共性と企業性を能率によって調和させようというあたりもビジネス・マンらしい考え方だ。」(読売・編集手帳・5・15)
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昭和38年7月、国鉄線から引用

これ以外にも多くのマスコミなどでは、国鉄の総裁が民間から受入れることができたとして、政府の対応も評価しています。

実際、民間出身の石田総裁は、政治家に対しても歯に衣着せぬ物言いで、切り開いていくことになるのですが、その辺は日を改めて詳しくお話をしたいと思います。

続く

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第5代国鉄総裁 石田礼助とは 第3話

2021-04-29 00:02:16 | 国鉄総裁

新幹線問題での十河総裁の辞任と後継総裁選び

十河総裁が辞任したのは、昭和38年5月19日に任期満了という形で退任することとなりました。
その前年の昭和37年の三河島事故では責任取ると言うよりも、遺族への補償を行うことを最優先として、辞任することはありませんでした。
十河総裁は、新幹線の建設費増大の責任を取って辞任する事となりましたが、この辺に関しては既にご存じの方も多いかと思いますが、不足となることは織り込み済みであったそうです。
(その辺は改めて機会があれば、十河信二伝としてアップさせていただきます。)

結果的に詰め腹を切らされる形となった怒号総裁の後継を当時の池田内閣では財界人からの採用を考えたそうですが、ことごとく拒否されることになったそうです。
その辺を、城山三郎著 「祖にして野だが卑ではない」石田禮助の生涯から引用させていただこうと思います

総理大臣池田勇人は、国鉄総裁への財界人起用に執念を燃やしていた。だが、総裁に成る身にとっては――。
「何ひとつ権限のない仕事をやらせる気か」と、小林一三が初代総裁のポストをはねつけたのは、有名な話である。従業員数46万。その数だけでも統率力の限界を超えている上、政府の指揮監督、国会の監督と手枷足枷をはめられての仕事である。給与も運賃も自ら決めることができない上、公共負担をというので、農産物輸送は採算無視の低料金。通勤通学定期の割引についても、国鉄法では5割までと定められているのに、前者は8割3分、後者については実に9割3分の割引を強いられていた。

経営サイドに当事着能力がまるで与えられていない。運輸以外の副業は許されない上に、新線建設を各地で押しつけられる。これで、いったい企業なのか、それとも営業または準営業なのか。その点について、国鉄部内にも意見の統一がなかった。加えて、巨大な労働組合の壁がある。

と言った具合で、経営者にしてみれば、苦労だけが多くて何も権限がない役職などやりたくないというのが本音でした。
それでも、池田内閣は財界人の採用に拘るのでした。

財界人の採用に拘る池田首相

その背景には、佐藤栄作との因縁が有り、国鉄の効率を上げ活力を吹きこむという大義名分よりも、政敵佐藤栄作の国鉄への影響力を絶とうという狙いが見え隠れするものですから、誰も引き受けては見つかりませんでした。
池田首相は、経団連会長の石坂泰三に総裁の打診しますが、声をかけられた、松下幸之助や王子製紙の中島慶次は言下に断わられる等、その人選は苦労したと言われています。

そこで最後に、声をかけたのが盟友である、石田禮助でした。
石田はその申し出を受け入れることになるのですが、その辺を再び城山三郎著 「祖にして野だが卑ではない」石田禮助の生涯から引用させていただこうと思います

池田はますます意地になる。窮した石坂は、石田禮助にたのむ他ないと思った。昔からの親友であるだけに、それまでは避けていた名前であった。ところが、石田はよろこんで石坂からの話に応じた。いや、むしろ心待ちにしていた感触さえあった。

石田は昭和31年から2期にわたって監査委員長を務めており、その後は諮問委員をしていたそうです。
諮問委員をして、本社に来ていた際に呼ばれて、そのまま官邸に呼ばれたそうです。

誰もが驚いた石田総裁誕生

石田禮助は、官邸に向かい、国鉄総裁を引き受ける事になりますが、この時78歳と言う高齢であり、十河総裁が総裁を引き受けたときが71歳でしたので、更に高齢になったと言わざるを得ません。

その後の記者会見では、「乃公出でずんば(なんこういでずんば)」の心境で有ると発言したそうですが、これは監査委員長を務め、また三河島事故での十河信二総裁の苦労などを知っているからこそ、国鉄をよくしたいという強い思いがあったのではないかと考えてしまいます。

石田禮助は子供がいなかった(晩年養子を迎えている)こともあり、35年の三井物産在職中実に28年も海外生活をしていたと言われています。
それ故に、合理主義が浸透しているであろう、石田が国鉄総裁のような何の権限もない、むしろ苦労多くして益が少ない仕事を引き受けたことに驚きを禁じ得なかったと言われています。

その辺を再び城山三郎著 「祖にして野だが卑ではない」石田禮助の生涯から引用させていただこうと思います

この報せに、石田を知る人々の間では、「よくまあ引き受けたものだ」という声が圧倒的であった。
若い日、三井物産社員としてニューヨークで石田支店長に仕えたことのある弘世現(現日本生命会長)は言う。
「石田さんが引き受けられたと聞いて、とにかくびっくりしました。普通なら、悠々と余生をたのしむところでしよう。総裁になったところで、いいのは汽車に乗るのがタダになるぐらい。それなのに、総裁の仕事は容易なことじやない。石田さんはそれを読んでたはずなのに」

実際当時の国鉄の職場での職員の志気は低下しており、前年発生した三河島事故の場合はその最たるものと言えました。

三河島事故 画像 wikipedia

  • 貨物列車の機関士が信号を見落として冒進した
  • その後、事故を起こす電車が来るまでには7分間の時間があったにも関わらず、貨物列車の運転士も、下り電車の運転士も上り電車の列車停止手配を行わなかった
  • 上り電車は停止手配をされていなかったのでそのまま、事故現場に突っ込み、先頭車が大破して築堤下に転落、2両目も高架下倉庫に転落してしまいました。

これ以外にも、国鉄職員が一等寝台車の喫煙室を寝台代わりに添乗したりというかなりデタラメな状況にあったそうで、全体に志気は低下しており、そうしたことも監査委員時代に見てきたこともあり、なんとかしたいという思いがあったと言われています。

続く

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第5代国鉄総裁 石田礼助とは 第2話

2021-04-23 00:45:56 | 国鉄総裁

国鉄監査委員会とは

国鉄監査委員会は、従来の経営委員会に変わる組織として、昭和30年6月に設置された日本国有鉄道経営調査会が検討を重ねて、調査・審議を行ったもので。
その趣旨に基づき、日本国有鉄道法が改正されて設立されたもので、それまでの経営委員会に代えて、理事会を最高意思決定機関とするとともに、監査機関として新たに監査委員会が設置されたのでした。
監査委員会は、国民的立場から国鉄の経営を監査し、真に国民全体の利益となるような公正で能率的な国鉄の運営に資することであるとして、監査委員会の委員は運輸大臣によって任命されることになっていました。
これにより、国鉄部内の理事が力を決定権を持つとともに、その行為を外部から監査する事になりました。

国鉄の監査委員に推薦したのは誰か?

国鉄監査委員長に石田を推薦したのは誰だったのかと言うことで、調べてみますと。
同じ国府津の住人であった、十河信二総裁であったわけですが、それ以上の詳細は書かれていませんので省略させていただこうと思いますが、経団連会長を務めた、石坂泰三氏とは40年来の付き合いであり、池田内閣が十河総裁の後任に財界人から総裁をと言ったときに、強く推薦したのが石坂泰三氏であったそうです。
その辺は、後ほど改めて述べさせていただきます。

「粗にして野だが卑ではない」
就任半年後の座談会で、その後有名な、「粗にして野だが卑ではない」発言が出てきます。
要は、自身は「国鉄部内の人間ではないから、組織に飼い慣らされているわけではないから、そうした意味でワイルドである。(大胆に発言できる)という意味で発言したようです。

その背景には、つまりあなた方はテーム(従順)なんだ。私は国鉄というものに対して今までストレンジャー(門外漢)であったために、甚だワイルドなんだね。けれども粗にして野なれども卑ならずというわけで、この点は一つ十分御了解願いたいですな。しかしここに西野君のような経理に関する非常な権威者がいて、一緒にやっていてくれるので、大いに意を強くしているのですよ。

国鉄線 昭和32年1月号 国鉄人に望む から引用

他にも、石田禮助問い人となりを知る上で気づかされるのは、外国での生活も長かったこともあり、非常に合理的であったと言うことが言えます。
そして、ある意味で公平無私な人であったと言えそうです。
監査委員長当時でも、ノンキャリア組の抜擢などを進言したりしており、国鉄という硬直した組織を少しでも良くしようと尽力されたそうです。

以下は、就任半年後の昭和32年1月、国鉄線という国鉄部内紙に掲載された新春座談会の記事からの引用です。

ここで発言されていますが、非常に熱心に国鉄を少しでもよくしていこうという思いがくみ取れるかと思います。

それでいろいろ勉強しましたね。しかし勉強したものの、国鉄の仕事の範囲があまりに広いので、まだ自分としては、あえて小学校とはいわんが、中学校も一年生くらいのところだと思う。私が監査委員会で石井さんなんかに対してお話しすることも、あとで顧みるとどうも生はんかだったと忸怩たることがある。石井さんはほめるようなことをいっているが、結局私のいうことが少しワイルド(粗野)なんだね。これから大いに勉強して、いかにしたらすっきりした国鉄にすることができるか、まじめにやろうと思う。ただ、あえてお断わりする必要もないのだけれども、私の念願は何とか国鉄をりっぱなものにしたい、要するに新しい国鉄精神を打立てたいということで、そこに私の誠がある。

さらに同じ記事の後半では、下記のように発言されています。

国鉄という組織が硬直化して、昔の鉄道省の残滓が所々に残っているからそうしたものを是正すべきで有ると明言しています。


少し引用してみたいと思います。

封建性ということはどうかと思うが、今のところは鉄道省というものの残滓がまだだいぶあるな。つまり、企業性に欠けているというのは鉄道省の名残だと思うな。たとえば例の一年に3000億も入る金の処理について経理局長とだいぶゃったんだが、あのフアイナンス(経理)のやり方というようなものは、ある記者が批判しておったように、「国鉄は12才なり。」というきらいが確かにあると思うな。

2枚とも、昭和32年1月 国鉄線 対談 国鉄人に望むから引用

 

 

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