国鉄があった時代blog版 鉄道ジャーナリスト加藤好啓

 国鉄当時を知る方に是非思い出話など教えていただければと思っています。
 国会審議議事録を掲載中です。

グリーンシートのお話

2019-07-24 21:23:10 | 国鉄思いで夜話
グリーンシートのお話
皆様、こちらの投稿はほとんど放置状態になってしまいまして申し訳ありません。
ちょっと面白い記事を見つけたのでアップさせていただきます。

グリーン車ではなく、グリーンシートのお話
今回はグリーンシートのお話・・・グリーン車ではありませんので早合点しないでくださいね。
昭和33年12月号の国鉄線からのお話ですから。
昭和33年といえばまだ等級制を採用していた頃で、1等・2等・3等という表現がなされていました。
昭和33年当時1等車と呼ばれるものは展望車のみであり、着実に国鉄としてもサービス向上は進められていました。
特別2等車と普通の2等車が存在した
2等車にあっては進駐軍の命によりリクライニングシート付の2等車(特別2等車)があり、元々1等車としたかったのですが連合軍の許可が下りず、2等車扱いになったのですが従来の2等車との格差が有ったので、特別2等車という名称を使っていました。
なお、特別2等車は従来は、特急列車にのみ連結されていましたが、サービス向上の目的から昭和33年10月の改正からは、普通急行列車にもリクライニング装備の特別2等車が導入されることになりました。
車両編成

そこで、上記の急行瀬戸のように、2両ある場合は1両を自由席・1両を指定席に出来ますが、1両しか連結しない場合は一部の座席のみ指定席とすることとされ、特別2等車の座席の背摺りに、指定席であることを区分するために淡緑色に指定席と縫い付けたシートカバーを白カバーの上から被せてあったそうです。
その為にはこの方法が考案されたそうですが、大きなトラブルもなく推移しているとのことで幸いであると記事は締めくくっています。
余談ですが、従来の2等車(並ロ)と呼ばれる車両は準急列車や普通列車には引続き使われており、こうした車両が格下げ改造で消えたのは昭和42年頃でした。
準急用2等車として製造されたサロ153以外は全て普通車(旧3等車)扱いとなりました。


当時の記事を参考に乗せておきます。

国鉄線昭和33年12月号記事から
昭和33年12月号 国鉄線 17ページから引用
参考 公益財団法人 交通協力会HP


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1 コメント

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マルテンサイト変態千年グローバル (元鉄鋼商事関係)
2024-11-19 01:52:40
やくもというと、スサノオノミコトの和歌が思い出されますね。そういえば伯備線をすぎ山陰線の路線上にある山陰の島根県安来市は出雲国風土記によるとこのヤスギというのはスサノオが命名したらしいですね。ここらあたりは日本遺産にもなった鉄の道文化圏というものがあり、たたら製鉄に関する和鋼博物館があったり、NHKなどでもたまにやっている日本刀の原料となる玉鋼をつくっているところもあるようですね。そういうわけで刀鍛冶の聖地として最近ではアニメ鬼滅の刃の関係で、日本刀でスパッと割ったような奇岩、巨大割石などもインバウンド観光の盛り上がりとともに有名になりつつあるようです。
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