石田禮助とはどんな人物だったのか。
石田禮助という国鉄総裁の話なのですが、その前段を知っていただくことも理解を深める上で重要かと思いますので、就任までの話を少しさせていただこうと思います。
十河氏の依頼を受けて、初代国鉄監査委員長に就任したのは、三井物産でニューヨーク支店長等を勤めた石田禮助でした。
石田禮助の三井物産時代の話などは、省略させていただきますが、国鉄との接点を知っていただくために、戦時中の公益営団の頃からのお話を進めさせていただこうと思います。石田禮助は、昭和14年に三井物産の代表取締役社長に就任、昭和16年には退職し、その後は昭和17年には「産業設備営団顧問」、翌昭和18年には「交易営団」の総裁に就任しています。
ここで、営団とは?ということで少しだけ解説を加えさせていただこうと思います。
営団とはどのような組織だったのか?
営団と聞いて、鉄道ファンの方でしたら。東京メトロを思い浮かべる方も多いのでは亡いでしょうか。
現在は、東京メトロという名称ですが、元は「帝都高速度交通営団」と言うのが正式な名称でした。
「帝都」という名前も中々ですが、「大日本帝国」から取った名前ですよね。
現在の京王電鉄も1998年6月末までは京王帝都電鉄を名乗っていましたが、元々京王電鉄と、帝都電鉄が合併したことから残された名前だったわけですね。
ちょっと話が大きく脱線してしまいましたが、改めて「営団」というものを解説してみたいと思います。
営団とは、wikipediaを参照しますと以下のように書かれています。
営団(えいだん)とは、1941年(昭和16年)以後、近衛内閣における国家総動員体制の下、国策会社とともに誕生した「官民協力」の性格を有する、公法人でも私法人でもない中間形態の特殊法人をいう。個別に制定される特別法により設立された。
ここに書かれていますように、営団というのは戦時中に設けられた特殊組織であり、石田禮助が顧問として就任した「産業設備営団顧問」は国家緊要産業の設備にして事業者の建設または維持が著しく困難なるものの建設・買い取りを行う組織であり、「交易営団」は、大東亜(東南アジア全域)の計画貿易を遂行せんとする組織として設立されたもので、営団という組織の性格上戦時統制が目的であり、戦後GHQにより廃止もしくは改組されていき、こうした公職に就いていたものは、公職追放を受けることとなり、石田禮助も、公職追放後は神奈川県の国府津で住んでいたそうです。
引用 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 企業(1-018)
昭和31年、初代国鉄監査委員会の委員長に就任
その後、国府津の別邸で悠々自適の生活をしていた頃、十河との接点が出来たとされています。
戦後の、昭和24年に国鉄が誕生しますが、その組織は昔の鉄道省そのものであり、桜木町事故に見られるような大きな事故を発生させていた上に、高架下の利権などで不明瞭な扱いなども多く、国民からの批判を浴びている時期でした。
そうした国民の不満を解消するため、国鉄監査委員会が設立されることとなり、その初代委員長に就任するのが石田禮助氏でした。
就任当初は、三井物産の社長を退陣したのが昭和16年、その後の営団の総裁時代を含め、10年以上前の人物を引っ張り出してきたとして、どちらかというと意外な感じで受け取られたようです。
当時の部内紙、国鉄線という記事には、下記のように監査委員長就任ついて書かれています。
それに反して、委員長となった石田氏は三井物産の第一線を退いてからあまり世間に名を出していないので、初めて聞く人も多く、新聞もその意味で採上げたのかも知れない。しかし紹介の記事を読むとなかなかの人物らしく、その豪快な性格によって監査委員長としての手腕に期待される所が多いと共に、国鉄部内にも新風を送りこむものとみられている。誠に結構な人を得たといえよう。
続く
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国鉄があった時代 JNR-era
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