思い出話を書いたついでに。
そういえば、高校3年のときに面白いことがあった。
私がいた3年3組の教室だけは、旧校舎の離れ小島のようなところにあって「隔離」されていた(と、生徒たちは考えていた)。新校舎とは屋外の離れ廊下でつながっていたのだが、あるとき2階の廊下側のドアになぜか 鍵がかかっていた。
教室の窓からは、次の授業をするべく、古典の先生がその2階の廊下をやって来るのが見えた。しかし、鍵がかかっているので入れない。窓際で眺めていた生徒たちはざわついたが、別に1階から入り直せばいいのだから、どーってことないと思っていた。
妙に長い時間がたって、その古典の先生は3組の担任を連れて教室に入ってきた。
「誰だ?! イタズラしたのは? 名乗り出るまで授業をしないぞ!」
どうやら、鍵をかけたのはこの先生をからかうイタズラだと思って、別の教室で授業していた担任に直訴に及んだらしい。担任はむつかしい顔をして「正直に言いなさい」とだけ言った。
即座に、タイラ君が「僕がやりました」と立った。でも、彼がやったのではないことはみんな知っている。だって、ずっと一緒にいたのだから。
「いいえ、僕がやりました」
そう言って、今度はコン君が立った。すると、「私がやりました」「僕がやりました」と、女生徒も含めて次々とみんなが立ち始めた。結局クラス全員が立ってしまった。
担任は、顔を歪めて笑いをこらえている。
古典の先生は、「いい加減にしろ!」と顔を真っ赤にして教室を出て行った。
他人の罪をかぶろうとする行為を「いいコぶる」とか「偽善」といってあげつらうこともできようが、あのときの3組の生徒たちは「傷つきやすい個人による誤解」(あの古典の先生はちょっと被害妄想の趣きがあった)を、なんとかして自然に「受け入れやすい真実」に変えたかった、のだと思う。
誰もイタズラで鍵をかけやしない。イタズラするのなら、もっとセンスのいいやり方を考える。しかしそれを言い募っても逆効果だったろう。教師という権力者がねじ曲げた事実に対して、生徒という被支配者が対抗するとき、この方法はなかなか有効だった。
結局、学校だろうが社会だろうが、つまるところは人間の器の大きさが問われているのだ。
担任は、「では、お前らはこの時間は立ったまま自習してなさい」と言い残して、今度ははっきり笑いながら、自分の授業に戻っていった。
ウワサによれば、3年3組は扱いにくいクセ者を寄せ集めたクラスと言われていた。
そのクラスにいたからには、きっと私も問題生徒だったのだろうが、おかげでいい担任にあたったと思う。なにしろ、進路指導で、模試の成績で考えればどうやっても無理な受験を「いちかばちかやってみるか?」で片付けてくれたし。
思えば、いい時代だったのかもしれない。
そういえば、高校3年のときに面白いことがあった。
私がいた3年3組の教室だけは、旧校舎の離れ小島のようなところにあって「隔離」されていた(と、生徒たちは考えていた)。新校舎とは屋外の離れ廊下でつながっていたのだが、あるとき2階の廊下側のドアになぜか 鍵がかかっていた。
教室の窓からは、次の授業をするべく、古典の先生がその2階の廊下をやって来るのが見えた。しかし、鍵がかかっているので入れない。窓際で眺めていた生徒たちはざわついたが、別に1階から入り直せばいいのだから、どーってことないと思っていた。
妙に長い時間がたって、その古典の先生は3組の担任を連れて教室に入ってきた。
「誰だ?! イタズラしたのは? 名乗り出るまで授業をしないぞ!」
どうやら、鍵をかけたのはこの先生をからかうイタズラだと思って、別の教室で授業していた担任に直訴に及んだらしい。担任はむつかしい顔をして「正直に言いなさい」とだけ言った。
即座に、タイラ君が「僕がやりました」と立った。でも、彼がやったのではないことはみんな知っている。だって、ずっと一緒にいたのだから。
「いいえ、僕がやりました」
そう言って、今度はコン君が立った。すると、「私がやりました」「僕がやりました」と、女生徒も含めて次々とみんなが立ち始めた。結局クラス全員が立ってしまった。
担任は、顔を歪めて笑いをこらえている。
古典の先生は、「いい加減にしろ!」と顔を真っ赤にして教室を出て行った。
他人の罪をかぶろうとする行為を「いいコぶる」とか「偽善」といってあげつらうこともできようが、あのときの3組の生徒たちは「傷つきやすい個人による誤解」(あの古典の先生はちょっと被害妄想の趣きがあった)を、なんとかして自然に「受け入れやすい真実」に変えたかった、のだと思う。
誰もイタズラで鍵をかけやしない。イタズラするのなら、もっとセンスのいいやり方を考える。しかしそれを言い募っても逆効果だったろう。教師という権力者がねじ曲げた事実に対して、生徒という被支配者が対抗するとき、この方法はなかなか有効だった。
結局、学校だろうが社会だろうが、つまるところは人間の器の大きさが問われているのだ。
担任は、「では、お前らはこの時間は立ったまま自習してなさい」と言い残して、今度ははっきり笑いながら、自分の授業に戻っていった。
ウワサによれば、3年3組は扱いにくいクセ者を寄せ集めたクラスと言われていた。
そのクラスにいたからには、きっと私も問題生徒だったのだろうが、おかげでいい担任にあたったと思う。なにしろ、進路指導で、模試の成績で考えればどうやっても無理な受験を「いちかばちかやってみるか?」で片付けてくれたし。
思えば、いい時代だったのかもしれない。
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