4月23日 土曜日 麗江→香挌里拉(中甸)
【スタッフがいない】
今日はさらに北へ行き、さらに標高が上がる。持っている衣類をかき集めて着重ねる。
中庭は無人でフロントの場所がどこかわからない。外に出る門には施錠されており、何よりデポジットを返金してもらわないといけないのでスタッフを待つが寒い。
2階のカップル客が降りてきて小さな小屋をノックしたら、スタッフがパジャマのまま出て来て門を開け、カップルが出て行った。この小屋はトイレだとばっかり思っていた。そのスタッフにレシートを見せると彼は頷いて身支度し、タバコをくわえて「ついて来い」という仕草をした。
五一街を西へ、かなり歩いて別の客桟でおかみさんから70元を回収して取引終了。ここがオーナーのウチらしい。
もうそこは小石橋だった。すでに06:53、思わぬことで出遅れた。香挌里拉(シャングリラ/旧名は中甸[チョンディエン/ちゅうでん])行きのバスは07:30発、急がねば。
四方街から七一街を抜けていく。あっという間にツーリストが増えてきた。静かな街を楽しむなら7時前か。小学校を過ぎ、クラウンプラザホテル前のタクシーたまりから右折し、車列が空いた隙に道路を渡る。交差点の向こうでバス待ちの人々が路上にあふれていた。西側の山々が朝日を反射して輝いている。
【香挌里拉行きのバスに間に合った】
07:21、麗江バスターミナル着。61元(58元+保険3元)だった。今までバスの保険は1元だったから、危険度が高い道らしい。ちなみにこの保険はほぼ自動的に徴収されるが、名目的には強制ではなく任意らしいので、払わないで済ませることもできるようだ。
窓口嬢が指差した方向に向かう。立派な待合室が両側にある。gate 4でチケットをもぎり、目の前にいた香挌里拉行きバスに自分で荷物を入れる。07:29、発車。
【虎跳峡漂流】
バスはしばらく西へと走る。右側に玉龍雪山が見える。このバスは比較的まともな車両で、席もほぼ定員を守り、時計も合っている。人民たちは平べったいあんパンやプレッツェルもどきを朝食代わりに食べている。
山道に入った。気圧が下がってきたので耳抜きをする。右手に崖、左手に大河。工事が多い。やがて「虎跳峡漂流」の看板がかかった橋を通り過ぎると、右手に急流があらわれた。
何もないところで青年が下車していった。自転車に大量の荷物、ここからヒルクライムか。健闘を祈る。バスは急流に寄り添って崖を走ってゆく。山頂に雪をかぶった高峰、ヤギ、そしてタルチョ。
どうやらチベット文化圏に入ってきたようだ。空が晴れてきた。香挌里拉らしき街に入る。11:45、バスターミナル着。
【架空の地名に託す皮算用】
バスから降りる乗客に客引きが群がるが、中国人グループに集中してくれたおかげで簡単に抜け出せた。きっぷ売り場へ行って地図を撮影する。
バスの路線図と時刻表によれば、ここからラサまでのバス便がある。パーミットがないと行けないとは思うが。
[注]シャングリラ(Shangri-la)はジェームズ・ヒルトンの小説「失われた地平線」に描かれた架空の理想郷だが、雲南省西北端の迪慶(ディーチン)チベット族自治州にある中甸(チョンディエン/ちゅうでん)県が2002年に県の名称をシャングリラ(香格里拉))県に改め、飛行場の名称もシャングリラ空港として急速に観光地化を進めた。チベット名ではGyalthang(ギャルタン)と呼ばれる。当局は「ここがシャングリラだ」と強弁するが、作者ヒルトンがチベット地域あるいはその周辺をまったく訪れたことがなく、限られた書籍資料から想像を膨らませたものである以上、その言い分はこじつけに過ぎない。「シャングリラみたいだ」程度が妥当であろう。ここから徳欽(デチェン)を経てラサに至る道はかつての茶馬古道で、梅里雪山はチベット族にとってカイラス山(カン・リンポチェ)に並ぶ崇拝の対象である。個人的には20年前からあたためていたチベットまで陸路4WDをチャーターして行くプランの拠点になるべきところだったが、いまや秘境でもなんでもなくなったようだ。
【チベット宿の中庭でお茶】
古城(独克宗古城/ドゥケソン・クーチョン)に向かうバス停を探す。交差点で男に聞くが分からない。通りの名はそれぞれ康定路、香挌里拉大道と判明したので、まず香挌里拉大道で聞いてみた。7路のバスが来たが、それではないという。売店の女が向こうを指差すので康定路へ行き、バス停を発見したところにちょうど1路のバスがきた。これが古城に行くバスか。
支払いは下車時らしい。途中で西洋人ツーリストが3人乗ったので、古城に向かう確信を深くする。古城前で下車。 1元。目の前に有名なヤクバーがある。
古城内へ入る。蔵式住宿なる看板がいくつかあり、チベット風住居の宿の意味とおもわれる。
「蔵式名居 gua da inn 呱達客桟」という看板が気になったので空室があるか尋ねてみる。
[注]この客桟名の簡体字(写真参照)は後で調べて「呱達」と判明した。なお、簡体字はunicodeなら表記できるのだが、現在のインターネット環境では日本のほとんどで「?」になるだろうから、このブログ中のテキストでは通常のエンコードで表示できない簡体字を用いない。画像を使うのも面倒なので。
中庭で人々がストーブを囲んでいた。背の高い女性がきびきびと部屋を案内してくれる。まったく英語は通じないが、それが不自由でなく気持ちよくコミュニケーションできるのが不思議。勝手に「アンドレ」と呼ぶことにした。理由はとくにない。
2階のツインには街道側に窓があり、非常に広い。シャワー、トイレ、電気ポット、テレビと設備も充実。もうひとつは廊下側に窓があり、やはりツインで広い。インターネットもあり、無線LANも飛んでいる。部屋はそれぞれ100元、80元だが、100元の部屋の方が明るいのでここにする。
室内の設備案内のあと、中庭で2泊分を前払いする。アンドレが「身分証」を説明しきれず困っていると、客のおじさんが自分のカードを出して教えてくれた。パスポートを預けて、お客さんたちとストーブを囲む。記入が終わったパスポートを返してくれたアンドレから「tea?」と誘われたので、いただく。
中国語の会話はほとんどわからないが、妙になごむ感じがなぜか懐かしい。「チーファン(喫飯)?」と尋ねられて、たぶん「ご飯は食べたか?」という挨拶程度の意味だろうと見当はついたのだが、部屋に戻って、指差し会話帳を持ち出す。おじさんと娘さんの二人はもう食べたそうだ。この近くに焼きそば、火鍋、サンドイッチといろいろあるらしい。
【火鍋の洗礼】
12時過ぎに宿を出た。通りで後ろから「ヘロー!」と声をかけられる。アンドレだった。なんだか人懐っこい。「チーファン(喫飯)!」と告げて街を歩き出す。せっかくなので火鍋にした。小で48元だが、システムがわからん。どうやら48元はスープと肉だけで、野菜がそれぞれひとかご8元、キノコが12元とあり、選ぶらしい。やはり一人で食べるものではないな。
ほうれん草としいたけを選ぶ。かごに山盛りだ。肉は意外に柔らかく、旨味があり、噛みごたえもある。おそらく水牛あたりか。ほうれん草は正解だったが、しいたけは多過ぎた。飯は隣のテーブルにのった巨大な圧力鍋から自分で取れ、と言われた。遠慮なくいただく。
スープは美味、まったく辛くない。勘定は結局71元(約888円)だった。今回の旅における食事の最高価格を更新する。飯が2元、他にお茶か何か1元らしい。
宿に帰るとアンドレに「食べた?」と聞かれた。「火鍋」と答える。宿に泊まっているのではなく、下宿か親戚の家に世話になっているような気がしてきた。
【水が出ない】
部屋に入ったらアンドレが来て、「どっちのベッドを使う?」か聞いて、電気敷布がひとつしかないので、窓側のベッドから手前に入れ替えてくれた。「あとは自分で」と笑って手を振る。
松賛林寺(ションサンリンツィー/ソンツェンリン・ゴンパ)への行き方を聞く。「サンルー」3路のバスが1元で、すぐそこから出るそうだ。そうか。
歯磨きしようとしたら、水が出ない。掃除中のアンドレに大声で「めいようしゅーい(水が出ない)!」と訴える。「てんふぉーら(断水)!」と返ってきた。
宿を出てバス停へ。すぐそこに3路のバスが止まっているのに気づいて飛び乗った。
【松賛林寺(ソンツェンリン・ゴンパ)】
15分も走ると巨大なセンターに着いた。ここが入場施設らしい。ここまでのバス代は1元ですんだ。それにしてもばかでかく、空虚な建物だ。
きっぷ売り場に群がる人民は列を作らず、渦のように窓口に手を出していく。入場料は85元もした。入場ゲートでICカードのように入場券をタッチして、シャトルバスに乗る。パーク&ライド方式か。シャトルバスは満員で、出発するとまもなく松賛林寺が見えてきた。
[注]2004年には入場券もなく、撮影禁止もなかったようだ。2006年では入場券が30元だったが、立地上買わなくても入場できる状態だったらしい。この巨大な入場センターの存在とシャトルバスで運ぶシステムは、観光経済が上から制度化されてきたことを象徴する。
若者たちが乗るトラックとすれ違った。広場でバスを降りる。目の前には湖が広がり、山の斜面に寺院の建物が連なる。団体にはガイドがつく。大門でチケットチェックがあった。
この大門は間違いなく非常に新しい。天井には曼荼羅。
僧坊が斜面に並ぶ。
女たちが行きすぎる。
石段をあがる。高地なので気をつけてゆっくり上っていく。中央の堂は工事中のようだ。
中央いちばん高いところに大殿、弥勒殿などが建つ。まずはそこをめざす。とくに高山病の症状もない。ガイドがいる訳でもないので、勝手に僧坊を見て回る。
これらの建物それぞれが倉(サン/同音の「参」と表記されることもある。しいて訳せば宿坊)で、僧たちが起居する生活の場であり、学問の場であり、修業の場である。キッチンもあれば図書館もあり、通常は出身地域別になっていることが多い。読経は見事な音程とリズムを保ち、トランスへと導く宇宙の音楽のようにも聞こえる。ヤクバターの灯りがほのかに匂う。
[注]松賛林寺、ソンツェンリン・ゴンパは中国語では「ションサンリンツィー」と発音される。チベット仏教の寺院で別称は「帰化寺」、「小ポタラ宮」とも。五世ダライラマの創建にかかり、湖水に近い小高い丘に立つ。
寺を降り、湖のそばで休憩していたら、停まっていた3路バスがふいにクラクションを鳴らした。もうすぐ出るようなので、乗ることにする。帰りは直通らしく、さっきの入場センターを過ぎて15分で古城に着いた。夕方の路上には果物屋が。
北門街を南下し、西へ折れて四方街から北へ。ぐるっと回るつもりだったが、カメラのSDカードがメモリフルになったので散歩を切り上げて宿に帰る。SDカードを交換してまた出かける。中庭ではアンドレたちが食事中だった。「シュイ(水は)?」と聞かれたので、大丈夫だよ、と伝える。
【巨大なマニ車が街を見下ろす】
四方街から東へ。ネパールでみたのと同様の白いストゥーパが小さな広場の真ん中にある。周囲にはいくつかマニ車が並んでいる。通りを進み、交差点から丘の上を仰ぎ見ると巨大な金色のマニ車がそびえていた。
そのマニ車をめざしてみる。四方街の南東口に出た。南の方向は近代化から見放されたような界隈で、裏側まではまだ観光開発の手が回っていないらしい。坂を上っていくと、マニ車の後ろに回り込むかたちになった。背後に朝陽楼の金色が見える。回りながら今度は降りていくと、大きな空き地のような広場に出た。
広場に面した大きな建物はデチェンチベット族自治州博物館だった。入ってみると無料で、医学や薬草の曼荼羅のようなものがあった。個室のお祈りスペースがあったり、雲南の地形図があったり。博物館というよりは多目的センターか。広場から石段を登って大仏寺へいく。
登ったところからさくらを愛でる。さらに階段を上がってゆく。
朝陽楼の回りを巡る。たくさんのタルチョがはためく。眼下の民家には石屋根が多い。
巨大マニ車を回してみる。
【観光開発の影】
2010年に作られた民族団結の碑があり、共産党とチベット族の共和をそらぞらしく謳い上げている。
山から降りると広場に踊りの輪ができていた。しかし、伝統的にもともとここで行われていたようにはみえない。
[注]2004年までは古城に古い町並みが残っていたが、政策により古い民居は壊されてチベット風の街並みが意図的に作られた。こうして伝統は破壊され、観光客のイメージに合わせて街が改変されていく。こうした開発の「成功例」は、中国各地で見られる。
中心鎮公堂に入ってみる。隣の長征博物館には「10天(10日)休み」という掲示があり、点検休業のようだ。広場では踊りの輪がさらに広がっていた。地元のおばさんたちが主だった。きれいなコによる洗練された踊りではなく、普通の人々による盆踊りのような印象だった。ここは月光広場という名前らしい。四方街でも踊りの輪ができていた。
【冷めたモモ】
この街は寒い。スパッツや、耳も覆うニット帽がほしくなる。時々小雨が降るなか、食堂探しに右往左往した。ないわけではない。小厨房や、チベタンチョコレートを売り物にするカフェ、大きなチベットレストランなどなど。とにかく観光客向けの店しか見当たらない。チベタンチョコレートのカフェでは大きな暖炉のそばで髭面の西洋人が本を読んでいた。
日が落ちて街は夜景に沈んだ。行きつ戻りつ、結局入った店には西洋人ツーリストしかいなかった。チベットモモ18元、火腿(ハム)卵炒飯13元、ビール(大理)10元。
見た目には「素敵な」チベット料理のカフェレストランなんだが、モモは冷めていて固かった。
【ミーマー(暗号)!】
宿に帰ると、アンドレが奥の部屋から笑顔で手をふる。そうだ、無線LANのパスワードを聞かないと。「ミーマー(暗号、パスワード)!」で分かってくれて、メモ帳に書いてくれたのだが、室内ではつながらない。電波が弱いようだ。部屋から出たら、少しつながる。中庭で立ってメール受信していたら、アンドレが手招きする。「中庭では寒いから、ここに来なさい」いったんは固辞したがなお手招きするので、オフィスで別のパスワードを教えてもらってネットにつなぐ。
iPadには友人から結婚パーティーの招待状が届いていた。