「日の丸」・「君が代」反対!!
●民主党の相原久美子議員が平頂山事件の現場に行き、国会議員24人の署名のある謝罪状を手渡しました。
●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
●731部隊の足跡
中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より
5、細菌兵器を実戦に
大規模な細菌戦実施は、731部隊の細菌の研究と生産の目的である。1939年、731部隊はノモンハン戦争で細菌兵器を使用し、その後、1940年に浙江省(せっこうしょう)の寧波地域、1941年に湖南の常徳地域、1942年には浙贛鉄道沿線など地域にて、日本軍の侵攻戦に呼応して細菌攻撃を行い、多くの罪無き庶民に被害を与えた。その他、南京1644部隊(細菌戦部隊)の協力の下に、日本軍華北方面軍第12軍は1943年の8月から10月にかけて山東省西部衛河流域で「方面軍第12軍18秋魯西作戦」と呼ばれる細菌戦を実施した。第二次世界大戦終了後、この細菌戦に参加した当時日本軍第12軍軍医部長だった川島清を含む多くの戦争捕虜の自白と中国側の計算によれば、魯西の聊城、臨清を含む18の県だけで少なくとも20万人がこの細菌戦で惨死している。これら細菌戦に参加し、なおも生きている一部者どもは、その罪状を否定しているが、被害地域に健在する被害者たちは弁護士の協力の下に日本政府に訴訟を起こしている。
●1、1939年のノモンハン戦争
ソ連の極東地区に侵入し「北進計画」を実現させるため、日本関東軍はモンゴル東部のハルハ河地区を踏み台とするため、日本の皇族閑院宮載仁大将が自ら指揮を執り、1939年5月4日より攻撃をかけた。しかし、ソ連軍のジューコフ将軍の率いる部隊の支援があって、日本関東軍は敗戦を繰り返した。敗勢挽回のため、1939年6月に731部隊は「防疫給水部」という名称で中国モンゴル国境でノモンハン戦争に参加し、自分たちが開発したコレラ、腸チフス、赤痢などの細菌を初めて戦場に投入した。石井四郎はこのために1、毒物爆弾によるソ連陣地砲撃2、飛行機による陶器爆弾の投下3、決死隊を敵後方に侵入させ、水源への細菌投入という3つの細菌作戦計画を立てていた。最終的には碇常重少佐が決死隊を率いて細菌のハラハ河投入を決めている。これが731部隊の設立以来細菌を実戦に用いた最初の戦例である。
●日本軍細菌戦部隊
・日本陸軍軍医学校(東京)
●南京大虐殺
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
本人の受けた害
朱錫生(男、74歳)の証言
(昨日の続き)そこで、痛みを堪えて難民所の方へ走って行きました。街中死体で満ち満ちていて、道々ずっとつまずいたりはったりしながら、やっとのことで元々住んでいた所に手探りでたどり着きました。私のその様子を見て、父はびっくりし、難民所の人たちも私にそこに座り込まさずに、何人かの親切な隣人の助けを得て、香木で灰をこしらえ傷口に塗ってくれた上、夜が明ける前にと、夜を徹してかなり辺鄙な所の草葺のボロ小屋まで私を背負って行って休ませてくれました。それからは、父が1人で私に付いていてくれるしかありませんでした。食べる物が無く、3,4日飢え続けて、まったくどうしようもなくなり、父は又も危険を冒して私を家に連れ帰るしかなかったのですが、幸い周りにまだ何人か生きている隣人がいて、その人たちに食べる物を乞うたりして命をつなぎました。陽暦の正月が近づいた頃、その日は雪でしたが、革靴の響きが聞こえたかと思ったら、日本軍が家に入って来て、私が眠っているのを見るや、肩を引っ張り上げて、腕時計をしていないかどうかを見、腕時計は無かったのですが、首に傷のあるのを見つけ、直ぐに私を捕まえ細かく取り調べ追求してきました。その時は、日本兵に斬られたとはとても言えずに、手まねをしながら、口で「ドカーン」とか「バーン」とか音を出したりして、日本の飛行機に爆撃された時に受けた傷なのだと説明し、そんな風に何とか又1つ関門を逃げ延びようと、だましてやったのです。そのあと隣の人が鼓楼病院へ行って傷を直すよう勧めてくれたのですが、私は敢えて行きませんでした。家に隠れて3ヶ月余り、だいたい百日くらい寝ていて、傷も少しずつよくなり、やっと起き上がって動けるようになりました。今でも首の後ろに幅3,4寸の傷痕が残っています。
私がこんな大変な目に遭ったために、父がおびえたり、あせったりして、根っから生真面目な年寄りだったのが、間もなくしてぼけてしまい、明くる年の9月になって、死んでしまいました。私も体に傷を持ち、仕事をするのが難しくて、生活に響き、ずっとぐずぐずして31歳になってやっと家庭を持ちました。私のこの間の苦しかった経歴については、家の周りの人たちや私がいた廃品回収の会社で働いてる連中はみんな知っています。解放後は、共産党のお陰で、私は生活が安定し、今は年をとり隠退して家におりもう4年余りになりますが、毎月会社からの労働保険金をもらっています。連れ合いは2年前に病気で死んだので、今は娘や婿たちと一緒に生活し、その子供たちの面倒を見たり、家のことをしたりしていて、晩年はまあまあの生活です。(劉玉銀と楊正元などが記録)
●憲法9条
「Imagine9」【合同出版】より
基地をなくして緑と海を取り
もどしてい世界
戦争は最大の環境破壊です。油田が燃やされ、爆破された工場は有毒物質を垂れ流し、ときには「劣化ウラン弾」(放射性物質の兵器)が使用され、周辺の環境を何世代にもわたり破壊します。しかし、環境に深刻な影響をもたらすのは、実際の戦争だけではありません。 世界中に、戦争に備えるための軍事基地がつくられています。アメリカは、40カ国700ヵ所以上に軍事基地をもち、世界規模で戦争の準備をしています。日本にもたくさんの基地があります。 基地の周りでは、兵士による犯罪が大きな問題になっています。基地周辺の女性が暴力にあう事件が頻繁に起きています。ひどい騒音もあります。 基地による環境汚染は深刻です。ジェット機の燃料が垂れ流されたり、危険な毒物、金属、化学物質が土地を汚染しています。こうした問題を、国はいつも隠そうとします。国は汚染した土地の後始末にさえまじめに取り組もうとはしません。それでいて、「基地は平和と安全を守る」と繰り返しています。基地の周りの人々の暮らしは「平和や安全」とはとても言えたものではありません。 軍事基地はつねに、植民地に設置されるなど、立場の弱い人たちに押し付ける形でつくられてきました。先住民族は押さえつけられ、その権利や文化は奪われ、人々の精神や心理さえもむしばまれてきました。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
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