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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2009-06-29 13:22:05 | Weblog
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731部隊の足跡

中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より

7、戦争責任を追及すべし

2、責任追及を止めず

戦後、日本の右翼勢力と保守勢力は731細菌部隊と細菌戦の責任を懸命に隠そうとしたが、目覚めた一部の元日本軍人と進歩勢力は日本の細菌戦責任の追及に努め、追求活動は進展を収めた。
●1941年12月、湯浅氏は軍医として中国山西省潞安陸軍医院で、中国人への生体解剖を目撃した。責任を強く感じた湯浅氏はこの犯罪行為を暴く活動に積極的に参加し、80歳を超えたにも関わらず、今も日本各地で講演を行い、自らの経験を以って若い世代を教育し、またそれを通じて悔恨と謝罪の意を表している。
●陰地氏は、元日本関東軍憲兵隊憲兵。1944年に2名の中国抗日人士を黒龍江省福錦県からハルピンまで護送。後にこの2人が生体実験により無残に殺されたことを知った彼は、自分の責任を強く感じた。敗戦当時、部隊から戦時状況の他言禁止の「緘口令」が出ていたが、彼は毅然として当時の事情を公表し、日本軍の暴行を暴いた。

南京大虐殺 
 
「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
本人の受けた害

張文泉(男、72歳)の証言

1937年までは、家は大輝復巷10号でした。日本軍が南京に侵入した時、私は金陵中学の難民区の中に住まっていましたが、難民が割りに多いのに、中学には井戸が1つしかなく、水が足らないので、私は水を担ぎに外へ行きました。1937年の冬月14日の早朝、私が外へ出て直ぐ、日本軍の一隊に出くわしたところ、彼らは私が水を天秤で担ぐその桶を取り上げ、地に放り投げて、脚で桶を踏みつけ、自分たちが背中に背負っていた物をおろして、(40斤くらい)、替わりに私に強引に背負わせ、その隊伍に付いて行かせました。昼の12時くらいに、板橋まで来ると、又無理に私にご飯を炊かせ、炊き終わったら私が毒を入れていないかと恐れて、私に先に毒見をさせてから、やっと自分たちも食べたのでした。飯を食い終わったら、又日本軍の別の一隊が来て、その中の馬に乗っているのが、馬の左脚の蹄(ひづめ)が落っこったので、、それを打ち付けました。ところが馬がおそらくは痛みから身をかばおうとして、突然片足をあげたのが、ちょうどこの男の口に当たり、顔が途端にふくれあがりました。そうしたら、その日本兵が怒って、私に当たり散らし、直ぐに腰から日本刀を抜いて、下腹をめがけてこっ酷く2太刀突いてきました。ベルトは消防ホース用のズックで出来ていて、とてもぶ厚く、突かれた時は痛く感じませんでした。午後、また続いて彼らのついて出かけ、4,5里くらい行った頃に、何となく体が熱っぽいので、自分でちょっと手でなでたら、手が血でべっとりし、その時やっと痛みがたまらないくらい感じて来たのですが、声を上げるわけにもいかず、ベルトで傷口をしっかり押さえるしかなく、しばらくして痛みも止まりました。
 夜になったら、私と同時に捕まった馬大福たちが、こっそり私に「暗くて日本軍に見えないから、俺たち逃げようや!」と言いました。それを聴いて、この連中についていち早く走りました。ところが、ちょうど江寧橋の北まで走った所で、後ろから機関銃が突然響いてきて、私の後ろを走っていた何人かが、みんな撃ち殺されました。その時、私は逃げ切れないんだと知って、もう走らずに、また、新たに日本軍に捕まって帰って行きました。私と同時にもう一度捕まったのは、張道全(句容の人で30歳余り)と余勝顔(淮安の人で30歳余り)の2人で、また日本軍に強いられて江寧の「張而生薬店」で飯を炊かされました。腊月の20日に、また日本軍について南京の昇州路まで行くのに、3人で道々どうやって逃げ出すか相談していました。黒廊巷まで行って、私たちある人家の内庭に駆け込んで隠れてしまい、日本軍がどんなに大声で私たちを呼ぼうとも、死んでも答えず出ても行かずで、彼らはどうしようもなくて、行ってしまいました。私は何とか生き延びられて、また難民区に帰ってきたのです。(井升安と丁亜慶が記録)

憲法9条

「Imagine9」【合同出版】より

9条がゆきわたった世界

  みなさんは学校で、どんな歴史を学んできましたか?
 国内で行われた戦国時代の戦い以外に、日本がほかの国々と行った戦争について、どのように教わってきましたか?
 多くの国々では、自分の国がいかに正しく、立派であり、誇らしいものであるかを繰り返し強調してきました。その影で、自分の国がほかの国の人々に被害を与えたことについては、忘れられる事が多かったのです。
「国のためではなく人々のために歴史を教えたい」そう願う日本、韓国、中国の市民や研究者たちは、一緒になって一つの歴史教材をつくりました。(日中韓3国共通歴史教材委員会編『未来をひらく歴史』、高文研、2006年)。傷つけた側、傷を受けた側が、共通の歴史をとらえ直そうとしているのです。
 イスラエルは、60年にわたりパレスチナの土地を占領しています。それが理由となって、中東地域全体で暴力の連鎖が続いています。そんな中にあっても、イスラエルの若者とパレスチナの若者が出会い交流を進めています。
 インドとパキスタンは、国境のカシミール地方の領有権をめぐる対立を60年間にわたって続けています。国境では衝突が絶えず、両国は核兵器をもちミサイル開発を続けながらにらみ合っています。それでも、平和を求める市民は、国境を越えた交流を進めています。
 南アフリカでは、人種隔離政策(アパルトヘイト)の中で白人が黒人を抑圧してきました。アパルトヘイトは終わり、「真実と和解委員会」がつくられ、過去を見つめて和解を進めました。それぞれの問題において、一人ひとりの「対話」で少しずつ、ゆっくりと解決をしようと努力が続けられています。

 第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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