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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2009-06-22 18:29:53 | Weblog
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「日の丸」・「君が代」反対!!

●民主党の相原久美子議員が平頂山事件の現場に行き、国会議員24人の署名のある謝罪状を手渡しました。中国通信社


●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!


731部隊の足跡

中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より

5、細菌兵器を実戦に

大規模な細菌戦実施は、731部隊の細菌の研究と生産の目的である。1939年、731部隊はノモンハン戦争で細菌兵器を使用し、その後、1940年に浙江省(せっこうしょう)の寧波地域、1941年に湖南の常徳地域、1942年には浙贛鉄道沿線など地域にて、日本軍の侵攻戦に呼応して細菌攻撃を行い、多くの罪無き庶民に被害を与えた。その他、南京1644部隊(細菌戦部隊)の協力の下に、日本軍華北方面軍第12軍は1943年の8月から10月にかけて山東省西部衛河流域で「方面軍第12軍18秋魯西作戦」と呼ばれる細菌戦を実施した。第二次世界大戦終了後、この細菌戦に参加した当時日本軍第12軍軍医部長だった川島清を含む多くの戦争捕虜の自白と中国側の計算によれば、魯西の聊城、臨清を含む18の県だけで少なくとも20万人がこの細菌戦で惨死している。これら細菌戦に参加し、なおも生きている一部者どもは、その罪状を否定しているが、被害地域に健在する被害者たちは弁護士の協力の下に日本政府に訴訟を起こしている。

細菌戦訴訟

2、1940年の浙江東部寧波など地区での細菌戦

1940年7月、「関東軍作戦命令丙字第659号」令に基づき、将官1名と士官39名からなる「奈良部隊」が臨時編成され、石井四郎自らが指揮を執り、浙江東部の寧波(ニンポー)地域に赴き細菌作戦を実施した。部隊は細菌戦用器材を携えて7月末に平房を出発。その事情をかつて日本大本営の参謀であった井本熊男が日記に記している。この日記は1959年に本人が戦史資料として日本防衛庁に寄付した。

《井本熊男日記》の731部隊による寧波、衢県作戦の記載(吉見義明/伊香俊哉『731部隊と天皇・陸軍中央』岩波書店):(以下、大意)
●8月16日、井本少佐自ら杭州に赴き、奈良部隊に伝令し、同時に具体的な攻撃目標の選択を始めた。
●9月10日、攻撃目標を捜し、最終的に寧波に決める。
●9月10日、最初の弾薬未到、やがて到達する見込み。この最初の弾薬運送中に、元のコレラ菌が腸チフス菌に替えられる。




●1940年の9月18日から10月7日にかけて、日本軍は浙江省で6回にわたって細菌攻撃を実施した。それは主に細菌液とペスト菌に感染したノミが使用され、寧波市開明街の上空からノミを混ぜた小麦と粟を投下し、寧波の軍民たちに感染・到病させ、死亡数は100人を超えた。このため開明街一帯は閉鎖され焼壊された。その後20世紀の60年代半ばまで、ここには住民はなく、当時kの通りは「ペスト通り」と呼ばれた。
●1940年10月4日、日本軍は同手段で衢州県にノミの付いた小麦と粟などを散布した。検査の結果、このノミは「ペスト・ノミ」と判明された。散布したから38日後、衢州県ではペスト感染者が22人に達し、全員亡くなった。
●1941年9月、義烏市(旧称義烏県)から流行り始めたペスト病は日本軍が前の年衢州に投下したペスト菌感染が原因である。1943年まで、ペスト病はこの周辺地区での流行病となっていた。


南京大虐殺   
  

「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)

2、日本軍の狂暴な個人的虐殺

本人の受けた害

沙官朝(男、77歳)の証言

 1937年に日本軍が南京を占領し、人民は塗炭の苦しみの内に置かれ、無数の同胞が殺害されましたが、私がその生き残りです。
 抗戦したあの年は、私は30歳で、もう家庭を持っていて、子供が2人いました。私は人力車をひいて生活していました。日本軍が南京を占領した時、私たちはもう家中で東関○から沈家巷13号の難民区へ避難しに引き移っていました。何日かして、持っていた食料を食べ尽くしてしまったので、その日の午後3時に、私たちは隣の6人(銅細工師匠の李さんの息子に、韓というのに、栄というのに、向かいの範というの等、年齢がみんな同じくらいでした)を誘って、食料を探しに一緒に家に帰りました。○子橋の泥馬巷の角まで来たら、日本兵4,5人と出くわし、みんな年が若く力が強いと見るや、殴りつけ刺し殺し、私と一緒に行った6人の内で、あっという間に3人が銃剣で刺し殺されました。私はおったまげて、いち早く駆け出しましたが、たちまち日本兵2人に捕まってしまい、その1人が銃剣を腹をめがけて一太刀くれて来たのが、私が衣服をたくさん着ていたのと、ちょっと身をかわしたのとで、剣の先がそれて、左の腹から入って右の腹へ突き出ました。続いてすぐ、日本兵は又私の腰を一太刀刺しました。それに私の後ろに立っていた日本兵が、後ろから又一太刀刺しました。このもろに骨に刺さって来たのを、私はすぐさま歯を食いしばって抜き取り投げすて、痛みをこらえて前へ前へと飛ぶように走り、道に血がずうっと流れました。(明日に続く)
○・・・漢字変換できない字


憲法9条

「Imagine9」【合同出版】より


基地をなくして緑と海を取り

もどしてい世界

基地をなくして、緑や美しい海を取りもどし、きれいな空気がよみがえる。それが、人々にとっての本当の「平和」ではないでしょうか。
それは、人々が「平和に生きる権利」を確保することでもあります。

 フィリピンでは、1992年、国民的な運動の結果、米軍基地はなくなりました。韓国ではピョンテクという場所に新たな米軍基地がつくられようとしている事に対して、人々は反対運動を続けています。
 沖縄では「もう基地はいらない。美しい海を守りたい」と、辺野古での新しいヘリポート建設に反対する人たちが活動しています。自分たちの土地がイラクやアフガニスタンを攻撃する拠点として使われることに黙っていられないと、世界の人々は立ち上がっているのです。
 かつて日本やアメリカに占領されてきた歴史をもつミクロネシアの憲法は、その前文で、次のようにうたっています。
「ミクロネシアの歴史は、人々がイカダやカヌーで海を旅したときから始まった。私たちの祖先は、先住民を押しのけてここに住んだのではない。ここに住んでいる私たちは、この地以外に移ろうとは望まない。私たちは、戦争を知るがゆえに平和を願い、分断された過去があるがゆえに統一を望む」 



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】


1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
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