●731部隊の足跡
中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より
5、細菌兵器を実戦に
大規模な細菌戦実施は、731部隊の細菌の研究と生産の目的である。1939年、731部隊はノモンハン戦争で細菌兵器を使用し、その後、1940年に浙江省(せっこうしょう)の寧波地域、1941年に湖南の常徳地域、1942年には浙贛鉄道沿線など地域にて、日本軍の侵攻戦に呼応して細菌攻撃を行い、多くの罪無き庶民に被害を与えた。その他、南京1644部隊(細菌戦部隊)の協力の下に、日本軍華北方面軍第12軍は1943年の8月から10月にかけて山東省西部衛河流域で「方面軍第12軍18秋魯西作戦」と呼ばれる細菌戦を実施した。第二次世界大戦終了後、この細菌戦に参加した当時日本軍第12軍軍医部長だった川島清を含む多くの戦争捕虜の自白と中国側の計算によれば、魯西の聊城、臨清を含む18の県だけで少なくとも20万人がこの細菌戦で惨死している。これら細菌戦に参加し、なおも生きている一部者どもは、その罪状を否定しているが、被害地域に健在する被害者たちは弁護士の協力の下に日本政府に訴訟を起こしている。
●4、1942年に浙贛鉄道で実施した細菌戦
《井本熊男日記》731部隊遠征軍の浙贛作戦実施に関する記述から以下は大意
常徳細菌戦の実施成功後、1942年春には、規模のより大きな細菌戦の企画活動を開始。以下は攻撃目標:
1、昆明
2、麗水、玉山、桂林、衢県、南寧(沿線飛行基地)
3、濠(豪?)州の各地要所
太平洋戦争の侵略作戦が一段落した後、日本軍は中国内地の麗水、玉山、桂林、衢県、南寧など華中、華南の都市攻撃を企み、同時にアメリカのアラスカ、オーストラリアとインドをも攻撃目標として討議したが、1942年の細菌戦進行地点は中国の華中、華南にある上述の都市にすることを決めた。
日本軍は玉山撤退の際、井戸に細菌入りのオイル缶を投入すると同時に、空中から大量のノミを投じた。この井戸の水を飲んだ村民の多くは嘔吐、下痢し、間もなく死んだ。
●南京大虐殺
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
本人の受けた害
黄広林(男、66歳)の証言
解放前は、家が貧しく、私は1936年に父母や弟妹たちについて南京へ来て、中華門の龍泉巷7号に住み、餅や団子を造ったり飯を蒸したりして生計を立てていました。1937年には日本軍が攻め込んできて、五台山の近くの難民キャンプに移り住むよう迫られました。その時私は18歳でした。12月13日に、日本の侵略者が南京を占領しました。12月14日の午前中に、私は一緒に住まっていた丁乃成(今は溧水の孔鎮郷の人)とそのほかの青年2人(1人は今は溧水県の和風郷黄家大隊甘村の人で、もう1人は南京の人)とを誘い、中華門の家まで見に行きました。私たち4人が一緒に楊公井まで来た時に、日本兵の一隊が正面から、馬や羊を牽いて私たちの方へ来るのに出逢い、日本軍2人が前まで来たので、羊や馬を牽かせるのに私たちを引っ張ろうとするだろうと、私は思いました。ところが、この日本軍2人は私たちを縦に並ばせました。私は一番後ろに並びました。日本軍の1人が銃を持ち上げ、私たちの前の3人を1人1人撃ち殺しました。私に撃って来ようとした時に、私はいち早く駆け出し、何十メートルか遠くまで駆けていて、日本軍が私を目掛けて一発撃ちましたが、当たりませんでした。私は道端の溝につまづき倒れ込みました。直ぐに日本軍2人が来て、まず左の腰を一太刀(ひとたち)突っついたので、私が向きを変えると、又右肩の上と、右の肋間、右の腰と、背中とに四太刀突いて来ました。こうして、私は日本軍に五太刀突っつかれ、傷口が7つでき、今も傷痕が7箇所残っています。私はその時気を失いました。しばらくして、ぼんやりとながらも革靴の音が聞こえなくなったようだったので、家へ帰ろうと何とか起き上がり、街の中心まで来た時に、又日本軍2人に出くわし、私の前までやって来た2人は、私がかぶっていた帽子をつかみ下ろし、額と手とをなでて、それから、又何やらぺちゃくちゃ喋っていてから、行ってしまいました。私は全身傷が痛いのを堪えて、何とか引きずり引きずり五台山までやってきたのは、もう夕方時分でした。
私は難民キャンプに戻ったら、父と母が私を見るなり、首を抱いて大泣きに泣き出しました。そしたら、私は身体中の力が抜けてしまって、立っていられなくなり、地べたに倒れこんでしまいました。私と一緒に街へ行った2人の奥さんたちが、日本軍に夫たちが撃ち殺されてしまっていたと知って、吠えるかのように泣く様が何とも悲惨で、何と痛ましかったことでしょう!父や母が私の衣服が血でべったり体に引っ付いているのを見て、はさみで綿入れを切り開いたら、全身に血の斑点が広がっていて、傷口の中は膿だらけでした。ぼろや綿で傷口を拭いてくれ、私を隠してくれたので、幸い寒い時で、ただれずに、2ヶ月余りも休んだら、傷がだんだん好くなって来ました。今思い出すとこの不幸なめぐり合わせは、何とも痛ましく忘れがたいことです!(姜継安が記録)
●憲法9条
「Imagine9」【合同出版】より
戦争にそなえるより
戦争をふせぐ世界
「反応ではなく予防を」。これは、2005年にニューヨークの国連本部で開かれた国連NGO会議(GPPAC世界会議)で掲げられた合言葉です。紛争が起きてから反応してそれに対処するよりも、紛争が起こらないようにあらかじめ防ぐこと(紛争予防)に力を注いだ方が、人々の被害は少なくてすみ、経済的な費用も安くおさえられるのです。
紛争予防のためには、日頃から対話をして信頼を築き、問題が持ち上がってきたときにはすぐに話し合いで対処する事が必要です。こうした分野では、政府よりも民間レベルが果たせる役割の方が大きいと言えます。どこの国でも、政府は、問題が大きくなってからようやく重い腰を上げるものです。ましてや軍隊は、問題が手におえなくなってから出動するものです。市民レベルの交流や対話が、紛争予防の基本です。市民団体が、政府や国連と協力して活動する仕組みをつくり上げることも必要です。
2005年、国連に「平和構築委員会」という新しい組織が生まれました。これは、アフリカなどで紛争を終わらせた国々が、復興や国づくりをしていくことを支援する国際組織です。このような過程で、再び武力紛争が起きないような仕組みをつくる事が大事です。貧困や資源をめぐる争いが武力紛争の大きな原因になっている場合も多く、こうした原因を取り除いていく必要があります。つまり、紛争を予防するためには、経済や環境に対する取り組みが重要なのです。