日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
『細菌戦部隊』
731研究会編
Ⅰ 731部隊
生体解剖をやらされた
意識がはっきりとしている“マルタ”の手足を解剖台に縛り付け・・・
鎌田信雄(かまたのぶお)
731部隊・少年隊
(経歴)
1923年生まれ
1938年 731部隊入隊
1940年 新京の防疫でペスト感染
1943年 病気療養の為帰国
■この証言は1994年6月、1995年10月ほかの聞き取りをまとめたもの。
帰国後
今考えてみますと、人間が消耗品だなんて馬鹿げたことです。しかし、当時は無我夢中でした。「天皇」の「テ」という言葉を聞けば、直立不動しないとぶん殴られる時代でした。日本軍は、上官の命令に対しては絶対服従でした。戦後このようにまとまった話をするのは初めてです。あるいは勘違いや間違っていることもあるかもしれません。その点は了承していただきたいと思います。
日本軍政下香港(1997.7.27)
●『論争731部隊』
松村高夫編
核時代49(1994)年4月発行
第2 731部隊に関する研究状況
三 1984(昭和59)年以降の731部隊に関する研究状況
3 731部隊作成資料発見の反響
(2)外国での反響
『タイムズ』は同じ紙面で、東京の特派員からのレポートとして、「忘れられているイメージ」との見出しの下に、次のような記事を載せている。
太平洋戦争中の日本人が行なった大量虐殺は、公的機関では簡単にかつ不本意なものとして受け取られ、学校の教科書では削除されるか大幅に縮小されてきた。新しい証拠と主張は日本の新聞に報告されているが。しかしこのトピックは当地では極めて不快なものであり、なおまた日本人の自分たちについてのイメージの一部になっていないように思われる。満州における731部隊とその囚人に対する人体実験に関する1冊の本がベストセラーになった。予想されたことであろうが、その著者は右翼団体によって脅迫された。
●毒ガス戦
『毒ガス戦と日本軍』
吉見義明 (2004年発行)
Ⅱ 満州事変と毒ガス問題 1931―1936
3 毒ガス戦の準備
火工廠曽根派出所・陸軍習志野学校の設置
日本の国際連盟脱退直後の1933年7月19日、陸達第24号により、福岡県企救(きく)郡曽根(そね)村に陸軍造兵廠火工廠曽根派出所(所長・渡辺望少佐)が設置された。これは忠海製造所で製造された毒ガスの一部をここに運んで砲弾・爆弾に詰めるためであった。しかし、同年10月には活動は休止する。曽根派出所が填実工場として本格的稼働を開始するのは、1937年の日中全面戦争開始後であった。
海軍の相模海軍工廠跡を訪ねて(2022年4月9日)
日本は海軍も毒ガスを製造し、本土決戦に備えていた!!
略史
昭和 5年 海軍火薬廠用地の一部割愛を受け、海軍科学研究部化学兵器研究室が平塚出張所を開設
昭和 8年 平塚出張所に一号・二号・三号特薬兵器の製造実験工場を建設
昭和 9年 海軍技術研究所化学研究部として独立
昭和12年 特薬庫、火薬庫、爆発円筒及び特殊化兵研究室などを建設。総敷地面積は124,000平方メートルに
昭和17年 相模海軍工廠(寒川町)の新設と同時に、化学研究部が相模海軍工廠化学実験部になる
昭和20年 終戦、廃廠
第一次世界大戦後、日本は化学兵器の調査研究と技術開発に着手、大正11年に艦政本部内に担当部署が設置され、翌12年には海軍技術研究所となり化学兵器の研究と技術開発を開始。
相模海軍工廠では士官・常用工・徴用工員・女子挺身隊員・勤労動員学徒等3,500人余りが従事し、主として化学兵器・火工兵器の研究開発・製造が行われた。
海軍では毒ガスを攻撃用よりは防御用とすると認識が強く、相模海軍工廠では防毒マスクの生産が主力だった。(相模海軍工廠より)
*A事案区域とは、環境省が平成 15 年に実施した<昭和 48 年の「旧軍毒ガス弾等の 全国調査」フォローアップ調査※1>において終戦時における旧軍の化学兵器に関連する情報を集約した結果を踏まえ設定したA事案(毒ガス弾等の存在に関する情報の確実性が高く、かつ、地域も特定されている事案)に該当する区域のことです。具体的には、以下の3区域となります(図1参照)。
①旧相模海軍工廠跡地(神奈川県寒川町内)
②旧相模海軍工廠化学実験部跡地(神奈川県平塚市内)
③ 旧陸軍習志野学校跡地(千葉県習志野市・船橋市内)
・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳
明石書店 1995年発行)
第13章 毒ガスは消えず
苦しかった過去を回顧する、忘れ難い調査
日本軍が遺棄した化学兵器の被害者、崔英韻先生と証人周乃栄先生を訪ねる
3月初めのハルピンは、冬の名残の積雪がまだ消えず、初春の風はとても冷たい。町を歩いている人々もあまり多くない。まるで冬の寒さを恐れてでもいるように・・・・。だが、私たちが師範大学の校門を入ると、雰囲気はかなり違う。運動着を着た大学生たちがコートの上で汗を流しており、ある学生は本を小脇に教室や図書館に急ぎ、またある学生たちは声高に何かを論じあっている。これを見ているとここにはもう春が一足先に訪れているような生気が満ち溢れているのを感じた。
運動場を通り抜けて、私たちは体育館の側の建物に来た。これは60年代に建てられた住宅で、もうかなり古い。でも、建てられた当時これはこの大学の中でも最も良い住宅の1つで「教授住宅」と呼ばれていた。私たちが訪ねる崔英韻先生はここに住んでおられた。