日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
『細菌戦部隊』
731研究会編
Ⅰ 731部隊
生体解剖をやらされた
意識がはっきりとしている“マルタ”の手足を解剖台に縛り付け・・・
鎌田信雄(かまたのぶお)
731部隊・少年隊
(経歴)
1923年生まれ
1938年 731部隊入隊
1940年 新京の防疫でペスト感染
1943年 病気療養の為帰国
■この証言は1994年6月、1995年10月ほかの聞き取りをまとめたもの。
解説―石川太刀雄丸
北野政次が記した『防疫秘話』には、さらにこのような記述もある。
流行性出血熱は、年2回、真夏期と秋季に流行があるが、昭和17年11月初旬、孫呉で流行があった時、現地に赴き実験を行った。感染経路は疫学的に判断してネズミに付いているダニを最も重視すべきものと私は考えた。それでセスジネズミに付いている一種のトゲダニを朝比奈技師が集め、之を金沢博士が11月6日に実験し、爾後笠原博士がこの実験を引継ぎ、同年12月14日に石川博士より病理所見の報告を受け実験が成功したことを知り、次いで笠原博士の非常な努力により翌年、その病原体はウィルスであることを決定したのである。病理学研究は石川博士が金沢大学に栄転後、両博士がこれを引継ぎ完成させた。
日本軍政下香港(1997.7.27)
●『論争731部隊』
松村高夫編
核時代49(1994)年4月発行
第2 731部隊に関する研究状況
三 1984(昭和59)年以降の731部隊に関する研究状況
ジョン・パウエルは、人体実験をした日本人は、何人かの犠牲者が合衆国の戦争捕虜であったにもかかわらず、合衆国と共謀して戦犯訴追を免れた、それは合衆国が日本人による実験成果を獲得するのと引き換えに、関連した科学者と医者を保護する道を選んだからである、と述べた。『サンフランシスコ・クロニクル』も同様の記事を載せた。
●毒ガス戦
『毒ガス戦と日本軍』
吉見義明 (2004年発行)
Ⅱ 満州事変と毒ガス問題 1931―1936
3 毒ガス戦の準備
対ソ戦への準備
「満州国」の創設以降、国内と中国東北で、陸軍習志野学校・陸軍科学研究所・関東軍などによる毒ガスの実験・演習が繰り返された。1933年、関東軍は早くも毒ガスの人体実験を開始した。11月16日、関東軍が新設した細菌戦部隊、東郷部隊(後の731部隊)による毒ガス人体実験を視察した遠藤三郎関東軍参謀は、日記に次のように記している。
午前8時半、安達大佐、立花中佐と共に交通中隊内試験場に行き試験の実情を視察す。第2班毒瓦斯、毒液の試験、第1班電気の試験等に各2名ずつの匪賊につき実験す。ホスゲンによる5分間の瓦斯室試験のものは肺炎を起こし重体なるも、昨日より尚生存しあり、青酸15mg注射のものは約20分にて意識を失いたり。(中略)夜。塚田大佐と午後11時半まで話し床につきしも、安眠し得ず。
海軍の相模海軍工廠跡を訪ねて(2022年4月9日)
日本は海軍も毒ガスを製造し、本土決戦に備えていた!!
略史
昭和 5年 海軍火薬廠用地の一部割愛を受け、海軍科学研究部化学兵器研究室が平塚出張所を開設
昭和 8年 平塚出張所に一号・二号・三号特薬兵器の製造実験工場を建設
昭和 9年 海軍技術研究所化学研究部として独立
昭和12年 特薬庫、火薬庫、爆発円筒及び特殊化兵研究室などを建設。総敷地面積は124,000平方メートルに
昭和17年 相模海軍工廠(寒川町)の新設と同時に、化学研究部が相模海軍工廠化学実験部になる
昭和20年 終戦、廃廠
第一次世界大戦後、日本は化学兵器の調査研究と技術開発に着手、大正11年に艦政本部内に担当部署が設置され、翌12年には海軍技術研究所となり化学兵器の研究と技術開発を開始。
相模海軍工廠では士官・常用工・徴用工員・女子挺身隊員・勤労動員学徒等3,500人余りが従事し、主として化学兵器・火工兵器の研究開発・製造が行われた。
海軍では毒ガスを攻撃用よりは防御用とすると認識が強く、相模海軍工廠では防毒マスクの生産が主力だった。(相模海軍工廠より)
*A事案区域とは、環境省が平成 15 年に実施した<昭和 48 年の「旧軍毒ガス弾等の 全国調査」フォローアップ調査※1>において終戦時における旧軍の化学兵器に関連する情報を集約した結果を踏まえ設定したA事案(毒ガス弾等の存在に関する情報の確実性が高く、かつ、地域も特定されている事案)に該当する区域のことです。具体的には、以下の3区域となります(図1参照)。
①旧相模海軍工廠跡地(神奈川県寒川町内)
②旧相模海軍工廠化学実験部跡地(神奈川県平塚市内)
③ 旧陸軍習志野学校跡地(千葉県習志野市・船橋市内)
・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳
明石書店 1995年発行)
第13章 毒ガスは消えず
苦しかった過去を回顧する、忘れ難い調査
日本軍が遺棄した化学兵器の被害者、崔英韻先生と証人周乃栄先生を訪ねる
崔先生の夫人は
「被毒してから、左側の手は不自由になり、その上ざらざらになった皮膚は静脈注射の針が立てられず、仕方なく病気の時は足から注射を打った」と話された。
私たちは崔老人の生々しい傷跡を前にして、痛恨の思いで侵略戦争の真実を見つめた。
崔先生は「日本軍が化学兵器を製造し化学戦を行った事事態は国際公法に違反した、極めて人道を無視した行為であるのに、戦後になってまだ、これらの化学兵器を勝手に中国の土地に放り出し、中国人にずっと害を及ぼし続けていることは憤りを禁じ得ない」と、語られた。崔老人は、私たちに、このような事実を通じて日本の侵略戦争の罪行を暴露するように希望された。私たちも絶対に辞退できない責任を強く感じた。