日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
『細菌戦部隊』
731研究会編
Ⅰ 731部隊
昆虫班でのノミの増殖
ノモンハンでの細菌撒布も
鶴田兼敏(つるたかねとし)
731部隊・少年隊
〈経歴〉
1921年生まれ
1938年 731部隊に入隊(少年隊・田中班)
1939年10月 退職
1945年12月 帰国
■この証言は佐賀731部隊展(1994年12月)の『報告集』をもとに本人がまとまたもの。
ノミの増殖
しかし、私達は、そうやって集めたノミがどこへ持って行かれたのかは知りませんでした。ペストノミにしてどこかで使ったのかもしれませんが、そういった仕事をどの班でやっていたのか、私は知りません。731部隊では、ペストだけでなく他の細菌、腸チフスやコレラ菌などの細菌の培養もやっていましたけれども、ペストノミが主要な兵器だったろうと思います。
日本軍政下香港(1997.7.27)
●『論争731部隊』
松村高夫編
核時代49(1994)年4月発行
第2 731部隊に関する研究状況
三 1984(昭和59)年以降の731部隊に関する研究状況
5 中国による資料の刊行と各国資料との相互論証関係
1989年には、中央档案館他編前掲『日本帝国主義侵華档案資料選編』第五巻『細菌戦及毒気戦』(中華書房)が刊行され、731部隊関係者の撫順戦犯管理所における供述書が公開された(それ以前の中国における研究については、田中明・江田いずみ前掲「『731』部隊の研究における中国人研究者の動向について」を参照されたい)。その第1部の中の731部隊と100部隊の部分も翻訳され、江田憲治、兒嶋俊郎、松村高夫編訳前掲『人体実験―731部隊とその周辺』として最近出版された。滝谷二郎前掲『殺戮工廠・731部隊』と共に、これによって撫順戦犯管理所等における731部隊関係者の供述を捉えることができる。
●毒ガス戦
『毒ガス戦と日本軍』
吉見義明 (2004年発行)
Ⅱ 満州事変と毒ガス問題 1931―1936
4 2.26事件
毒ガス使用の検討
この意見は参謀部第2課(課長・石原莞爾大佐)にとって魅力的に思えたようで、午後7時、公平参謀は、明朝の攻撃時の気象判断と使用計画の立案を習志野学校本部に指示した。習志野学校は、戒厳司令部が中央気象台から取り寄せた最新の天気図により気象観測を行ない、「煙及一時瓦斯の使用に適す」と判断し、隼町南端、平河町5・6丁目南端、弁慶橋付近から発煙するという案を具申した。
海軍の相模海軍工廠跡を訪ねて(2022年4月9日)
日本は海軍も毒ガスを製造し、本土決戦に備えていた!!
略史
昭和 5年 海軍火薬廠用地の一部割愛を受け、海軍科学研究部化学兵器研究室が平塚出張所を開設
昭和 8年 平塚出張所に一号・二号・三号特薬兵器の製造実験工場を建設
昭和 9年 海軍技術研究所化学研究部として独立
昭和12年 特薬庫、火薬庫、爆発円筒及び特殊化兵研究室などを建設。総敷地面積は124,000平方メートルに
昭和17年 相模海軍工廠(寒川町)の新設と同時に、化学研究部が相模海軍工廠化学実験部になる
昭和20年 終戦、廃廠
第一次世界大戦後、日本は化学兵器の調査研究と技術開発に着手、大正11年に艦政本部内に担当部署が設置され、翌12年には海軍技術研究所となり化学兵器の研究と技術開発を開始。
相模海軍工廠では士官・常用工・徴用工員・女子挺身隊員・勤労動員学徒等3,500人余りが従事し、主として化学兵器・火工兵器の研究開発・製造が行われた。
海軍では毒ガスを攻撃用よりは防御用とすると認識が強く、相模海軍工廠では防毒マスクの生産が主力だった。(相模海軍工廠より)
*A事案区域とは、環境省が平成 15 年に実施した<昭和 48 年の「旧軍毒ガス弾等の 全国調査」フォローアップ調査※1>において終戦時における旧軍の化学兵器に関連する情報を集約した結果を踏まえ設定したA事案(毒ガス弾等の存在に関する情報の確実性が高く、かつ、地域も特定されている事案)に該当する区域のことです。具体的には、以下の3区域となります(図1参照)。
①旧相模海軍工廠跡地(神奈川県寒川町内)
②旧相模海軍工廠化学実験部跡地(神奈川県平塚市内)
③ 旧陸軍習志野学校跡地(千葉県習志野市・船橋市内)
・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳
明石書店 1995年発行)
おわりに
私たちは、中国で被害者にインタビューした時の、彼らの強い憤りと苦痛を忘れることはできない。と同時に被害者が私たちに託した願いをも忘れることはできない。彼らの泣き声は今でも私たちの耳辺にあり、重なる傷跡は無情にも彼らの体に刻印を作り、その癒されることのなかった深い苦しみの様子は、聞いていた私たちの心の中から消えることはないだろう。私たちはこの想いを日本の人々に是非伝えたいと思う。