「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)
1995年8月15日
先の大戦が終わりを告げてから、50年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。
敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いてまいりました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様1人1人の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念を表わすものであります。ここに至るまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います。
南京大虐殺
南京大虐殺
南京大虐殺(マギーフィルム)
パネー号撃沈
重慶爆撃
第58号 重慶爆撃
原爆投下や東京大空襲ばかり取り上げて、 日本のテレビや教科書が重慶爆撃を取り上げないのは問題だと思います。 (視聴者のコメント)
苦干(重慶無差別爆撃)
731部隊
731部隊展
原爆
ニュース257号
日航123便の怪(1985年8月12日)
【森永卓郎×倉田真由美】 日本航空123便墜落事故で分かった新事実
●東京帝国大学伝染病研究所
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器・研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。
・1938年6月1日の伝染病研究所で石井の厚意によって上映された映画には、731部隊の生体解剖でも映っていたのでであろうか?精神的緊張裡とは、何のことだろうか?
・中込亘は、731部隊で細菌に感染して死んだのだろうか?
実験医学雑報20巻 第7号(1936年)
本所職制改正
この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。
*特別研究室とは何だ??
実験医学雑誌24巻(1940年)
雑報(2号)
宮川所長の青山先生胸像由来の話
青山、北里両先生ご一行が香港よりご帰国になりました当時盛大になる歓迎会の模様は東京医事新誌868号(明治27年11月17日発行)に詳しく載せられております。今その要点に触れておきますことは、胸像の由来を一層明らかにするように存じます。
歓迎会の委員長は近衛篤麿公でありまして朝野の貴紳20余名が委員となられ、東京帝国大学の図書館で開催されたのであります。当日は畏くも小松宮彰仁親王殿下のご台臨仰ぎ奉り、朝野の知名の士無慮1000名が集まり、殿下よりは優渥なる命旨を賜り、近衛委員長の熱烈なる歓迎頌徳の辞と共に、銅像の贈呈式が行われた由が記されております。両博士の名誉は譬えるに物もありませぬと存じます。これに対しまして、青山、北里先生が鄭重なる極めて謙遜になる謝辞を述べられておられますことはゆかしき限りであります。茲には青山先生の謝辞を記すことにしました。
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
吉田裕監修
2001年ピュリッツァー賞受賞
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!
第3部 陛下の戦争
1931(昭和6)年―1945 (昭和20)年
第8章 昭和維新と統制
Ⅲ
2月の叛乱から、昭和天皇は彼の大権である統帥権を確保するためには、憲法が重要であるとの確信を持つようになった。のちに石原莞爾が陸海軍から分離・独立した空軍創設の計画を構想した御進講を行ったとき、昭和天皇は、明治憲法の条文に規定のない空軍は統帥権から逸脱するのではないかとの懸念から、空軍創設を考慮しようとさえしなかった。天皇はそれほどまでにその教訓を心にとめたのである。最終的には事件は全体として、天皇が大元帥としてふるまったとき、絶大な力を持つことを強く彼自身に認識させる結果となった。天皇は行動の決断に迫られたとき、決して優柔不断に陥ることなく決定を下していたように思われる。そして、天皇は統制派に接近し、巨額な軍事費の支出を裁可したことを正しいと感じ始めていた。しかし、天皇はこの事件をけっして忘れることなく、この事件から皇位は実際以上に不安定であると考えるようになっていた。