まずいまずいと思いながらも子どもにイライラしてしまう。
最近は、とにかく口が達者だから、その間の悪さや遠慮なさが私の怒りに
拍車をかける。今は耐えるときなのだろうけれど、、、
わが子の特性としては、とにかく元気で興奮しやすい。走り出すと、ゲホンゲホン
咳き込むまで喜んで走りまくる。歌も同じ。踊りも同じ。どこかで止めないと
ブレーキなんてないから、公園で楽しそうに遊んでいたのはよいが咳き込んで
少し吐いてしまって父親をあわてさせたりする。(遊具を汚して帰るわけいかず
ハンカチをおろして拭いてビニル袋に入れて持ち帰り捨てた)
母親のかげに隠れて出たがらない子より、どんなにか悩みは少ないのか知れない
けれど、元気すぎてもとどめる方法が分からず戸惑う。子どもなんてそんなものと
思ってくれるおおらかなひとばかりならよいが、社会全体に子供が減った結果、
人々が静寂を乱す子どもという存在に厳しい方向に向いているような気がする。
身内が子どもに甘いのは昔より増している。身内が集まれば、母親だけが、
キーキーと注意していて「そんな目くじら立てないでも・・・」という流れ
に背いて叱りにくい。子どもには、その場で「ママ大嫌い」とまで言われて
しまう。
かたや、公共の場所で多くの大人に混じったら「おかあさんのいうことを
良くきける子」でなければ目立つ。酔っ払いが車内に出現したときのように
それまでの小さなざわめきすらなくなって、急にシーンとなり皆きき耳を立てて
母親の言動を見守っているような空気を感じてしまう。
バスのなかなど狭い空間にいても、外を見たり、座席の細かな汚れに気づいたり
虫の入り込みに気づいたりとじっとしていられず、話したいことがたくさんあって
黙っていられず、どんなに「小さい声で」と言っても段々声が大きくなってきて
しまう子どもといると気詰まりになる。
だいぶまえに、同じように育児中の友達と会った時、彼女は「周りに気ぃ使い
すぎ」と言っていた。その通りだと思ったが、「こどもだから」で遠慮しなくて
よいのか?とも思った。いまもグラグラゆれたままだ。
それにしても、母親として余裕を失っている自分にゲッソリするけれど、
バスタブを洗おうとしているときや洗濯物を乾かそうと段取りを考えて
動いている最中でもお構いなし。遊びたくて要求を次々とつきつけて
くるうえ、結局折れてしまう私がいて、やりたいことをがまんして譲った
のに「受け入れられて当然」の子どもの顔を見るといらいらしてしまう。
親にしてもらったことでよかったことは全部マネしている。いまも、よい習慣
だったから取り入れたいと思っていることがいくつもある。
しかし、学校の先生をして「いまどき古風な親御さん」は厳しかった。
親に対するくちのききかた、兄を敬わない不届きさ、妹らしいしおらしさといった
ものは若気の至りでキチンと消化できずぶつかってばかりだった。
家で一番よく言われたのは「生意気」ということばだった。
それなのに最近の自分の言動に「なまいき」が混じってきてる。辛い。
子どもの頃言われて嫌だった言葉をわが子に使うまいと思ってきたのに、
口達者で加減の仕方が分からない子どもから次々に投げつけられる要求や
批評に「私が子どものときはこんなの許されなかった!」と頭に血が上る。
厳しく育てられたおかげで助かったことはもちろんたくさんある。しかし、
家庭にそれほど張り詰めた空気がなくても、社交の節度を知り、穏やかな
気性で他から愛される夫を見ていると、どんな風にしつけを教わったのかと
なんだかしょげかえりたくもなる。
初夢も、「指しゃぶりがやめられないのは、母親のあなたがストレスを抱えて
いるから」という以前読んだ本のフレーズをそのままどこかの保育士さん
らしき女性から指摘されるというもの。「あなた、こどもに甘えているんですよ」
と言われて、ショックをうけてしどろもどろになったあたりで、夫に叱られて
ヒャーンと泣いた子どもの声がして飛び起きて終わった。
これはもう、育児に冷静さを欠いていると内なる自分の無意識なところから
警告されているに違いない。入園準備も棚上げしたままだし、お弁当を作る
というプレッシャーも克服できていない。モンモンとためているストレスを
軽減するには夜型生活を脱して早寝早起きをすること。
生活改善が、すべてのカギなんだろうなぁ。頑張らなくちゃ・・・
と思いつつ、イライラに任せて手近なお菓子をほおばりブクブク太ってます。
そんなこんなで堂々巡りのモヤモアをためて更新も滞る冬を過ごしている。
最近は、とにかく口が達者だから、その間の悪さや遠慮なさが私の怒りに
拍車をかける。今は耐えるときなのだろうけれど、、、
わが子の特性としては、とにかく元気で興奮しやすい。走り出すと、ゲホンゲホン
咳き込むまで喜んで走りまくる。歌も同じ。踊りも同じ。どこかで止めないと
ブレーキなんてないから、公園で楽しそうに遊んでいたのはよいが咳き込んで
少し吐いてしまって父親をあわてさせたりする。(遊具を汚して帰るわけいかず
ハンカチをおろして拭いてビニル袋に入れて持ち帰り捨てた)
母親のかげに隠れて出たがらない子より、どんなにか悩みは少ないのか知れない
けれど、元気すぎてもとどめる方法が分からず戸惑う。子どもなんてそんなものと
思ってくれるおおらかなひとばかりならよいが、社会全体に子供が減った結果、
人々が静寂を乱す子どもという存在に厳しい方向に向いているような気がする。
身内が子どもに甘いのは昔より増している。身内が集まれば、母親だけが、
キーキーと注意していて「そんな目くじら立てないでも・・・」という流れ
に背いて叱りにくい。子どもには、その場で「ママ大嫌い」とまで言われて
しまう。
かたや、公共の場所で多くの大人に混じったら「おかあさんのいうことを
良くきける子」でなければ目立つ。酔っ払いが車内に出現したときのように
それまでの小さなざわめきすらなくなって、急にシーンとなり皆きき耳を立てて
母親の言動を見守っているような空気を感じてしまう。
バスのなかなど狭い空間にいても、外を見たり、座席の細かな汚れに気づいたり
虫の入り込みに気づいたりとじっとしていられず、話したいことがたくさんあって
黙っていられず、どんなに「小さい声で」と言っても段々声が大きくなってきて
しまう子どもといると気詰まりになる。
だいぶまえに、同じように育児中の友達と会った時、彼女は「周りに気ぃ使い
すぎ」と言っていた。その通りだと思ったが、「こどもだから」で遠慮しなくて
よいのか?とも思った。いまもグラグラゆれたままだ。
それにしても、母親として余裕を失っている自分にゲッソリするけれど、
バスタブを洗おうとしているときや洗濯物を乾かそうと段取りを考えて
動いている最中でもお構いなし。遊びたくて要求を次々とつきつけて
くるうえ、結局折れてしまう私がいて、やりたいことをがまんして譲った
のに「受け入れられて当然」の子どもの顔を見るといらいらしてしまう。
親にしてもらったことでよかったことは全部マネしている。いまも、よい習慣
だったから取り入れたいと思っていることがいくつもある。
しかし、学校の先生をして「いまどき古風な親御さん」は厳しかった。
親に対するくちのききかた、兄を敬わない不届きさ、妹らしいしおらしさといった
ものは若気の至りでキチンと消化できずぶつかってばかりだった。
家で一番よく言われたのは「生意気」ということばだった。
それなのに最近の自分の言動に「なまいき」が混じってきてる。辛い。
子どもの頃言われて嫌だった言葉をわが子に使うまいと思ってきたのに、
口達者で加減の仕方が分からない子どもから次々に投げつけられる要求や
批評に「私が子どものときはこんなの許されなかった!」と頭に血が上る。
厳しく育てられたおかげで助かったことはもちろんたくさんある。しかし、
家庭にそれほど張り詰めた空気がなくても、社交の節度を知り、穏やかな
気性で他から愛される夫を見ていると、どんな風にしつけを教わったのかと
なんだかしょげかえりたくもなる。
初夢も、「指しゃぶりがやめられないのは、母親のあなたがストレスを抱えて
いるから」という以前読んだ本のフレーズをそのままどこかの保育士さん
らしき女性から指摘されるというもの。「あなた、こどもに甘えているんですよ」
と言われて、ショックをうけてしどろもどろになったあたりで、夫に叱られて
ヒャーンと泣いた子どもの声がして飛び起きて終わった。
これはもう、育児に冷静さを欠いていると内なる自分の無意識なところから
警告されているに違いない。入園準備も棚上げしたままだし、お弁当を作る
というプレッシャーも克服できていない。モンモンとためているストレスを
軽減するには夜型生活を脱して早寝早起きをすること。
生活改善が、すべてのカギなんだろうなぁ。頑張らなくちゃ・・・
と思いつつ、イライラに任せて手近なお菓子をほおばりブクブク太ってます。
そんなこんなで堂々巡りのモヤモアをためて更新も滞る冬を過ごしている。