21世紀新訳・仏教経典(抄)

西川隆範編訳・桝田英伸監修

「地獄」の読み方について  ~監修者のひとりごと

2012-04-04 19:40:57 | お知らせ
さて、バラエティー豊かな〈十六小地獄〉が終わり、いよいよ〈八大地獄〉の続きが語られますが、
正直、個性豊かな〈小地獄〉と比べると、なんとなく物足らなく(?)思えるかも。
よく似たシチュエーションの繰り返しで、表記としても、あまり変わりばえしないです。
さて、地獄をどう受け取るかの問題なのですが、
“魂の罪滅ぼし”の期間として理解するならば、
一見、同じようなシチュエーションの繰り返しというのは、
まさに“終わることのない悪夢”そのもの。
そして、
“生前自分の犯した罪を償うための責め苦”ならば、
それぞれの責め苦は、まさに“自分が誰かに味あわせた苦しみ”、であるはず。
「因果応報」と申しましょうか。

こういう視点で
もう一度、地獄の責め苦を考えてみましょう。


第一の【想地獄】とは、まさに人を「殺してやりたい」と憎み続けた者が堕ちる世界でしょうね。
仏教の場合は、実際に殺さなくっても、言葉で人を破壊的に傷つけたり、想念で人を恨み殺そうと念じ続けることも、
「身・口・意の三業」として、罪業(カルマ)として理解されます。
ですので、この地獄に堕ちる人は、案外多いかもしれませんね。

続く【黒縄地獄】は、体中に切り込み線を入れられて、切り刻まれてゆきます。
つまりは、誰か“相手の身を切り刻むようなことをして来た人”が行く地獄、なのでしょう。
ぱっと思い浮かぶのは、「会社の人事課、上司」でしょうか。
個人の築き上げてきたものを、場合によってはなし崩しにして配置換えをしてしまう。
立場上、物言えぬ下の人々は、まさに“断腸の想い”であることも、当然あるでしょうね。
同様の“断腸の想い”を、場合によっては味わうべきかも知れません。
もちろん、会社程度の問題ならまだしも、社会的な地位にものを言わせて人々に身を切る想いを強いてきたような人は、
“自分のせいで苦しんだ人の数だけ、身を切り刻まれるべき”、なのかもしれません。

その次は【堆圧地獄(たいあつじごく)】。これは大きなものに押し潰され続ける地獄ですが、
これも“立場を利用して邪魔者を潰してきたような者”が堕ちる地獄、でしょう。
なんせ、山や象など、とうてい自分ひとりの力ではたちうちも出来ないようなものに潰され続けるわけですから、
生前は、そんな“権力の威”を借りて、我が物顔でやって来たような者が、
まさに押しつぶして消される立場を、いつまでも味わい続ける、ということでしょう。
あまり具体的には書きませんが、「○○の黒幕」なんて方々でしょうかね。

【叫喚地獄(きょうかんじごく)】【大叫喚地獄】。ここは、基本「釜ゆで」の刑ですね。
逃げ場のない、熱い、苦しいところ。
生前なら、逃げ場なく追い詰められて、自ら命を絶たざるを得なかったような状況の人たちが、
「釜ゆで」みたいな状態でしょうか。
ですから、そんな風に人を追い詰めた者が行くべき世界でしょうね。
【大叫喚】になると、釜が大きくなり、罪人も大勢になりますが、
それは大量の人々を追い詰めた者たちが行くべき世界でしょうし、
彼は、“大勢の極悪人といっしょに仲良くゆでられる”、のではなく、
“大勢の苦しみを、その集団の恐怖といっしょに、同時多重的に体験し続ける”、のだと思います。
大勢の亡者のなかに悪人の意識がそれぞれ入り、何倍、いや何千億倍もの恐怖・苦痛を味わって、それから開放されない・・・。
そうでなければ、【叫喚】と【大叫喚】の差異は見出せませんし、
そうでなければ、苦しめられた人たちは報われない、と思うのです。

その次には【焼炙地獄(しょうしゃじごく)】【大焼炙地獄】。通常は【焦熱地獄(しょうねつじごく)】と呼ばれますが。
ここでの責め苦の主役は「炎」。すなわち、「怒り」でしょうね。
“怒り狂うことで人に言うことを聞かせてきたような輩(やから)”は、
まさに自分の怒りをそのまま、いや上回る怒りによって、恐怖させられるわけです。
「声のでかい奴の言うことがまかりとおる」なんて、残念ながら世の中ではままあることですが、
その怒りによって苦しめられた人々の体験を、逆の立場で味わうのがこの世界なのでしょう。
【大焼炙】になると、はっきり言って戦争規模の苦しみを引き起こした者たちが、
そのしかるべき帰結としてさいなまれる地獄でしょう。
怒りの渦に取り囲まれて、炎に包まれて焼かれる、なんて、戦争そのものではないですか。

最後の【無間地獄】。
これはもう、最上級の地獄として想定されていますので、
戦争責任者など、実名をあげれそうな人物たちが堕ちている、べきなのでしょう。
「少しの隙間もなく」苦しみ続けるわけですから、
同様の想いを、人々に味あわせた者の罪を“帳消しに出来る場所”、というわけです。
すなわち“同様の苦しみを味わい続ける場所”、なのですね。


連載はまだまだこれからですが、是非、このブログに訪れた方々は、このような想いで記事を読んで頂ければ、と思います。

同様の地獄について、事細かく書かれた経典に『正法念処経(しょうぼうねんじょきょう)』がありますが、
「この罪を犯した者はこの地獄に、この罪ならこの地獄に」という単純な割り振り、当てはめでは、
地獄そのものの価値さえもが、表面的な、くだらないものに堕してしまう危険性があるように思います。
現代人が地獄を学ぶなら、「昔の人はヘンなこと考えたんだなあ」なんて小馬鹿にして読むのではなく、
“今の自分も、すでに地獄の業を作り出しているのではないか”と、
常に自省を促すような理解で読み進める必要がある、と思うのです。


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