さまざまな仏様は、そのご修行時代、菩薩様でいらっしゃった時に、それぞれ「誓願」というものを立てられてました。
どの仏様も、それらの「誓願」を実現なさるべくご精進なさったのです。
そしてそして、数多おられる仏様の中でも、とりわけ48もの数の誓願を立てられ、それを成し遂げて「極楽浄土」を築かれたのが、阿弥陀仏様!
そう、今まさに、このブログで紹介している内容なのです。
ところで…
「誓願」についての説明、一通り聞いても、なんだかイマイチよくわからない、なんてことはありませんか?
そもそも、「誓願」の中身そのものがぶっ飛んでいて、よく意味もわからない…。
幸い、このブログは僧侶でありながらシュタイナーと関わっている者たちで運営されております。
(とはいえ、日本を代表するシュタイナー翻訳家の西川隆範先生とは違って、監修者はただの一学徒に過ぎませんが。)
シュタイナーの人智学的な知見も交えながら、この「誓願」について考察を加えてゆくと…。
まず「誓願」ということばですが、原語であるサンスクリットからお話しすると、
“プールヴァ・プラニダーナ”と言います。
わかりやすく訳してみると、
「はるか遠い昔に、思い定めたこと、祈り、誓い」。
漢字で考えてみると、
「誓い」と「願い」
になりますね。
でも、このふたつって、同じもの?違うもの?
「誓い」は、言うなれば“義務”。また、“使命感”。
対して、「願い」はむしろ“願望”。“望み”。
少し、性質が違いますね。
さらに考察をすすめましょう。
「誓い」は、私たちの魂の働きの中で、“意志”に関わるものです。
シュタイナーの言葉を借りるならば、「意志とは未来を形作るもの」。
対する「願い」とは、私たちの魂の中の“感情”に結びつくものと言えましょう。
「感情とは、現在を生きる魂に力を与えるもの」。
シュタイナーは、人が霊的な修行を通して進歩する際に、
魂の中の“意志”と“感情”と“思考(過去の経験を通して構築されるもの)”とが分離して発達する、と示しておられます。
そして、
さらに魂の進歩が進むと、この三つの働きが、それぞれに深く浸透し合いながら、もう一度一つにつながってゆく、とも述べておられます。
つまり、監修者が愚考しますのには、
偉大なる菩薩たちが仏となる前に、仏となるためにお立てになる「誓願」というのは、
崇高なる霊的な進歩の過程において、到達されるであろう、ある意識段階に基づいているのではないか、ということなのです。
なればこそ、常人には確かに理解不可能な境地でしょうし、
逆にその境地にお立ちになられれば、「誓願」というものを立てずには、おそらくは一歩たりとも前へと進むことの許されないような、なにかなのではないか、と。
先ほど「“意志”と“感情”と“思考”とが浸透し合い、つながる」と申しましたが、
わからないながらに、この「誓願」というものについて考えさせて頂くと、
「誓いでありながら、願いでもある」
「願いでありながら、誓いでもある」
といった境地なのではないか、と思うのです。
mustでありながら、wantである境地。
「ねばならない」であると同時に、「~したい」という精神状態。
どうでしょうか?
なかなかピンと来ないかもしれませんが…。
しかし、一つだけわかりやすいたとえがあります。
私たち、凡人の日常の中でも、精神性が高まるとき。私たちなりに、崇高な自覚を持つとき。
それは、一人の人間として、一人の人間を愛するとき。
相手のことを、
「大切にしたい。」同時に「大切にしなければならない。」
(特に、親として我が子に対して、より純粋に、より強く持てるように思います。)
この、「願い」と「誓い」、“感情”と“意志”が浸透し合って、融合しようとする精神の境地。
ここに唯一、私たちが日常の中で持つことの許されている「誓願」があるのではないか、と思うのです。
そして、これを手掛かりに、仏様たちの「誓願」について考察を届かせようとするならば、
うっすらと見えて来るのは、
「仏様から私たち迷いのなかの生き物たちへの大いなる愛・慈悲」なのではないでしょうか。
親不幸にして、なかなか実感することも難しいですが…。
監修者自身は、実はこういう思考を念頭に、現在48の誓願を改訂しております。
もちろん内容そのものを正確に理解しきる、ということはハナから諦めておりますが、
なにがしか、高い境地において必要だとお考えになり、目指され、完成なされた境地なのだ、という最大限の畏敬の念を払って、文章を綴っております。
わからないなりに、崇高な意志に触れる想いで読んで頂ければ、これ以上の喜びはありません。
どの仏様も、それらの「誓願」を実現なさるべくご精進なさったのです。
そしてそして、数多おられる仏様の中でも、とりわけ48もの数の誓願を立てられ、それを成し遂げて「極楽浄土」を築かれたのが、阿弥陀仏様!
そう、今まさに、このブログで紹介している内容なのです。
ところで…
「誓願」についての説明、一通り聞いても、なんだかイマイチよくわからない、なんてことはありませんか?
そもそも、「誓願」の中身そのものがぶっ飛んでいて、よく意味もわからない…。
幸い、このブログは僧侶でありながらシュタイナーと関わっている者たちで運営されております。
(とはいえ、日本を代表するシュタイナー翻訳家の西川隆範先生とは違って、監修者はただの一学徒に過ぎませんが。)
シュタイナーの人智学的な知見も交えながら、この「誓願」について考察を加えてゆくと…。
まず「誓願」ということばですが、原語であるサンスクリットからお話しすると、
“プールヴァ・プラニダーナ”と言います。
わかりやすく訳してみると、
「はるか遠い昔に、思い定めたこと、祈り、誓い」。
漢字で考えてみると、
「誓い」と「願い」
になりますね。
でも、このふたつって、同じもの?違うもの?
「誓い」は、言うなれば“義務”。また、“使命感”。
対して、「願い」はむしろ“願望”。“望み”。
少し、性質が違いますね。
さらに考察をすすめましょう。
「誓い」は、私たちの魂の働きの中で、“意志”に関わるものです。
シュタイナーの言葉を借りるならば、「意志とは未来を形作るもの」。
対する「願い」とは、私たちの魂の中の“感情”に結びつくものと言えましょう。
「感情とは、現在を生きる魂に力を与えるもの」。
シュタイナーは、人が霊的な修行を通して進歩する際に、
魂の中の“意志”と“感情”と“思考(過去の経験を通して構築されるもの)”とが分離して発達する、と示しておられます。
そして、
さらに魂の進歩が進むと、この三つの働きが、それぞれに深く浸透し合いながら、もう一度一つにつながってゆく、とも述べておられます。
つまり、監修者が愚考しますのには、
偉大なる菩薩たちが仏となる前に、仏となるためにお立てになる「誓願」というのは、
崇高なる霊的な進歩の過程において、到達されるであろう、ある意識段階に基づいているのではないか、ということなのです。
なればこそ、常人には確かに理解不可能な境地でしょうし、
逆にその境地にお立ちになられれば、「誓願」というものを立てずには、おそらくは一歩たりとも前へと進むことの許されないような、なにかなのではないか、と。
先ほど「“意志”と“感情”と“思考”とが浸透し合い、つながる」と申しましたが、
わからないながらに、この「誓願」というものについて考えさせて頂くと、
「誓いでありながら、願いでもある」
「願いでありながら、誓いでもある」
といった境地なのではないか、と思うのです。
mustでありながら、wantである境地。
「ねばならない」であると同時に、「~したい」という精神状態。
どうでしょうか?
なかなかピンと来ないかもしれませんが…。
しかし、一つだけわかりやすいたとえがあります。
私たち、凡人の日常の中でも、精神性が高まるとき。私たちなりに、崇高な自覚を持つとき。
それは、一人の人間として、一人の人間を愛するとき。
相手のことを、
「大切にしたい。」同時に「大切にしなければならない。」
(特に、親として我が子に対して、より純粋に、より強く持てるように思います。)
この、「願い」と「誓い」、“感情”と“意志”が浸透し合って、融合しようとする精神の境地。
ここに唯一、私たちが日常の中で持つことの許されている「誓願」があるのではないか、と思うのです。
そして、これを手掛かりに、仏様たちの「誓願」について考察を届かせようとするならば、
うっすらと見えて来るのは、
「仏様から私たち迷いのなかの生き物たちへの大いなる愛・慈悲」なのではないでしょうか。
親不幸にして、なかなか実感することも難しいですが…。
監修者自身は、実はこういう思考を念頭に、現在48の誓願を改訂しております。
もちろん内容そのものを正確に理解しきる、ということはハナから諦めておりますが、
なにがしか、高い境地において必要だとお考えになり、目指され、完成なされた境地なのだ、という最大限の畏敬の念を払って、文章を綴っております。
わからないなりに、崇高な意志に触れる想いで読んで頂ければ、これ以上の喜びはありません。
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