さて、現在、浄土系のお坊様たちが大変よく使うお経、『四誓偈(しせいげ)』。
この呼称は浄土宗での呼び名で(監修者は浄土宗の僧侶です)、
浄土真宗では『三誓偈』『重誓偈』と呼ぶようですね。
どうして、「四」だ「三」だとなってしまうのでしょう?
これは漢文で考えているからなんですね。
冒頭に「誓不成正覚」が三回繰り返されますから、
三つの誓いで「三誓偈」。わかりやすいですね。
では、「四誓偈」はどうして「四」なの?
ある説明によれば、最初の三つ以外の、長い部分全体を指して、
“四番目の誓い”とか。
う~ん、なんだかイマイチすっきりしませんねぇ…。
これらのモヤモヤ、インド語までさかのぼると、一気に解決!なんですねー。
詳しい内容は、前回の記事そのものを味読して頂ければいいんですが、
ちょっと注意点だけ、指摘しておきましょう。
なぜ四つの誓いなのか?
サンスクリット訳(岩波文庫の『浄土三部経・上 無量寿経』参照)を見れば、イッパツで疑問解消です!
三つの誓いの次の一文が、“四番目の誓い”なのです!
(内容は本文参照)
じゃあ、その後はなんなんだって?
それもサンスクリット訳を見ればすぐにわかりますよ。
あそこからは、阿弥陀仏(法蔵菩薩)が師匠である世自在王仏を讃える部分なんです!
漢文じゃわかりませんけど、今日日、様々な情報を集めることが出来るのですから、
日常ひんぱんにお唱えするお経の意味くらいは、精査しておくべきです。
すこし内容についても解説しましょう。
『四誓偈』は、四十八願のあとに歌われる“うた”です。
つまり、四十八願を美しく要約した詩であるはずです。
その要約したものこそが“四つの誓い”。
だれも成し遂げたことのない(国土を築き上げる)、最上の誓願。
あらゆる生き物を救いたい、という慈悲あふれる誓願。
自らの存在そのものを広大にしよう、とする誓願(もちろん、あらゆる生き物を救うため)。
そして、仏道修行をすべて修めて、人々や神々をも導こう、という誓願。
どうでしょうか?
もう一度、この四つに照らし合わせて、四十八願を眺めてみては?(もちろん、理解することの難しいものなのですが…)
そして、師たる御仏を讃える部分。
これはつまり、
「自分もこうなりたい」という想いあってこそ。
さらに、
師がいかにすぐれており、どのような修行を経てその境地に立たれたか、ということをも明確に理解している、ということ。
“正しく讃える”というのは、おそらくは非常に難しいことなのでしょう。
100%の尊敬の念から、正確な認識、正確な理解、正確な修行方法が見えて来る。
そうすれば、100%の努力を尽くす義務をも理解し、意欲をもって望むことが出来る。
そういったことをも、私たちに示して下さっているのです。
まさに、汲めども尽きぬ仏法の大海。
たとえ両手にすくったほどの少量であっても、
無数の星々をも映し出す清らかに澄んだ水・・・。
ぜひ、もう一度味わって読んでいただければ、と思います。
この呼称は浄土宗での呼び名で(監修者は浄土宗の僧侶です)、
浄土真宗では『三誓偈』『重誓偈』と呼ぶようですね。
どうして、「四」だ「三」だとなってしまうのでしょう?
これは漢文で考えているからなんですね。
冒頭に「誓不成正覚」が三回繰り返されますから、
三つの誓いで「三誓偈」。わかりやすいですね。
では、「四誓偈」はどうして「四」なの?
ある説明によれば、最初の三つ以外の、長い部分全体を指して、
“四番目の誓い”とか。
う~ん、なんだかイマイチすっきりしませんねぇ…。
これらのモヤモヤ、インド語までさかのぼると、一気に解決!なんですねー。
詳しい内容は、前回の記事そのものを味読して頂ければいいんですが、
ちょっと注意点だけ、指摘しておきましょう。
なぜ四つの誓いなのか?
サンスクリット訳(岩波文庫の『浄土三部経・上 無量寿経』参照)を見れば、イッパツで疑問解消です!
三つの誓いの次の一文が、“四番目の誓い”なのです!
(内容は本文参照)
じゃあ、その後はなんなんだって?
それもサンスクリット訳を見ればすぐにわかりますよ。
あそこからは、阿弥陀仏(法蔵菩薩)が師匠である世自在王仏を讃える部分なんです!
漢文じゃわかりませんけど、今日日、様々な情報を集めることが出来るのですから、
日常ひんぱんにお唱えするお経の意味くらいは、精査しておくべきです。
すこし内容についても解説しましょう。
『四誓偈』は、四十八願のあとに歌われる“うた”です。
つまり、四十八願を美しく要約した詩であるはずです。
その要約したものこそが“四つの誓い”。
だれも成し遂げたことのない(国土を築き上げる)、最上の誓願。
あらゆる生き物を救いたい、という慈悲あふれる誓願。
自らの存在そのものを広大にしよう、とする誓願(もちろん、あらゆる生き物を救うため)。
そして、仏道修行をすべて修めて、人々や神々をも導こう、という誓願。
どうでしょうか?
もう一度、この四つに照らし合わせて、四十八願を眺めてみては?(もちろん、理解することの難しいものなのですが…)
そして、師たる御仏を讃える部分。
これはつまり、
「自分もこうなりたい」という想いあってこそ。
さらに、
師がいかにすぐれており、どのような修行を経てその境地に立たれたか、ということをも明確に理解している、ということ。
“正しく讃える”というのは、おそらくは非常に難しいことなのでしょう。
100%の尊敬の念から、正確な認識、正確な理解、正確な修行方法が見えて来る。
そうすれば、100%の努力を尽くす義務をも理解し、意欲をもって望むことが出来る。
そういったことをも、私たちに示して下さっているのです。
まさに、汲めども尽きぬ仏法の大海。
たとえ両手にすくったほどの少量であっても、
無数の星々をも映し出す清らかに澄んだ水・・・。
ぜひ、もう一度味わって読んでいただければ、と思います。
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