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母と母になる人たちに知って欲しい事

2020年09月03日 | 政治


国語、算数、理科、社会――おなじみの教科のほかに、小学生が学ぶ教科がこの春から1つ増えたことをご存じだろうか。これまで「教科外の活動」とされていた道徳が、「特別の教科」に格上げされたのだ。

 「道徳の教科化」は、2020を目処に進む学習指導要領の改訂のなかで、2018年度から先行して始まった(小学生のみ、中学校2019年度から)。授業時間数は1年生から6年生まで週1時間であることに変わりはないが、道徳が「特別の教科」になることによる大きな変化は2つある。

 第一に、道徳の授業で文部科学省の検定が必須の「教科書」が用いられるようになること。第二に「評価」が行われるようになることだ。この2つの変化が子どもたちにどのような影響をもたらすか今回は考えていきたいと思う。

教科書に求められる「郷土愛

 まずは教科書である。日本では、学校で用いられる教科書について、文科省による検定が行われており、生徒が学ぶ教科書は国の基準に沿った内容となる。昨年、道徳の教科化に向け作成された教科書に記載されていた「パン屋」という表記が、「国や郷土を愛する態度」が不足していることを理由に「和菓子屋」に書き換えられたというニュースが話題になった。あの件は文部科学省による教科書の検定がきっかけとなっている。

 道徳の教科書における検定は他の教科書と異なり、特定の記述の修正を求められることはなく、教科書全体で学習指導要領にのっとっているか、範囲や表現が適切かということが問われる。文科省が不適切と判断すれば、「検定意見」として出版社に伝えられるが、修正の判断は出版社に委ねられているとされる。

 しかし、学習指導要領には教えなければいけない価値として、「徳目」とも称される22の項目が設定され(高学年の場合)、それらの項目を元に教科書は編纂される。さらに、文部科学省は学習指導要領解説の中で、各項目に対する解説を細かに行っている。

 たとえば、「善悪の判断、自律、自由と責任」という項目は、小学校1年生、2年生では「よいことと悪いこととの区別をし、よいと思うことを進んで行うこと」、3年生、4年生では「正しいと判断したことは、自信をもって行うこと」、5年生、6年生では「自由を大切にし、自律的に判断し、責任のある行動をすること」と、解説されている。

 実際に2年生の道徳の教科書「小学どうとく」(教育出版)をひらくと、「つよいこころ」というタイトルの読み物では、「ゆう気を出すとき」の一例として「なかまはずれの子に声をかけるとき」などが書かれている。さらに、「学びの手引き」として「みなさんがゆう気を出すときは、どのようなときでしょう」「それぞれのゆう気では、何がちがいますか」「ゆう気を出すためには、何がひつようなのでしょうか」など、その価値(規範)を学ぶための問いが設定されている。

 ただ、問いがあるということは答える機会があるということである。そして問いに対する回答は評価の対象になる可能性が高い。しかしどうやって彼らの「道徳的判断」を評価するというのだろうか。「発言」や「行動」に現れない心の動きこそが道徳において重視されるべきであろうし、それぞれの状況や個別具体的な場面によって判断の価値も異なる。それを一律に評価することなど誰ができるだろうか。

道徳の評価はどう下される?

 新指導要領で実施される道徳の評価は、他の教科とは異なり、「数値による評価」ではなく「記述による積極的評価」とされている。積極的評価とは、褒めること、励ますことを基本とし、ポジティブな面への記述をもって評価を行うということである。

 数値での評価やネガティブな指摘がなければ問題ない、という論調もあるようだが本当にそうだろうか。先生から生徒への「評価」には強いメッセージが込められている。通知表をもらったときの悲喜こもごもを思い返していただければおわかりいただけるだろう。先生から褒められることは嬉しく記憶にも残り、褒められなかったことも、一つのメッセージとなる。つまり評価を下すということは先生が一つの「規範」を作り出すことにつながるのだ。そしてそれは「何が褒められたのか」といったミクロで具体的な「行動規範」となる可能性が高い。

 こうして誰かが子どもたちの道徳に「規範」を押し付けていくことはなにを意味するのだろうか? それは、子どもが「国が育てたい国民」に方向付けられる危険性があるということだ。

 そもそも教科にはそれぞれその背景に、学問体系が存在する。つまり国語、算数、理科、社会、英語などといった教科教育の科目にはそれぞれこれまで学術的に明らかにしてきたさまざまな事実や事象が存在する。それに照らすことで、教科書の検定や教科の設計が行われ、それに基づくことで評価を可能にしてきたのだ。時には学術的に正しいとされてきた内容が誤っていたことが発覚することもある。たとえば、歴史の教科書や評価の基準などは新しい事実が解明されれば、それに基づいて刷新される。参照先があるからこそ、誤りを正すことができるのだ。

 しかし、道徳という教科においては、そうした学問体系をバックグラウンドにして評価を行うことは不可能である。ではなにが評価基準となるのか。これまでの道徳教科に関する政府の議論の変遷をたどると、国の意志の反映を狙う意図が見て取れる。

 教科としての道徳が始まったのは、戦前の尋常小学校における「修身科」から。修身科とは、1890年に明治天皇から発表された教育の基本方針「教育勅語」を基にして指導すべき教科とされ、教科教育のなかでも当時特に重要視されていた教科である。それが戦後、教育勅語とともに学校教育から一掃され、道徳教育は学校教育全体のなかで行われるようになった。

 終戦から13年後の1958年、「学校教育法施行規則」によって特設道徳という教科がつくられた。修身の復活が道徳と名を変えて始まったのである。このときは評価のない教科として導入されたが、1週間に1時間は必ず道徳を実施するということが決まった。そして2015年改正の「学校教育法施行規則」により道徳を特別の教科に格上げした教育課程が敷かれ、今年度より、実に60年の時を経て、道徳教育が再び教科化されたのである。これまで教育勅語の復活や、道徳教育の拡充に向けた動きはつねに見られてきた。それが安倍政権下についに実現したのである。

「道徳の教科化」の本当の目的とは?

 文科省は道徳の教科化の目的として、第一に「いじめ問題の対応」を挙げている。しかしその裏には、政府の別の思惑が見てとれる。「学習指導要領解説 特別の教科道徳編」の第1章の1改定の経緯には、学校教育における道徳教育の使命として下記のことが掲げられている。

我が国の教育は、教育基本法第1条に示されているとおり「人格の完成を目指し、 平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われる」ものである。人格の完成及び国民の育成の基盤となるものが道徳性であり、その道徳性を育てることが学校教育における道徳教育の使命である。

以上をお読みいただき、それのなにが問題なのか?と思う方も少なくないだろう。道徳で指導される中身を見てみても、小学校で習ったこと、あるいは家庭で親御さんがお子さんに伝えていることと重なる、そう思われる方も少なくないだろう。

 しかし問題なのはこれを「」が「制度」として導入しているというところなのである。「人格の完成」や「道徳性」とは何かを、はたして国が上から定めるべきものなのだろうか。それを行き過ぎた行為と思うかそう思わないかはおそらくそれぞれの方々の価値観による部分が大きいだろう。しかしぜひ一度、立ち止まって考えてみてほしいのだ。

 こうした動きが今この時代、この国で起こっているということに目を向ける必要があるのだ。変化の激しい時代、多様性自由人権が重んじられる時代に、この動きにはやはり違和感を持たざるをえない。主権が国民になかった戦前の日本で、修身科が授業として行われたのとはわけが違う。自由と民主主義が標榜される国において、国が国民の価値に規範を示したときに起こることは、戦前のそれよりもっと悲惨だ。つまり、現代では自己の意思決定の下、自分自身も気づかないうちにコントロールされる危険性が高いのだ。

 正解のない時代と言われ、未来に潜むリスクは個人にとっても社会にとっても挙げていけばキリがない。それでも今日の日本では、自由と平等の下、それぞれの意思決定の先にある結果の責任は自分で取るべきであるという考えが浸透している。社会構造なども踏まえて論理的に考えれば、個人の決断や行為の結果のほとんどは、さまざまな要因の影響を大きく受けている。それにもかかわらずすべてが「自己責任」に回収される、そんな現代の状態を筆者は「自己責任化社会」と呼ぶ。

 「自己責任化社会」において、自由と平等が見せかけであるとしたら、この道徳は前回の記事(全国の高校で導入中、活動記録サイトの正体)で紹介した「パノプティコン(従来の法や支配のように単に人を抑圧するのではなく、訓練や教育を通して力をうまく引き出すことで人々を従わせる「規律訓練型権力」の例)」に近い権力装置となりうる。知らぬ間に、自分自身の意志の下、国の規範が内面化されるのだ。しかし「自己責任化社会」においては、その価値観がたとえ国から教授され、押し付けられたものであったとしても、それによる結果のすべてを自分で負わざるをえなくなる。

戦前日本の「修身科」教育の末路

 国の価値観が強く反映された徳目の1つに、「国や郷土を愛する態度」がある。「道徳の教科化」の議論において特に話題に上る徳目だ。その中身は、「我が国や郷土の文化を大切にし、先人の努力を知り、国や郷土を愛する心をもつこと」とされる。

 改憲の動きがいまだ盛んで、近隣国の動きも穏やかとは言えない昨今、有事がないとも限らない。これまでのように戦争は起きないと誰が言い切れるだろうか。「国や郷土を愛する心」の解釈もさまざまだろうが、もし戦争が始まれば、この道徳の教えによって、いまの若者たちが国家に「主体的に隷属する」可能性は大いにある。

 そんな国をわれわれは望んでいるのだろうか。本当にそれでいいのだろうか。

 軍国主義が徹底され、「聖戦だ 己れ殺して 国生かせ」といった戦時標語が跋扈(ばっこ)した戦時下の日本において、若者が何を思い、何に苦悩したのか、我々は知っておく必要がある。

 22歳で特攻隊員として出撃し、一生を終えた上原良司氏がまさに出撃前夜に記した所感を通して、その中の重要な1つに触れることができる。その所感は現在、鹿児島県知覧のホタル館富屋食堂(当時の食堂で、特攻隊の記念館となっている)に飾られているほか、『新版・きけ わだつみのこえ』(岩波文庫)の巻頭にも収録されている。次に抜き出して引用したい。

思へば長き学生時代を通じて得た、信念とも申すべき理論万能の道理から考へた場合、これは或は自由主義者と謂はれるかも知れませんが、自由の勝利は明白な事だと思ひます。人間の本性たる自由を滅す事は絶対に出来なく、例へそれが抑へられて居る如く見えても、底に於ては常に闘ひつつ最後には必ず勝つと云ふ事は、 彼のイタリヤのクローチェも云って居る如く真理であると思ひます。権力主義全体主義の国家は一時的に隆盛であらうとも必ずや最後には敗れる事は明白な事実です。

~中略~自己の信念の正しかった事、この事は或は祖国にとって恐るべき事であるかも知れませんが吾人(編集部注:われわれ)にとっては嬉しい限りです。現在の如何なる闘争もその根底を為すものは必ず思想なりと思ふ次第です。既に思想に依って、その闘争の結果を明白に見る事が出来ると信じます。

愛する祖国日本をして、嘗ての大英帝国の如き大帝国たらしめんとする(編集部注:日本をかつての大英帝国のような大帝国にしようという)私の野望は遂に空しくなりました。真に日本を愛する者をして立たしめたなら(編集部注:真に日本を愛する者に日本のリーダーをさせていたなら)、日本は現在の如き状態には或は追ひ込まれなかったと思ひます。世界何処に於ても肩で風を切って歩く日本人、これが私の夢見た理想でした。

上原氏は、自らの人生を通して学んできた「自由主義」が勝利することは明白であり、その結果日本が敗戦することもまた明白であると強く認識しつつ、つまり日本が敗北するとわかりつつ、自ら命を国に捧げたのである。そんな彼は、真に日本を愛する人々がこの国を動かしていたとしたら、当時のような状態(敗戦をまつような状態)にはならなかったはずであると記している。真に日本を愛するということは、国から制度として定められた規範に従って実現するようなことなのだろうか。

 所感はさらにこう続いている。

空の特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬと一友人が云った事は確かです。操縦桿を採る器械、人格もなく感情もなく、勿論理性もなく、只敵の航空母艦に向って吸ひつく磁石の中の鉄の一分子に過ぎぬのです。理性を以て考へたなら実に考へられぬ事で、強ひて考ふれば彼等が云ふ如く自殺者とでも云ひませうか。精神の国、日本に於てのみ見られる事だと思ひます。一器械である吾人は何も云ふ権利もありませんが、唯願はくば愛する日本を偉大ならしめられん事を、国民の方々にお願ひするのみです。

戦前の日本体制の中で、彼は敗戦とわかりつつ特攻隊のパイロットとして命を捧げる自分を、航空母艦に吸い付く磁石の鉄の一分子にすぎないとし、そんな自分に何かを言う権利などないと言いつつも、日本の未来に思いを馳せるのである。

上原さんの所感から学べること

ここにこの所感の一部を記したのはなにも、特攻隊としてお国のために亡くなった方のご遺志を無下にするのか?!と言いたいわけではない。いま一度、われわれが今どこに向かおうとしているのかということを考える必要がある、ということを彼の所感から学べると思うのだ。現代を生きるわれわれは磁石の鉄の一分子ではないはずだ。ものを考え、発言ができるはずだ。

 1958年、道徳が「教科」ではなく、「教科外の活動」として特設されたのは、当時の文部省は修身の復活を意図していたものの、道徳を教科とすることへの世論からの反対が大きかったからである。その後今日への流れを止められなかったのも事実ではあるが、世論は一つの力になりうる。「道徳の教科化」には、もちろんそれも大変重要なことなのだが、「小学生の教科に新しい教科が加わった」ということだけではとらえきれない危険が潜んでいる。いま、その意味を考える必要が全国民にあるのではないだろうか。磁石の鉄の一分子ではなく一人の人間として。

【東洋経済ONLINE 福島 創太さん】

古賀茂明さんが述べる【独裁と戦争へ向かうホップ、ステップ、ジャンプ】

1.ホ ッ プ: 報道の自由への抑圧

2.ステップ: 報道機関自身が体制迎合(大政翼賛会)と国民の洗脳

3.ジャンプ: 選挙による独裁政権の誕生

現在ステップの段階と述べられています。
しっかりとマスコミの嘘を見抜き政権の動向を注視する必要があります。



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