城陽人のフォトアルバム

季節の移ろい、日々の情景、目に映る景色、町並みの風情や、カメラに映った画をそのままに貼り付けてゆきたいと思っております。

西国三十三ヶ所遍路旅<第十二回・後編>

2016年08月01日 | 西国三十三ケ所遍路旅
四国八十八ケ所遍路旅は平成22年(2010年)に打ち終わっていますので、
今度は西国三十三ヶ所を遍路してみようと始めました。
実は「西国さん」は平成10年(1998年)に1度打ち終わっております。今回で2度目を打つことになります。
前回はマイカーで巡りましたが、今回は「お四国さん」を巡ったときと同じように、12回で満行するバスツアーに参加しました。
昔の人は歩いて回られたのでしょうが、現代では到底歩いて巡るのは至難の業です。ですから本当の意味の遍路旅にはなりませんが、取敢えず全行程を回って来ますので、このブログに記録してゆきたいと思っています。

では第12回を2014年12月11日に行ってきました。

今回もバスツアーで、第12回の札所・第三十二番「観音正寺」、第三十三番「華厳寺」の二ヶ寺を巡りました。

と云うところで、前回は観音正寺で人魚にお別れをしてやって来ましたのは

バスで走ること約2時間、こちらはもう岐阜県揖斐郡揖斐川町になります

山裾の広域農道脇には揖斐茶畑が美しく連なります

そして谷汲山参道へとやって来ました。駐車場から華厳寺まで八丁半(約900m)の道標があります

幸わい雨は小ぶりになりやがて上がりました。参道の一軒の民家に初冬の風物詩・熟した吊るし柿が干されていました

こちらの紅葉もまだ赤く色付き晩秋の趣を残していました。あと六丁半

と思っていたら5日ほど前に降った残雪がありました。冬と秋が同居しておりました

参道は訪れる人も少なく余計に寒さが身にしみる、西国三十三番満願霊場
「願い結ぶいのりの里」でした

参道の両側はずらりお店屋さん、仏具、観音様のお軸等が並んでいました

お土産屋さんに挟まれて常夜燈がすっくと立っていました

向こうの山門が見えてくるとお寺です。右手の行灯のようなものはなんと「消火栓」です

 

山門の一番手前のお店「うなぎ屋」さんですが、実は豊然上人と共に華厳寺を開基した大口大領の子孫が「冨岡屋」と号され、県知事命名の「満願そば」が名物のお店です

「第三十三番満願寺・谷汲山 華厳寺」山門(仁王門・楼門)

扁額「谷汲山」

 

久し振りに見ました2mもあるジャンボ草鞋

 

運慶作と伝わる「あ」形、「ん」形の仁王像

放生池と地蔵堂

観音様に見守られながら燈籠が108基並ぶ参道をまっすぐに向かいます

参道真ん中に「三十三度石」

今までにお百度石、お千度石、万度石は見てきましたが、これは始めて見かけます
西国三十三ヶ所巡礼満願が三十三度と云う意味でこちらに面白いサイトがありました
ご照覧あれ

「法輪院」
何やら画が書かれた額が上がっているのですが、謂れがあるようですが解かりませんでした

参道はまだ続くようです

「豊川分霊吒枳尼天(だぎにてん)」この寺を守護する神祇のようです

伝教大師や道元禅師のありがたい教えのようですが、私にはチョット理解できません

こちらには「百度石」がありました

清流が流れております

この石段を登りきるとようやく本堂のようです
「南無十一面観世音菩薩」の幟が迎えてくれます

3段になった最初の踊り場左には「一切経堂」
この中に六角形輪蔵の書架があり、その教典を回転させることにより功徳を得ると云います


そして2段目の右には「三十三所観音堂」
三十三ヶ所の観音様がお祀りされていてここを参拝するだけで三十三カ所を巡ったと同じ功徳がある云われます

左には  「左 観音菩薩  右 勢至菩薩像」
観音は慈悲を、勢至は智慧を現わすとされています

3段目の更に上に、この最後の石段を登ると「本堂」です
『寺の草創は桓武天皇(737―806)の延暦十七年(798)で開祖は豊然上人、本願は大口大領です。奥州会津の出身の大領はつねづねより十一面観世音の尊像を建立したいと強く願っており、奥州の文殊堂に参篭して一心に有縁の霊木が得られるようにと誓願を立て、七日間の苦行の末、満願(七日目)の明け方に十四,五の童子(文殊大士と呼ばれる)の御告げにより霊木を手に入れる事が出来ました。霊木を手に入れた大領は都に上り、やっとの思いで尊像を完成させました』

本堂縁の下に施された木端の彫刻

『そして京の都から観音像を奥州へ運んでいこうとすると、観音像は近くにあった藤蔓を切って御杖にして、御笠を被り、わらじを履いて自ら歩き出しました。途中、美濃国赤坂(現:岐阜県大垣市赤坂)にさしかかった時、観音像は立ち止まり』

『「遠く奥州の地には行かない。我、これより北五里の山中に結縁の地があり、其処にて衆生を済度せん」と述べられ、奥州とは異なる北に向かって歩き出しました。 そうしてしばらくした後、谷汲の地に辿り着いた時、観音像は歩みを止め、突然重くなって一歩も動かなくなったので、大領はこの地こそが結縁の地だろうと思い、この山中に柴の庵を結び、三衣一鉢、誠に持戒堅固な豊然上人という聖(ひじり)が住んでいたので、大領は上人と力を合わせて山谷を開き、堂宇を建てて尊像を安置し奉りました』

ご本尊は十一面観世音菩薩(秘仏で写真もありません)、脇侍に不動明王像と毘沙門天像が安置されています(非公開)

『すると堂近くの岩穴より油が滾々と湧き出し尽きることが無いので、それより後は燈明に困ることが無かったといいます』

『この話を聞こし召された醍醐天皇(885―930)は谷から湧き出る油を灯明に用いた事にちなんで「谷汲山」の山号、そして「華厳寺」の扁額を下賜せられました。この寺号は御尊像に華厳経が書写されている事にちなむとされています』

この左に書かれているとおり地下に「戒壇巡り」があります

『また西国巡礼中興の祖とされる花山法皇(968-1008)は西国三十三箇所の霊場を御徒歩で御巡幸あらせられ、当山を第三十三番札所の満願所と定められ、御禅衣(笈摺)、御杖、及び三首の御詠歌を奉納せられました』

その三首の御詠歌は本堂と、満願堂と、笈摺堂をそれぞれ詠まれたもので、過去、現在、未来を現わすとされています
(現在) 世を照らす 仏のしるし ありければ まだともしびも消えぬなりけり(本堂)

本堂西横の観音様

『文明十一年(1479)の再興までは二度の兵燹に遭い、一時期は衰退を迎えるも、人皇百五代・後土御門天皇(1442―1500)の御宇、文明十一年薩摩国鹿児島の慈眼寺住職道破拾穀(どうはじっこく)上人が或る夜夢に当山の観世音菩薩が現れ、「汝は有縁の僧なれば早く来て諸堂を旧観に復せよ」との御聖勅によって海山を越えて遥々尋ね来て、本堂及び諸堂を再興して尊像の御心を安め奉ったのです』(以上説明文は華厳寺HPより引用させて頂きました)

「谷汲山根源由来記」HPより引用した由来が書かれておりました

本堂から満願堂へは「子安観音堂」の前の渡り廊下を通ってゆきます

本尊は子安観音さまで、安産・子宝祈願、赤ちゃんの身体健康を願いお参りされます

さて最後、この三十三段上った石段の先に「満願堂」は建っています

西国三十三ヶ所の最終地はこの「満願堂」でした

 

お堂の周りには「満願」の文字の刻まれた燈籠や、何故か狸の石造が並んでいました
たぬき(他を抜く)と縁起担ぎなのでしょうね

(過去) 万世の 願いをここに 納めおく 水は苔より 出る谷汲(満願堂)

 

ご本尊は十一面観世音菩薩で、納め札は本堂ではなくこのお堂に納めます

そしていよいよ最後、巡礼に使った用品(笈摺、杖、笠など)をこの「笈摺堂」に納めて長かった巡礼の旅は満願となります

沢山の巡礼用品で一杯です

(未来) 今までは 親と頼みし 笈摺を 脱ぎて納むる 美濃の谷汲(笈摺堂)

花山法皇も笈摺、杖、及び三首の御詠歌を奉納されたのですね。また多数の千羽鶴が奉納されており、千羽鶴は折鶴(おりつる)が笈摺(おいづる)にちなむことから奉納されるようです

最後に本堂前の柱にあった物が気になり、戻る途中の本道裏に、丁度観音様の後に仏を守る眷族「四天王像」が祀られていました

その後ろ側には、花山法皇の御詠歌に由来する「苔ノ水地蔵尊」がありました
自分の病や痛いところがあれば、願いを込めて、お札をお地蔵様の同じ箇所に貼り付ければ平癒するそうです。因みに私も腰に貼りお願いしました

戻る途中にあった「持経観音」様です
持経とは、仏の教えを聞いて修行することを象徴していると云われ、勉学・学業の知恵を授かる願い事や合格祈願等にご利益があると云われているそうです

 

こちらが本堂の柱にあるものが、打ちつけられております「精進落としの鯉」と呼ばれるものです
満願した記念に手で触れると精進落としができるとされております。先に本堂をお参りしましたが、手を触れるのは最後の最後になります。私も触れましょう

それでは帰途に着きます前に境内を巡って戻りましょう

本堂横には美しい袴姿の「鐘楼堂」

本堂横背後は階段の上に「不動堂」

天台宗元三大師(慈恵大師良源)堂

右は「内仏客殿」、左は庫裏

ゆったりと、しっとりと驟雨に煙る境内でした

「明王院」内にある「水琴窟」で、「水琴弁財天」がお立ちでした
キンキンと音を奏でる水音を聞かせてもらってきました

 

また天井は奉納画で一杯でした

晩秋と言っていいのか、初冬と云っていいのか紅葉がまだ残っておりました
まだまだ朱に染まっていますよ

そして山門を抜ければお別れです
そして西国三十三ヶ所巡礼札所巡りもお仕舞いです

1年間お付き合い戴きお疲れ様でした
有難う御座いました

今回、第12回で満願となります。僅か1年間であっという間でした
無事終えられ今回はここまでとします
でもまだ「善光寺」さんお礼参りが残っています
あと1回お付き合い下さい


西国三十三ヶ所遍路旅<第十三回・お礼参り・後編>

2016年08月01日 | 西国三十三ケ所遍路旅
前回12回の引き続き、今回は善光寺さんのお礼参りになります

今回でいよいよ最終回となりました。
満願致しましたので、信州信濃の「善光寺」さんへお礼参りに行って来ました
無事に巡礼でき、めでたく今日の日を迎えられましたことに感謝してお参りにお付き合い下さい
 
第13回、前編に続き後編になります
 
 

ホテルに宿泊の朝、気が付けば、流石善光寺お膝元、ホテルの南側はお寺です。曹洞宗黄梅山「栽松院

「嶋の天神」と「栗田街道(しまんりょ小路)
名主、造り酒屋の菊屋が建てた如意輪観音堂、尾上出世不動尊を祀る栽松院は、南北を川に挟まれた中洲で、島の寮(しまんりょ)と呼ばれ、南の道・しまんりょ小路は、くしくもこれから向かう善光寺への、栗田街道だったのです

こちらは善光寺さんの境内案内図です。ご参考に・・

この南の中央通りから北へやってきた所です

振り返るとそこはもう善光寺の入り口参道で、常夜燈が迎えてくれます

左手は法然上人を宗祖とする浄土宗の「大本願」です
『一光三尊像を招来した際に、大臣蘇我馬子の姫君を天皇御杖代として遣わされて守護にあたらせたのが大本願の起こりで、この方が開基尊光上人であります。尼公上人をもって住職とし、代々皇室関係の方々が入山されています。今日では大本願の上人様のみが法灯を継承されております。大勧進の貫主(かんす)と共に善光寺住職を兼ねており、毎朝善光寺本堂で行われるお朝事(お勤め)に出仕されます。』(善光寺大本願HPより引用させて頂きました)

その先に「仁王門
『宝暦二年(1752年)に建立されましたが、善光寺大地震などにより二度焼失し、現在のものは大正七年(1918年)に再建されました。この門には善光寺の山号である「定額山」の額が掲げられています』

  

「仁王」様

『仁王像並びに仁王像背後の三宝荒神・三面大黒天は共に高村光雲・米原雲海の作であり、その原型は善光寺史料館に展示されています』

 

門の裏側には「三面大黒天」   「三宝荒神」もお寺を守っています

仁王門を潜ると仲見世がずらりと並びます。仏具やさん、お菓子屋さん、お土産屋さんなどお店が両側に沢山、山門近くの境内入り口まで続きます

信州名物蕎麦、おやき、お漬物など様々なお店屋さんに混じって、途中左手に「如来堂旧地」という石碑があり、「延命地蔵菩薩」もお祀りされています

仲見世が切れると境内になりその入り口に「駒返り橋」の札があります
「石橋は、建久八年(1197年)源頼朝が善光寺を参詣した時に、馬の蹄が穴に挟まってしまった為に駒を返したという話から「駒返り橋」と呼ばれています』

『その馬蹄の凹みは現在も「駒返り橋」の左側に見ることができます』

境内右手には「六地蔵」さま
『宝暦九年(1759年)に浅草天王町祐昌が願主となって造立されましたが、昭和十九年に金物供出に出されてしまいました。現在の六地蔵は昭和二十九年に再興されたものです』

『六地蔵とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の6つの世界で我々衆生を救ってくださる菩薩様です』

続いて「ぬれ仏」(延命地蔵)が現れます
『享保七年(1722年)に善光寺聖・法誉円信が全国から喜捨を集めて造立した延命地蔵尊です
江戸の大火を出したといわれる八百屋お七の霊を慰めたものという伝承が伝えられているため、俗に「八百屋お七のぬれ仏」とも呼ばれています』

そして左手には伝教大師・最澄を宗祖とする天台宗「大勧進
『大勧進の住職は貫主(かんす)と呼ばれ、大本願の上人(しょうにん)と共に善光寺住職を兼ねています。
貫主は代々比叡山延暦寺より推挙される慣習になっており、毎朝善光寺本堂で行われるお朝事(お勤め)に出仕されます。』
『勧進とは人々に仏法を説き作善をなすように勧誘策進することであり、この名を寺名にした大勧進は、開山、本田善光公以来、代々善光寺如来さまにお奉えし、民衆の教化と寺院の維持管理にあたってまいりました 
 弘仁8年伝教大師が信濃路巡化のみぎり、善光寺に参籠され、爾来、天台の宗風により今日に至っております 
 大勧進は天台宗大本山で善光寺25ヶ院の本坊として、住職は善光寺の住職も兼ねております。』(本坊大勧進HPより

大きな「山門(三門)」です
『寛延三年(1750年)に建立された二層入母屋造りの門です。屋根は大正年間の葺き替え時に檜皮葺きとなりましたが、平成十四年から十九年にかけて行われた平成大修理において、建立当時と同じサワラの板を用いた栩葺き(とちぶき)に復原されました』



『楼上には輪王寺宮筆の「善光寺」と書かれた額が掲げられています。これは通称「鳩字の額」と呼ばれており、3文字の中に鳩が5羽隠されています。更に「善」の一字が牛の顔に見えると言われ、「牛に引かれて善光寺参り」の信仰を如実に物語っています』
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『山門は従来の檜皮葺屋根から建立当初の栩葺屋根に復原され、国内に現存する最大の栩葺建造物として甦りました』

見事な獅子の彫り物が施された物とこれまた美しい蟇股

山門を潜りやっとたどり着きました「善光寺本堂」です
どの宗派にも属さないお寺で、浄土宗「大本願」と、天台宗「大勧進」により護持されています

『「善光寺縁起」によれば、御本尊の一光三尊阿弥陀如来様は、インドから朝鮮半島百済国へとお渡りになり、欽明天皇十三年(552年)、仏教伝来の折りに百済から日本へ伝えられた日本最古の仏像といわれております。この仏像は、仏教の受容を巡っての崇仏・廃仏論争の最中、廃仏派の物部氏によって難波の堀江へと打ち捨てられました。後に、信濃国司の従者として都に上った本田善光が信濃の国へとお連れし、はじめは今の長野県飯田市でお祀りされ、後に皇極天皇元年(642年)現在の地に遷座いたしました。皇極天皇三年(644年)には勅願により伽藍が造営され、本田善光の名を取って「善光寺」と名付けられました。創建以来十数回の火災に遭いましたが、その度ごとに、民衆の如来様をお慕いする心によって復興され、護持されてまいりました』

『7世紀後半頃にはかなりの規模を持つ寺院がこの地に建立されていたことがわかってきました。平安後期・12世紀後半に編集された『伊呂波字類抄』は、8世紀中頃に善光寺の御本尊が日本最古の霊仏として中央にも知られていたことを示す記事を伝えています。また、11世紀前半は、京の貴族を中心に浄土信仰が盛んになった時期でもありました。こうした浄土教の隆盛とともに、善光寺聖と呼ばれる民間僧が本尊のご分身仏を背負い、縁起を唱導して、全国各地を遍歴しながら民衆の間に善光寺信仰を広めました。また、信仰の拡大に伴い、ご分身仏が作られるようになりました』

『戦乱の時代に巻き込まれ、荒廃を余儀なくされましたが、江戸幕府開府に伴い、徳川家康より寺領千石の寄進を受け、次第に復興を遂げて参りました。泰平の世が続き、一生に一度は善光寺詣りをと、多くの人々が参詣されました。念仏を唱えて一心に祈る者を皆極楽浄土に導いて下さると、一貫して男女平等の救済を説く寺院として知られていました。そのため、女性の参拝者が多いことが善光寺詣りの特徴でした』

『現在の前立御本尊はこの鎌倉時代の作です。(中略)(戦国時代をへて)最後は豊臣秀吉が京都・方広寺の御本尊としてお奉りいたしました。そして、秀吉の死の直前、如来様がその枕元に立たれ、信濃の地に戻りたい旨をお告げになり、それによって慶長三年(1598年)、四十数年ぶりに善光寺にお帰りになられました』



『現在の本堂は宝永四年(1707年)の再建で、江戸時代中期を代表する仏教建築として国宝に指定されています。間口約24メートル、奥行き約54メートル、高さ約26メートルという国内有数の木造建築で、T字型の棟の形が鐘を叩く撞木(しゅもく)に似ていることから「撞木造り」と呼ばれています。屋根は総檜皮(ひわだ)葺きです』

『善光寺の御本尊様は、一光三尊阿弥陀如来像です。中央に阿弥陀如来、向かって右側に観音菩薩、左側に勢至菩薩が一つの光背の中にお立ちになっています。しかし、御本尊様は絶対秘仏で、今日そのお姿を拝むことはできません

『善光寺縁起』によれば、善光寺如来様は、遠くお釈迦様在世の時にインドで出現なさったといわれております。その後、百済にお渡りになり、欽明天皇十三年(552年)、日本に仏教が伝来した時に、百済より贈られたと語られています』

 

ご開帳のときに立てられる「回向柱
ご本尊様のご開帳は絶対秘仏のため拝見は出来ませんが、数え年で7年に一度、前立本尊御開帳が行われ、この回向柱と前立御本尊の右の御手に結ばれた金糸が善の綱となって結ばれることは出来、柱に触れる人々に、み仏のお慈悲を伝えてくれます
御本尊と糸で結ばれるといえば本道の地下に「お階段巡りと」云うものがあり、『お戒壇巡りとは、瑠璃壇床下の真っ暗な回廊を巡り、中程に懸かる「極楽の錠前」に触れることで、錠前の真上におられる秘仏の御本尊様と結縁を果たし、往生の際にお迎えに来ていただけるという約束をいただく道場です』

幸いにも今年がご開帳の年、(丑年・未年の未年になり)その数え年で7年に一度の年に当っております
4月5日から5月31まで57日間盛大にご開帳法要が催されますので皆様方においても、ご先祖の供養に是非ご参拝されましたら如何かと思います

回向柱の向こうに何か見えています。

 

爪彫如来像

『親鸞聖人が当山へ滞在(100日間)された折に残された爪彫りの阿弥陀如来と伝えられており、古来より眼の病を救ってくださると人々に信仰されています』

親鸞さんに まつわるものは他に『びんずる尊者像の脇に、一本の松が生けられています。これを親鸞聖人お花松とよんでいます。
鎌倉時代、親鸞聖人は、配流先の越後から関東へ向かう途中、善光寺に参拝され、百日間逗流され、その折り善光寺本尊に松の木を奉納されました。松は常緑樹ですので、一年中ご本尊をお祀りしたいとの思いが込められたのでしょう。お花松は聖人が奉納されたこの松に由来しているといわれています』

「爪彫如来像」の東のほうに建つ「経堂」です
『宝暦九年(1759年)に建立された宝形造りのお堂です。内部中央には八角の輪蔵があり、その中には仏教経典を網羅した『一切経』が収められています』

『輪蔵に付属している腕木を押し回すことでこの『一切経』を全て読んだことと同じ功徳が得られるといわれています。また、経蔵内には輪蔵を考案した傅大士、並びに伝教・慈覚の両大師像が祀られています。』残念ながら現在修理中でその様子は拝見できません

経堂の西斜め向かいにの「聖徳太子碑
仏教伝来の祖として信仰を集めると共に、大工・左官などの職人の守護神としても篤く祀られてきました。善光寺は聖徳太子とのご縁は深く、善光寺縁起には善光寺如来と太子が文を交わした話が説かれています(案内板より)

赤門
「大勧進」の一部大勧進には本堂の万善堂の他、無量寿殿・不動堂・地蔵八角円堂・紫雲閣・宝物殿・僧侶が修行をする聖天堂などがあります。

厄除け不動尊
立派な現代建築でした。御真言「ノーマクサーマンダーバーサラナンセンダンマーカロシャーナソワタヤオンタラタカンマン」と長いですね

こちらは「地蔵八角円堂」八角堂はあまり見かけないですね

大勧進内より眺めた眺望

同じく「山門」・雪景色が何んとも趣がありますね

こちらは境内の「鐘楼と梵鐘
『嘉永六年(1853年)に再建された檜皮葺の建物で、南無阿弥陀仏の六字にちなんで6本の柱で建てられています。
梵鐘は寛文七年(1667年)鋳造の名鐘であり、重要美術品に指定されています。毎日午前10時から午後4時の毎正時に時を知らせる鐘として、更に長野オリンピックの開会を告げた鐘として親しまれています』

境内でもっとも北に建つ「日本忠霊殿・善光寺史料館
『戊辰戦争から第二次世界大戦に至るまでに亡くなられた240万余柱の英霊を祀る、我が国唯一の仏式による霊廟です。御本尊は秘仏の善光寺如来様の分身仏です。(高村光雲門下 関野聖雲作)』

『1階には善光寺所蔵の什物を展示する「善光寺史料館」が併設され、絵馬などを通して全国に根付く善光寺信仰の歴史を垣間見ることができます』

バスツアーではこちらで講話をお聞きし先祖回向などの供養の申込をして、本堂で一人一人の供養者の名前を読み上げて頂き、回向のお経を上げて頂きました

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チョット変わったところで善光寺と謡曲のつながりを語る「供養搭」がありました

「土車」のお話が紹介されていました

善光寺さん参拝は巡礼のお礼と先祖供養のお参りでした
ツアーでよかったのは日本忠霊殿での仏教伝来から一光三尊阿弥陀如来がお祀りされるようになった由来や、三十三カ所を巡礼するのではなく「順拝」する意味などの講話を聞かせて頂いたことが有難かったですね
尚、説明文『』については善光寺さんのHPより引用させて頂きました

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明治までは満願お礼参りの参拝者は善光寺本堂で宿泊されておりましたが、今では沢山の坊が出来ており、宿坊に泊まるようになりました。ツアーでは宿坊泊もあり、こちらの「常智院」で半数の方が泊まられ、「朝事(あさじ)」といって朝の読経に参拝でき、お数珠頂戴も受けられます



宿坊の二軒隣は「釈迦堂」でした



重要文化財の天延年間に漁師が引き上げた「釈迦涅槃像」と市文化財の「毘沙門天像」がお祀りされていました

と云うところで、

善光寺さんのお礼参りもここまでです。そして西国三十三ヶ所巡礼満願お礼参りも純白の雪景色を眺めながら清清しい気分で無事終わりました

今回のお礼参り、三十三ヶ所順拝は先祖を供養し、又、これからの自分を見つめ直し生きて行く上に大切なものを学んだ気がします。文章には書き表せませんでしたが、何か心に残るものがありました
「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」と弥陀の称号を唱えてお終いとしましょう

1年間お付き合い戴きお疲れ様でした
有難う御座いました
また機会がありましたら巡礼の旅をUPできれば良いかと思っています


西国三十三ヶ所遍路旅<第十三回・お礼参り・前編>

2016年08月01日 | 西国三十三ケ所遍路旅
前回12回の引き続き、今回は善光寺さんのお礼参りになります

今回でいよいよ最終回となりました。
満願致しましたので、信州信濃の「善光寺」さんへお礼参りに行って来ました
無事に巡礼でき、めでたく今日の日を迎えられましたことに感謝してお参りにお付き合い下さい
 
 
京都を出たときには小雨が降っていましたが、中央高速道路・恵那山トンネルを抜けたとたん、”そこは雪国だった”の通り、昼食に立ち寄ったレストランでは雪が降り視界も悪い状態でした
 
 
ここはもう信州・信濃・日本アルプス・木曽山脈と赤石山脈に挟まれた駒ヶ根市でした。野沢菜などが有名なお漬物の産地で、お食事テーブルの横のお漬物バーにずらり並んだ「おつけもの」でした
 
 
先ず最初に目指した所は、そこからまだ2時間も掛けてやってきました上田市・別所温泉でした
さっきはまだ轍の跡が黒く分かる程度でしたが、ここはもう一面の銀世界でした
 
 
白く降り積もった坂道を500mほど西へ歩きます
 
 
七苦離地蔵尊」と「観音菩薩」の2つのお堂がありました
別所温泉は七九里の湯とも呼ばれ、七苦離は七つの苦しみから解き放たれると云う意味のようで、常楽寺の地蔵尊がここに移されたようです
ここは別所温泉、足湯も入れて4つの外湯があるようです

 
 
 私は城陽と云う暖かい地方だったので、こんな雪かきの光景が珍しくて、いいですね
 
 
北向観音の参道のようです。階段を下りて川を渡ります
 
 
参道と云うより温泉街のお土産屋さん通りですね
 
 
 
やって来ましたのは常楽寺・北向観音堂です
こちらへのお参りは『善光寺様は南向きに阿弥陀様を御本尊としてお祀りされているのにたいして、北向きにお祀りされているため、たまたま向き合ってる両方をお詣りしたほうが良い』と言われるからだそうです
右手は「手水舎」ですが全国的にも珍しい温泉の暖かい温泉水が出ています
 

北向観音堂は、平安時代初期の天長2年(825年)、比叡山延暦寺座主の慈覚大師円仁により開創された霊場です

安和2年(969年)、平維茂は一山を修理し、三楽寺、四院、六十坊を増築したと伝えられています。
寿永元年(1182年)には源平争乱の中、木曾義仲の手により八角三重塔と石造多宝塔を残して全て焼失してしまいますが、源頼朝の命のもと伽藍復興がおこなわれ、建長4年(1252年)、塩田陸奥守北条国時により再興されました』
『本堂が北に向いているのは、わが国でもほとんど例がりません。
北向観音様は北向に建立され 千手観音様を御本尊として現世利益を願い、また善光寺様は南向きに建立され阿弥陀様を御本尊として未来往生を願います』

愛染堂

『本尊は愛染明王で恐ろしい形相をしており、種々な誘惑や困難を打ち砕いてくれるという「恐れる仏」即ち「愛の仏」です
明治15年、上田常盤城村の色川徳兵衛が新築して献納しました』

愛染桂
『樹齢1200年の老木で天長の昔、常楽寺の火坑出現の観世音菩薩が影向(ようごう=神仏が一時姿を現すこと)した霊木といわれています』

『境内の東隅にある愛染明王堂とこの桂の木に因んで故川口松太郎氏(1899 - 1985、第一回直木賞受賞)が「愛染かつら」を書かれたことはあまりに有名です
若い人たちからは「縁結びの霊木」として親しまれております。
昭和14年6月5日、長野県の天然記念物に指定されました』

鐘楼

『鐘楼の建立年代は不明ですが梵鐘は寛政五年に上田の鋳物師、小島久兵衛弘文とその子、国一の合作でした
またこの梵鐘には消失してしまった長楽寺の銘があったようです』


『しかし第二次世界大戦で金属の供出という運命にあい行方不明となってしまいました
現在の鐘は昭和二十四年に長野市で開かれた平和博覧会に出陳された香取正彦の作によるものですが、当時善光寺大勧進の副住職であった常楽寺半田孝海大僧正が求めてこの鐘楼に納めました』

『また今の鐘楼は、昭和四十六年にこの地方の寺社建築に数多くの実績のある別所の大工、西島敏雄棟梁が再建寄進したものです』

ずらり並んだ六地蔵様



不動堂(護摩堂)
『昭和五十八年に本堂の傍らの護摩堂が再建されまし。』



温泉薬師瑠璃殿
『この温泉薬師は伝説には行基菩薩の創建、慈覚大師の再建といわれますが、以前の薬師堂の位置は今の「大師湯」の西隣りであったようです。寛保二年(1741)湯川の氾濫によって薬師堂は流され、寛保四年から湯本講中で再建を計画したようです。そして今の建物は文化六年(1809)に湯本講中の積立金により再建されました』

北原白秋歌碑

『1923年(大正12年)に家族と別所へ遊びに来た北原白秋はわずか数日で百六十二首の俳句を詠んだようです』(*北向観音堂の説明は常楽寺HPより引用させて頂きました)

色い雪に映える赤い木の実が目を引きました

帰りの石段より参道を見ると雪国の温泉街の情緒を色濃く感じました

行きには気付かなかった橋と側の碑が見えます


 

慈覚大師(円仁)之湯」とあり、飲めるようで、糖尿病、痛風、便秘に効果がある単純硫黄温泉と書かれています



別所の市神
市の安全と市を守る市神がこの柱の右の平たい台に祀られていましたが、今は祇園祭の際に、別所神社より牛頭天王を乗せたご神体を載せる発着の台になっているようです

 
こちらは参道北にある「安楽寺」、この反対側東側を行くと常楽寺です

『常楽寺は北向観音堂が建立された天長2年(825年)、三楽寺(長楽寺、安楽寺、常楽寺)の一つとして建立されました。 北向観音の本坊であり、ご本尊は『妙観察智弥陀如来』で全国的にも珍しい阿弥陀様です』

お店は写っていませんが、旅行社お勧めのお茶所で一服できます

駐車場に戻ってきました。とそこにラッピングされた千曲バス、そうですここは上田市、信州真田三代の居城上田城のお膝元です

江戸時代あり、温泉あり、信仰の寺ありとなにやら賑やかでした

そしてお宿は長野市内、朝のホテルからの山国信州の雄大な眺めです

上信越の2000m級の山々、何故こんな所に善光寺があるのでしょうか?

 

===本当は次の日に善光寺さんにお参りしたのですがブログUPの都合上先に、善光寺さんの後にお参りしました「元善光寺」さんを先に紹介します===

 

翌朝はうそのように晴れ上がった天気でしたので、新たな気分で雪景色を楽しみながらお参りに行きました 

その途中・・

***閑話休題***

長野市内の千曲川沿いのお土産センターにやって来ました
駐車場の隅っこに何やら案内板を見つけました

胴合橋
小さな清流の小川が流れていて、小さな石の橋が架かってます

山本勘助翁鎮魂碑建立の由来」
「山勘は勘に頼って万一の成功をねらったり、計略にかけて相手を欺くこと。または、武田信玄に仕えた軍略家山本勘助の名から出た熟語。
その山本勘助は武田信玄に「キツツキ戦法」を進言したが、上杉謙信に見破られ、上杉軍に討って入り戦死、家来が首を奪い返し泥真木明神付近のこの川で血を洗っていたとき、鎧をつけた胴が流れ着き、首と繫ぎ合わせた場所だといわれている橋だったのです

さて、そこから走ること2時間、左手に日本アルプス・赤石山脈を見て、やってきた所は飯田市坐光寺、地名の由来にもなっている、「元善光寺」さんにやって来ました

定額山は善光寺と同じ山号です

こちらが元々の「元善光寺」さんです。
『推古天皇十年に信州麻績の里(おみのさと)(現在の飯田市座光寺)の住人、本多善光卿が難波の堀から一光三尊の御本尊様をお迎えしたのが元善光寺の起源です』

『その後皇極天皇元年にその後本尊様は現在の長野市へと遷座され、出来たお寺が善光卿の名をとって「善光寺」と名付けられました
それから飯田の方の当山は勅命によって、木彫りで同じ御尊像が残され「元善光寺」と呼ばれるようになりました』

『本尊様のお言葉「毎月半ば十五日間は必ずこの麻績の里に帰り来て衆生を化益せん」という御請願を残されたとのことで、長野の善光寺と飯田の元善光寺と両方にお参りしなければ片詣りと昔から云われる由縁です』
「一度詣れよ元善光寺 善光寺だけでは片詣り」

『堀江でめぐり会った仏様を連れて帰り、どんな所へお祀りすればよいのか考えましたが、臼より清らかなものはないだろうと、西の部屋の床の間に臼を置いて、その上に仏様を祀って四十一年の間親子三人で朝夕礼拝供養を致しておりました
如来様のご利益は広く世間にも知られるようになり、善光公は、村中の人たちと相談して粗末ながら小さなお堂を建て、如来様をお移しした』

『そして朝になってお堂へ行って見ると如来様の姿が消えていて、驚いて探すと、元の臼の上に戻っておられた。又、お堂を清めてそこにお移しすると、又帰ってしまわれると云うことが三度続いた。そして如来様が善光におっしゃった事は、たとえ金銀財宝で飾ったり立派なお堂に安置されても私の名を唱える者がいないところには住めない。私はいつも西にいる。善光公はそれを聞いて感激し、仏様を西の間の臼の上に安置して四十一年の長い間供養した』

『皇極天皇の頃、芋井の里(現在の長野市)に移せとの如来様のお告げを受けた善光公は、自身で仏様を移し、勅命によって立派なお堂を建てて、自分の名をもって善光寺と名付けた。そして挫光寺に残された臼から、光明が差して光り輝いていたのでこれを仏様の台座が光ったのだから即ち「座光の臼」と呼ばれ、元善光寺の宝物殿に今も残っております』

本多善光誕生霊地」の扁額
「多と田」どちらが正しいのでしょうか?
『ちなみに地名の座光寺と云うのは、この「座光の臼」から出たと云う説もあります。小学校のの国語の教科書に「光る臼」という題で、このお話が載せられていた事もあります』
本堂地下には、こちらにも戒壇巡りができます

「平和の鐘」
昭和25年4月平和を祈念するため再鋳奉献されました。鐘の命名は「久迩元宮」殿下で、重量は350貫。除夜の鐘は無料で誰でもつけます

飯田城主脇坂安政が兄の菩提を弔うために350年前に植樹されてと云う見事な紅枝垂れ桜ですが今は時期外れ、残念!

珍しい「矢場」です
奉納の「金的中額」です

「無財の七施」

住職の教えを書かれています

「つもり違い十か条」

こちらも前住職の教えです

木彫涅槃像、鬼瓦の前身と言われる木彫りの鬼面、藤原時代の愛染明王像、雪舟の描いた寒山拾得図等も宝物殿に展示されております。是非ご一覧を・・
こちらも善光寺と同じく、七年に1度のご開帳が同じ期間行われます

尚、説明文『』については元善光寺さんのHPより引用させて頂きました



そして山門を抜ければお別れです

「身はここ(茲)に 心は信濃の善光寺 導き給え 弥陀の浄土へ」の御詠歌を胸に、お礼参りとしましょう

 

善光寺さんへのお礼参りは

この後の後半に譲ります

 


西国三十三ヶ所遍路旅<第十二回・前編>

2016年08月01日 | 西国三十三ケ所遍路旅
四国八十八ケ所遍路旅は平成22年(2010年)に打ち終わっていますので、
今度は西国三十三ヶ所を遍路してみようと始めました。
実は「西国さん」は平成10年(1998年)に1度打ち終わっております。今回で2度目を打つことになります。
前回はマイカーで巡りましたが、今回は「お四国さん」を巡ったときと同じように、12回で満行するバスツアーに参加しました。
昔の人は歩いて回られたのでしょうが、現代では到底歩いて巡るのは至難の業です。ですから本当の意味の遍路旅にはなりませんが、取敢えず全行程を回って来ますので、このブログに記録してゆきたいと思っています。

では第12回を2014年12月11日に行ってきました。
え!11回が抜けているって・・
いいえ、順序が前後しただけで5回目に行っております
今回もバスツアーで、第12回の札所・第三十二番「観音正寺」、第三十三番「華厳寺」の二ヶ寺を巡りました。

今回で目出度く満願になります。なにやかやともたもたしていましたが、1年間はあっという間でした。先ず無事に巡礼できたことに感謝しましょう


ここ近江八幡の433mの繖山(きぬがさやま)の山頂近くに「観音正寺」はあります
麓からの参道は三十三ヶ所中の難所として知られています
 
 
私たちはバスで登りますが、この石寺交叉点を北に真直ぐ行くと日吉神社の鳥居を潜り自然石のきつい登りの石段(約1200段)道が表参道(本堂まで45分)となっいます
 
 
東の有料林道から登った駐車場の境内案内板です。参考にご覧下さい

 
駐車場からの裏参道で少し登りで10分ほどでお寺に着きます

 
「三十三 昨日より今日 今日より明日」・こんな標語が山門まで三十三ヶ所札所に因んで33本続きます
 
 
赤い涎掛けをした石仏の見守る参道が続きます
 
 
一体のもあれば数体並んでいたりします
 
 
「子安観音」「十七 行き詰まりは環境のせいではない 自分の心の行き詰まりである」

 
目加田屋敷跡」こんな所に屋敷があったんですね
この立て札の下に曲輪があったようです
 
 
佐々木城(観音寺城)跡
この観音寺山(繖山)に中世の頃立てられた、近江守護佐々木六角氏の居城跡だから屋敷跡もあったのですねです
 
 
道標ですが判読できません。本丸跡があるようです
 
 
お城の遺構はここ石垣にもありました「権現見付跡
・虎口になっていたようです
 
 
ねずみ岩
どうやら形が似ているらしのですが、私には見えませんでした
 
 
こちらも先の石仏と同じ赤い涎掛けをしたお地蔵様
 
 
六字名号碑、地蔵菩薩、供養搭、墓石?と様々です


鐘楼が見えました。観音正寺に着いたようです。生憎の雨、山の中なのか霞んでもやっています
 
 
うえの鐘楼横にある東司の格子窓の中にトイレの神様「烏瑟沙摩明王」がお祀りされておりました
 
 
山門から抜け出たような仁王様がお出迎え
実は抜け出たのではなく、平成5年の山火事でお寺は焼失、山門を失ったためです
 
 
「ありがとう、感謝する心」・ご一読を・・
 
 
「水挽臼」が手水に利用されていました
 
 
こちらの観音正寺は「聖徳太子」ゆかりの近江十二カ寺の一寺だそうです

 
「書院」
驟雨に霞んだいい佇まいですね
 
 
唐破風屋根と白壁が趣きあります
 
 
一見燈籠風の「北向地蔵尊」です
 

樽に茅葺屋根、風流と云うのですかね
 

「大日如来」と「子授け地蔵」
 

一名濡れ仏「釈迦如来坐像」・法界定印のお姿
 

またまた出てきました、観音寺城表門への道のようです
 

道標がままたまた判読できません
ここは表参道の上りきったところのようです
 

この杉は「白龍大明神」のご神木でお姿は白蛇です。21日、37日と日を限って祈念すれば成就すると云われます。後ろ側にはお地蔵様がおられます
 

観音堂」・びわ湖百八霊場70番札所でもあるようです
 

護摩堂
『このお堂は繖山修験道の根本道場で、如来や不動尊が祀られている。当山の完?成?十五年に亘り、江戸末期から途絶えていた繖山回峰行の行法を整理復元した。その後、平成十三年繖山を毎日百日間回峰し回峰行を?満行した?当山の修験道を復興した。現在??三月の山開や11月の山閉めと年二回雪山の修験者はこの霊場に参集し回峰行を行っている。回峰行は歩くことが目的ではなく二百数十箇所に及ぶ祈願所を回る巡礼の行である。このお堂には修験道の開祖役行者も祀られており毎月二十八日には菩?薩?法要厳修されます』(案内板より)
中世には修験道場だったようです
 

境内一番奥(西)こちらが「第三十二番繖山観音正寺」本堂です
1400年前に聖徳太子により開創されました。

寺伝には人魚にまつわる伝説が残ります
『推古天皇の御代、近江国を遍歴していた聖徳太子は湖水から浮かび出てきた人魚と出会います。人魚は「私は前世漁師であり、殺生を業としていたため、このような姿になりました。繖山にお寺を建て、どうか私を成仏させてください」と懇願しました』


『太子はその願いを聞き入れみずから千手観音の像を刻み、堂塔を建立したとされます』

太子近江国創建の十二箇寺の一つです
 
 
 
平成16年に開眼された、インド政府の特別許可によって輸入された白檀で造られた寄木造丈六千手観音坐像

ぎっしりと並ぶ千の手が光背を形作っております(お姿はポスターより)

『鎌倉・室町時代には、近江国守護職佐々木六角氏らの庇護を受け、おおいに隆盛し、三十三の塔頭を擁したといわれています』「ところが応仁・文明の乱以降、寺は兵乱に罹ったり、守備上の障害として移設されるなど、一転して苦難の路を辿ります』

抱きつき柱
台風で倒れたヒノキの木を調べてみたら、節がちょうど33ヶ所あるということで、本堂再建の際に使用されたのだそうです。これに抱きついて祈れば、33ヶ所分の功徳があるのだとか

『そして永禄11年(1568)織田信長により六角氏が滅ぼされたのちは、慶長11年(1606)に教林坊の僧、宗徳法橋の尽力で現在地に復興されるまで長らく荒廃することとなります』

本堂裏に立つ「紫雲殿」・永代供養納骨堂

『明治期、彦根城の欅御殿を拝領して本堂としましたが、平成5年(1993)その本堂を焼失するという憂き目を見ることとなりました。平成16年ようやく新しい本堂が落慶しました。』(観音正寺の説明は何れも観音正寺HPより)

中国天台山国清寺・「不滅の法灯」国土安穏法灯を分灯され守り続けていらっしゃいます

本堂東脇には大きな石を積み上げた山があります

「縁結びの地蔵尊」

私達は、お地蔵様や仏様たちにお願いをしますが、ともすれば忘れがちになるのを、縁結びの紐を身につけることにより、祈願をしている事を忘れず、願っていることに気付くのが、縁結びの紐だそうです

その縁結びの紐を受け、祈願するお地蔵様です

石の上には幾体かの観音様がお立ちです

「聖観音」でしょうか

蓮の花弁にお立ちです

おや!これはもしかして「人魚」ではないですか
聖徳太子観音正寺起こり縁起に登場するあの人魚ですね


それでは人魚にお別れをしていよいよ西国三十三ヶ所巡礼の満願の聖地、三十三番札所に向かいましょう



西国三十三ヶ所遍路旅<第十回>

2016年08月01日 | 西国三十三ケ所遍路旅
四国八十八ケ所遍路旅は平成22年(2010年)に打ち終わっていますので、今度は西国三十三ヶ所を遍路してみようと始めました。
実は「西国さん」は平成10年(1998年)に1度打ち終わっております。今回で2度目を打つことになります。
前回はマイカーで巡りましたが、今回は「お四国さん」を巡ったときと同じように、12回で満行するバスツアーに参加しました。
昔の人は歩いて回られたのでしょうが、現代では到底歩いて巡るのは至難の業です。ですから本当の意味の遍路旅にはなりませんが、取敢えず全行程を回って来ますので、このブログに記録してゆきたいと思っています。

では第10回を2014年11月6日に行ってきました。

今回もバスツアーで、第10回の札所・第二十八番「成相寺」、第二十九番「松尾寺」の二ヶ寺を巡りました。 

 
今日の打ち始めは「第二十八番成相山成相寺」です
天橋立を見下ろす成相山の中腹に建つ真言宗のお寺です
本当は山門からこの石段まで参道を少し登るのですが、バスですので駐車場からは山門は潜れませんでした


参道を登ってきた右側に袴腰の「鐘楼」が建っています
 
 

こちらは「撞かずの鐘」と呼ばれ、その由来は『鐘の寄進を断った富裕の母親が、胴湯のるつぼに誤って乳飲み子を落としてまいます。出来上がった鐘を撞くと子供の叫ぶ声が聞こえ、哀れさに子供の成仏を願って、今も一切鐘を撞く事をやめ「撞かずの鐘」』と呼ばれるようになったそうです


袴腰の立派な鐘楼です


参道左側には「一言地蔵」がいらっしゃいます
一言だけ願いを叶えてくださると云われます。

第九番の「南円堂」の一言観音」、十八番「六角堂頂法寺」の「一言願い地蔵」、第二十三番応頂山勝尾寺の一願不動尊」等も同じ一つだけ願いを叶えて下さる仏様でしたね


お地蔵様の奥には「西国順礼堂」があります


西国三十三ヶ所の観音様がお祀りされており、こちらにお参りすると三十三カ所を巡ったのと同じ功徳ご利益があるとされます

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上の階段を登ると左手に「手水鉢」があります
この手水鉢は元々はお風呂の「鉄湯船」と呼ばれたものです
また、このお水は「観音水と呼ばれ丹波の名水の一つに数えられています


1290年、鎌倉時代のものなのですね。後から出てきますが、もう一つあります
 
 
 
正面は「本堂」
古来成相山は修験道の地として知られ、慶雲元年(704)といいますからかなり古い創建です
 
 

文武天皇の勅願所として真応上人が創建されましたが、山崩れにより南に下った現在の位置に本堂が移されました


若狭武田氏と丹波一色氏の兵火や雷火により多くの伽藍を焼失し、現本堂は安永三年(1774)に建てられたものです。ご本尊は「聖観世音菩薩」でこんな逸話が残っています


雪深い草庵に修行僧(真応上人)が餓死寸前状態で住んでおり、「今日一日生きる食物をお恵み下さい」と観音様に祈ったところ、堂の前に猪(鹿)が倒れており、肉食の禁をためらいつつも股の肉を殺ぎ飢えを凌ぎました。やがて雪が融け里人が堂内の観音様の左右の股が殺がれ、木屑の入った鍋を見、僧は観音様が身代わりになってくれたと悟り、祈りながら木屑を股につけると元通りになったことにより寺を成(合)相と呼ぶようになり、多くの信仰を集めたと云うことです


本堂右上方に掛けられている左甚五郎作「眞向きの龍」
どの方向から見ても正面を向いているように見えることからこう呼ばれています


奉納額ですが、修験道の行者と鬼が描かれています
又この観音様は「美人観音」と呼ばれ由来が残っています
『丹後但馬の国を与えられた玉若君(中納言)は、観音祈願の授かり子だった。13歳で父母をなくし笛を吹いて供養していたところ、梵天国王(仏教の主護神)がその音を聞き姫を妻に上げようと云われ、妻に迎い入れました。これを聞かれた天皇が羨まれて無理難題を申し出され、最後の難題で、梵天国に行き、飢えた骸骨のように化けた羅利国のはくもん王(悪鬼)を哀れと思い、ご飯を与えると、妻を奪い去り国に帰りました。中納言は出家して妻を助ける様祈り、助け出すことができ都に戻ったが、都を嫌い丹波へ下られ成合の観音様となり、中納言は久世戸の文殊となられ、成相観音は美人観音と呼ばれるようになりました』
 
 

本堂右に建つ「鎮守熊野権現社」延宝四年(1676)上棟され、この寺に現存する最古の遺構だそうです

 
いかにも古そうで、覆い屋根が掛けられています


その前には「十王堂」

 

中には「孔雀明王」と地獄の番人「閻魔大王」がお祀りされています
十王は死後、人を裁くものと唐より伝来したものらしいのですが、閻魔さんは分かりますが、孔雀明王は何故?それとも十王堂じゃなかったのかな?

 
本堂の西側の石仏と境内


この日は山に雲が掛かっていて霧雨が降っており幻想的でした



季節は11月初旬、紅葉が美しく色付き始めで、観音様も愛でていらっしゃいました

閑話休題
 

巡礼途中なのに、バスツアーなので昼食に、若狭地方のおいしそうな海鮮料理が出てきました。こんな生ぐさしてて良いのかなと思いつつ、美味しく頂きました


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お昼が丁度、天橋立の「知恩寺」前だったので時間もあり、もったいないので、お参りして来ました

楼門となっている山門です
 
 
「黄金閣」
棟梁は宮津の名工冨田庄次郎で、再建にあたって後桜町天皇から黄金を下賜されたことによって「黄金閣」と呼ばれれています


「海上禅叢」の扁額・園大納言の書だそうです


「文殊堂」(本堂)
雪舟筆の「天橋立図」(国宝)には天橋立南端に裳階(もこし)付で描かれ、現在の 文殊堂は裳階付ではありませんが、屋根は宝形造となっています
 

「智慧の文殊」また、場所の名から「切戸の文殊」・「九世戸の文殊」と呼ばれ、千余年の昔、延喜年間の創建と云われます
奈良桜井の「安部の文殊院」、京都の「金戒光明寺」と合わせて日本三大文殊と言われています
 

天橋立の生成と文殊信仰との関係が説話的に述べられ、醍醐天皇の御時に勅願寺として文殊菩薩を本尊とする智恩寺が建立されたと説いています(クリックすると拡大します)
 
 
倭の国を造られたイザナミノミコト、イザナギノミコトがあらうみの大神が操る龍神を鎮めようと悩んでられる様子が描かれいます


九世戸縁起を謡曲も題材にしており、その縁起が書かれています
 

私達が良くし知っている「智慧の輪」
ぐるぐる回って智慧を授かってられるようです


室町時代のものとして丹後地方唯一の遺構の「多宝塔」


「弁財天女堂」弁財天を祀っています


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何所かで見たことがありますね。先に書きましたようにこちらにあったのです
「鉄湯船」
こちらと、成相寺と奈良東大寺の3つは「三大鉄湯船」と言われています


こちらのものは元「興法寺」のために鋳造されたものです。銘は成相寺と同じ作者「山川(河)定清」で、製作年も同じ鎌倉時代正応三年(1290)です
2つとも現在は手水鉢にされているところも同じと云うのは不思議ですね


境内には「力石」と呼ばれ、力自慢を競ったそうで自由に触って下さいと書かれています



こちらは松の枝に珍しい扇形をしたお御籤がくくられていました


天国と地獄が描かれた「奉納額」
信仰心を持つように脅かして?(教えて)いるのでしようか?


「宝匡印塔」
一色氏に仕え、後、家康に知遇を得て鉄砲名手となった「稲富一夢斎」の墓と言われています



ここの境内は天橋立の一部となっています。松林が美しく対岸も見えています
さて、札所巡りを続けましょう
 

本日の打ち納めは「第二十九番青葉山松尾寺」
こちらまでは116段の石段がありますが、バスツアーではこの山門下まで行くことができます

 

仁王様は平成21年まで修理中とあったが、平成26年なのに戻ってきておられませんでした。まだ修理中なのか画像が掲げられておりました


山門の石段を上がると、また33段の石段が続いていました


燈籠と灯明堂の宝形造の屋根と本堂の二層屋根の宝形造、頂点には宝珠を載せ三つの屋根の曲線が重なり、えもいわれぬ美しさを見せています


奈良時代、慶雲年間(704~708)唐の僧、威光上人が松の木の下で法華経を読誦すると馬頭観音が出現しその姿を刻み草庵に安置したのを、元明天皇の知る所となって本堂が建立されました。観音が松の木から出現したのに因み「松尾寺」と名付けられました


三面八臂・馬の頭を載せた「馬頭観音」は観音霊場中ここが唯一です


草庵が開かれた後、養老年間(717~724)に泰澄が山頂に「妙理大権現」を祀り、今も青葉山西方頂上に奥の院があります


平安時代に繁栄し、鳥羽天皇と美福門院が行幸され寺領を賜り15の堂宇を再建、また院の念持仏と伝わる普賢延命菩薩像は丹波地方唯一の国宝となっています


その後も観音霊場として栄えましたが、信長の兵火にかかり焼失しましたが、丹後田辺城主細川幽斎が本堂を再建し、歴代城主によって修復が進みました


本堂よりの右の渡り廊下は「登仙橋」になっており大師堂と結んでいます


直線形もありますが、曲線が美しくいい感じです


渡った先には「大師堂」があります


こちらは本堂左の正徳年間(1711~16)造立で一切経を納める「経蔵」です


側には「地蔵立像」も建っています


同じく本堂前には寺の縁起馬頭観音に因む「馬の像」
ご本尊は農耕を守護して信仰を集め、現在では競馬関係者や競馬ファンも参拝に訪れているそうです


経蔵の更に左には「位牌堂」



鐘楼の側の樹齢880年を超える「大銀杏」
舞鶴市の天然記念物で、鳥羽天皇のお手植えと伝わります
 


お参りも終わり秋雨の降る中、紅葉に見送られお寺を後にしました

次回は第12回で満願となります。僅か1年間であっという間でした
無事終えられることを祈願して今回はここまでとします
でもまだ「善光寺」お礼参りもあります
気を抜かずに巡礼しましょう