城陽人のフォトアルバム

季節の移ろい、日々の情景、目に映る景色、町並みの風情や、カメラに映った画をそのままに貼り付けてゆきたいと思っております。

西国三十三ヶ所遍路旅<第十一回・後半>

2016年08月27日 | 西国三十三ケ所遍路旅
前半の続きですが・・・

では第11回を2014年6月17日に行ってきました。
と云っても、実は今回は回数としましては、第5回になります。
と云うのは今回の2ヶ所は通常ならば2014年の11月に行く事になるはずですが、季節的に冬より今の時期に行った方が船の欠航もなく行きやすいからのようです。
バスツアーの都合でこうなりました
 
後半の第三十一番札所「長命寺」に向かいます
 
島を離れてやってきたのは
 

そしてバスでやって来ましたのは近江八幡市にある第三十一番札所「長命寺」です
「是よりくわんおん六丁」の碑が迎えてくれます
昔の巡礼は、丹後から若狭の小浜を経て、今津に出、舟に乗って、竹生島の宝厳寺を詣で、そこから舟で、この長命寺を参詣するのが順路だったようです

参道登り口右側には「日吉神社」

 

左側には「穀屋尼寺」
長命寺の穀物倉庫だったと云われます



開基聖徳太子をお祀りされています

参道入り口から808段もの石段が続きます
手摺りもない自然石の石段が約四丁、しかもかなりきつい急勾配です

昔は宿坊が多くありましたが、この左にある「妙覚院」と



「真清院」のみが現在残っております

参道石段の両側に石仏、供養塔などが所々に見られます

「くの字」に曲がった道辺りが、約3分の1ほど登った所で、三界萬霊・大乗妙典と彫られた石碑があり、比叡山の天台宗に属していた事が分かります

墓碑の横に立つ石仏、苔むしていい趣が感じられます

この奇妙な鳥居を潜れば石段は後半分です

ところでこの形変わっていますね。初めて見ました。こちらのサイトに似たような物を見ました。また、廣田神社(西宮市)・大神神社摂社檜原神社(奈良三輪)・須賀神社(松阪)・神山(松阪)にも似たような鳥居があるようです。何れもかなり古い神社のようですクリックすると元のサイズで表示します

振り返るとこんなに急な石段が続いています。かなり息切れがしましたクリックすると元のサイズで表示します

「禅林院跡」  

禅林坊は善林坊と書かれたようで、宿坊の一つで昔は40ほどの宿坊があったそうです。「信長公記」によると、織田信長が天正六年(1578)の狩りに逗留されたそうです。

禅林院前の祠

四十余りあった宿坊は、石段の左右に名残の坊跡を残すのみで、この少し上にも金乗院跡があるようです

この辺りで四丁ですから3分の2まで来ましたね

「厄除け不動尊」もお祀りされております。この急勾配は登り始めより変わりません。
実を云うと今回参加者は44名で、内18名がこの石段を歩きました。あとの方はと言えば



この左手の駐車場までタクシーで来られるんです
この「聖徳太子礼拝石」から山門までは石段はあと約100段です

そしてやっと山門にたどり着きました。本当にやっとでした。あぁしんど!時間的には僅か20分程度だったのに。

この山門も冠木門のように変わっております

こちらが第三十一番「姨綺耶山長命寺」ですクリックすると元のサイズで表示します

山門はもう一つ左脇に、立派な唐門が控えていました

水盤舎で身を清めてお参りしましょう


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後ろ側は「書院」になっておりました

また数十段登りますと、下の写真の右にあるお堂につきます

右手の「三重の搭」を見るだけでほっと落ち着き、疲れた体に安らぎを覚えますクリックすると元のサイズで表示します

本堂に向かいましょう。推測ですがこれは燈籠のあったと思しき台座に載っているのでしょうが一体なんでしょう

こちらが本堂です。やっと着きました。
記紀に日本武尊が物語られる頃、景行天皇二十年にこの地をおとづれた武内宿禰が山の柳の木に「寿命長延所願成就」と記して祈願したところ、300年以上の寿命をまっとうし、五代の天皇に仕えたといわれます。聖徳太子がその柳の木で三体の観音像を刻み寺を建立し、宿禰の長寿譚より「長命寺」と命名したといわれます

下陣は柱の並ぶ荘厳な雰囲気を持ち、内陣には須弥檀が築かれ中央に厨子が置かれ千手観音・左に聖観音・右に十一面観音立像が安置され和仏堂の格調高い建築となっております
ここで御参りを済ませ清清しくなったところで、境内を見てまわりましょうか

本堂でのお勤めを終わり、本堂東脇に回ると「武内宿禰の足跡」石があります

同じく裏側の「六所権現影向岩(ろくしょごんげん ようこうせき)」
武内宿禰(西暦84年生)が、祈願し寿命を全うしたと云われる岩です

この西に繋がる「三仏堂」「護法権現拝殿」を含め本堂は回廊により繋がっております

釈迦・阿弥陀・薬師の三仏(いずれも立像)を安置しており、持仏堂形式の重要な遺構となっていますクリックすると元のサイズで表示します

「護法権現拝殿」

入母屋檜皮葺の簡素な建物となっており、三仏堂側の渡り廊下は唐破風、蟇股、兎毛通(うのけとうし)が時代の特徴をよく現しております

「護法権現社」
護法権現は武内宿禰を祀り、社は江戸後期に再建されたようです

元暦元年(1184)源頼朝の下知により、佐々木定綱は戦死した父秀義の菩提を弔うために本堂をはじめ釈迦堂、薬師堂、太子堂、護摩堂、宝塔、鐘楼、二王門などを建立しました。また、この頃天台座主明雲の弟子尊海が來住して延暦寺西塔院別院になったといわれます。

永正十三年(1516)、一山の堂舎は佐々木高頼とその重臣伊庭貞隆との争いによる兵火のため悉く焼失しました。

再興は焼失の翌年より始められ、永正十四年に広く勧進に着手し、6年後の大永二年(1522)本堂の再建、三仏堂、三重搭、護摩堂、鐘楼を再建し子院は19坊を数え、江戸時代を通じ聖徳太子の千手観音・聖観音・十一面観音の3尊にすがれば健康長寿が叶うと多くの人々が訪れました

チョット変わっているなと思ったのは一番西に位置するこの「太郎坊大権現」です

太郎坊というのは大天狗。もとは、長命寺で修行をしていた普門坊という僧で、厳しい修行の結果、超人的、神がかり的能力を身につけ、大天狗になったのだと云われます。ここでは寺を守護しているのだと云われています

向こうに見える拝殿と手前には美しく咲き誇った紫陽花がいいですね

拝殿と由来書き。愛宕山より飛来した石と手水鉢が本殿横にあると書かれています

琵琶湖岸が曲線を画いて美しい景色となって絶景です
(拝殿内側より望む)

拝殿裏の巨岩

太郎権現本殿
古代の磐座の跡と見られます

「太郎坊権現社」
境内の一番奥まった位置にある「太郎坊権現社」。この祠の両脇にも巨石がゴロゴロ。割れ目のある岩は女性とされています

振り向けば拝殿を覆うように被さる巨岩です

その南に、文字通り商売の神様「稲荷大明神」 別名、柁柷尼天尊と云われます

諸堂宇の美しい佇まいです。
手前より「如法行堂」「鐘楼」「三仏堂」「本堂」「三重搭」

その東に建つ「如法行堂」と「鐘楼」 
「鐘楼」は慶長十三年に再建された、入母屋造桧皮葺で袴腰付ですが、柱の配置が他とは違っており興味ある形式で、妻飾りや懸魚の形は禅宗様式を取り入れております

梵鐘は鎌倉時代の古鐘となっています
山麓の三ツ石と呼ばれる岩の間に住む龍女が献じたもので、誰も撞かないのに諸行無常と鳴り響くことがあると云われます

「如法行堂」
勝運将軍地蔵尊・智恵文殊菩薩・福徳庚申尊安置をお祀りされております

直ぐ上に座る「修多羅岩(すたらいわ)」
武内宿禰(たけうちのすくね)大臣の御神体とされます。

右は「宝匡印塔」。ここを下って元の三仏堂へ

手前より「護法権現拝殿」「三仏堂」「本堂」

本堂の向こう、東は「護摩堂」です
天台宗では密教の護摩が焚かれます

宝形造、桧皮葺、丹塗となっております。



この東には「三重搭」
本尊大日如来と四天王がお祀りされております

慶長二年(1597)に再建された。建築様式や屋根の特徴などから、桃山期の特徴が伝わる貴重な建物で国重文に指定されています

搭の風鐸というのは趣がありますね

その前には「閼伽井堂」



閼伽井とは仏前にお供えされる清浄水のことですね

澄んだ清浄なお水が見えます

東側から眺めた長命寺本堂荘厳な感じで身が引締まる思いです

神社にはよく見かけます石を積んだ光景です。何のためなんですかね?!

さてそれでは戻るとしますか。ここまで来ればもう後は半分です。次回はこんな階段があるのかな。下りも足にきました。この後3、4日は筋肉痛でした。お疲れ様!

今回はここまでです