城陽人のフォトアルバム

季節の移ろい、日々の情景、目に映る景色、町並みの風情や、カメラに映った画をそのままに貼り付けてゆきたいと思っております。

西国三十三ヶ所遍路旅<第二回・後編>

2016年08月12日 | 西国三十三ケ所遍路旅
四国八十八ケ所遍路旅は平成22年(2010年)に打ち終わっていますので、今度は西国三十三ヶ所を遍路してみようと始めました。
実は「西国さん」は平成10年(1998年)に1度打ち終わっております。今回で2度目を打つことになります。
前回はマイカーで巡りましたが、今回は「お四国さん」を巡ったときと同じように、12回で満行するバスツアーに参加しました。
昔の人は歩いて回られたのでしょうが、現代では到底歩いて巡るのは至難の業です。ですから本当の意味の遍路旅にはなりませんが、取敢えず全行程を回って来ますので、このブログに記録してゆきたいと思っています。


では第2回を2014年3月21日に行ってきました。
と云っても、実は回数としては3回目です。
第2回に行くところが前後して3回目になったのです
ですから前回は、第3回になります。(バスツアーの都合上です)


今回は京都・竹田駅から出発し第四番施福寺⇒第二番金剛宝寺(紀三井寺)⇒第三番粉河寺の三ヶ寺の順に向かいます。

でもブログにUPするのは三十三ヶ所順にしたいと思っています
 
第2回の前編に続き、こちらは後編になります

やって来ましたのは、三十三ヶ所中1,2を争う今回一番の難所、山道を登ります
「第四番 槇尾山 施福寺」

駐車場そばの「万願寺 不動尊

横の「延命地蔵尊」さま

  

同じく「千体地蔵堂」と「地蔵尊」

それでは覚悟して向かいましょう。
大和王権は大津の港、泉南の港から加古川上流、石生峠を越え、由良川をへて丹波、若狭の海に出、朝鮮半島、中国へと古代交易一大ルートを作り、その航海安全と戦勝祈願の聖地がここでした。その後、欽明天皇の勅願により、仏教公伝(538)頃創建されたお寺だということです

當山秘伝木由来 略」
『當山は七世紀の始めに欽明天皇の勅願により僧「行満上人」が建立開山、全山に八百の僧坊、を有して、数百の学問僧等、常に千人近い僧達が居たと云う大寺も南北朝の戦乱に会い、又、天正五年(1578)早春織田信長の焼き打ちに会い全山消滅す。
創建当時は政変、反乱、謀反、疫病が続発した時代天正五年一月八日(732)に此の秘伝木を建立して国家も天皇と諸民のために七難即滅、七福即生を祈願し、又諸民病難、火難、水難、険難、盗難、起難、受難の消滅を祈願して、此の秘伝木を建立して以来、平成の今日まで途絶える事無く、秘文と書体と字数を違える事無く、毎年一月八日に立て替えて祈念しています』(説明版より)
相当勢力があったお寺のようですね。「秘伝木」とは鳥居の原形とされるものらしいです

 

左・「秘伝木」      門前の十三重の塔

山門(楼門)
弘化二年の山火事を逃れ唯一残ったのはこの山門だけでした
 
 

この仁王さんも相当昔の作でしょうか

ほとんどお地蔵様ですね。燈籠の彫が気になります。文字か記号か、年代は?

山門を潜ると足場の悪い階段状の山道です

 

上に行くほど石段が出てきます。右側に槙尾川が流れいかにも山の中のハイキングコースそのものです。流れは清らかでした

 

  登り始めは八丁の道標がありましたが、ここまで来ると五丁になってました。そして「弘法大師御剃髪所跡・愛染明王 弘法大師御自作」の碑がありました



唐から戻られた大師は京に出られる前ここで、春日山岩淵寺の勤操(ごうぞう)を師としてこの愛染堂で得度受戒され、虚空蔵求聞持法を修した虚空堂(女人禁制)、弘法大師堂などがあります。

「愛染堂」と「大師修行像」 

 

いよいよ最後の石段です。その手前は大師の遺髪を納めた「弘法大師遺髪堂」。


約40分かかって本堂に着きました。こちらは西向きです。「十一面千手千眼観世音菩薩」のお姿の像も見えます

本堂の南の広場からは金剛葛城山系が一望出来、大阪湾まで見渡せます

七世紀の始めに仏教伝来の当初、欽明天皇の勅願により「行満上人」が弥勒菩薩像を本尊とし建立したのが始まりと伝わり、その後、役行者が法華経を葛城の峰々に埋め、最後に納経したとの伝承から槙尾(巻尾)山の山号が用いられるようになったと云います。

東大寺を建立した行基も慶雲三年(706)にここで修行し、西国観音で知られる十一面観音は、弟子の法海(中興の祖)が刻んで安置としたといわれます

本堂の中央には弥勒菩薩坐像、向かって左に十一面千手千眼観世音菩薩立像、右に文殊菩薩立像が祀られています
この本尊の謂れが『みすぼらしいが不平も言わず励む僧がいました。業を終え帰る旅費を無心するが断られ叱られ、「僧として恥ずかしい」と云い残し下山しました。これを知って法海は後を追ったが間に合わず、はるか彼方を紫雲に包まれた観音の姿を見、化身だと知り懺悔しこの観音像を造立した』と伝わっています


御詠歌『深山路や 檜原松原 わけゆけば 巻の尾寺に 駒ぞいさめる』に出て来るです
『徳道上人によって創始された西国三十三ヶ所観音霊場を再興した花山法皇が、粉河寺からこの施福寺を訪れていた時、日が暮れ深い山に道に迷ってしまっていると、 馬の嘶きが聞こえそれを頼りに進むと無事寺へたどり着いた』というお話しからきています。



「鰐口」

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立派な龍の彫り物と像端

隆盛だった寺も天正五年(1578)早春織田信長の焼き打ちに会い全山消滅します。その後、豊臣秀頼によって再興され、また徳川家の援助を受け江戸時代初期には天台宗に改宗もされました。



境内の階段を上がったところにには「槙尾明神」がお祀りされています

一番高いところに立つ「槙尾明神」祠



こちらは本堂前に立つ「観音堂」・紅梅でしょうか美しい花を咲かせていました

小さなお堂ですが中を見てびっくり・・

何と!!三十三ヶ所の観音様が一堂に会されております

この背の高い観音様はこの施福寺の十一面千手千眼観音様でしょうか

馬頭観音(秘仏)と矢印がありましたので本堂の裏に回ってみました

そこには「不動明王護摩堂」と・・

大師堂

本道の裏です。真ん中に張り紙が見えますが、「馬頭観音」と朱書されています 。
お前立ちですがお姿を拝見する事ができました

 

境内には観音様が5~6体みえます。 右は救世観音さまです



こちらはお地蔵様です

 

経塚跡
施福寺には古来より経塚がきずかれていて、故事にのっとって全国各札所巡礼が終れば最後に当山にお写経を納めるのが習わしのようです。 槙尾寺は納経の寺と云われます。



最後の階段を登りきったところの道標です
「右 ふし井てら 七丁 さかい六里大坂 九里」「左 こかわてら 六里 かうやさん七里」



帰りに階段から見た山門の後姿です。創建当時の隆盛を偲びながら、今回はここまでとします