城陽人のフォトアルバム

季節の移ろい、日々の情景、目に映る景色、町並みの風情や、カメラに映った画をそのままに貼り付けてゆきたいと思っております。

西国三十三ヶ所遍路旅<第十三回・お礼参り・前編>

2016年08月01日 | 西国三十三ケ所遍路旅
前回12回の引き続き、今回は善光寺さんのお礼参りになります

今回でいよいよ最終回となりました。
満願致しましたので、信州信濃の「善光寺」さんへお礼参りに行って来ました
無事に巡礼でき、めでたく今日の日を迎えられましたことに感謝してお参りにお付き合い下さい
 
 
京都を出たときには小雨が降っていましたが、中央高速道路・恵那山トンネルを抜けたとたん、”そこは雪国だった”の通り、昼食に立ち寄ったレストランでは雪が降り視界も悪い状態でした
 
 
ここはもう信州・信濃・日本アルプス・木曽山脈と赤石山脈に挟まれた駒ヶ根市でした。野沢菜などが有名なお漬物の産地で、お食事テーブルの横のお漬物バーにずらり並んだ「おつけもの」でした
 
 
先ず最初に目指した所は、そこからまだ2時間も掛けてやってきました上田市・別所温泉でした
さっきはまだ轍の跡が黒く分かる程度でしたが、ここはもう一面の銀世界でした
 
 
白く降り積もった坂道を500mほど西へ歩きます
 
 
七苦離地蔵尊」と「観音菩薩」の2つのお堂がありました
別所温泉は七九里の湯とも呼ばれ、七苦離は七つの苦しみから解き放たれると云う意味のようで、常楽寺の地蔵尊がここに移されたようです
ここは別所温泉、足湯も入れて4つの外湯があるようです

 
 
 私は城陽と云う暖かい地方だったので、こんな雪かきの光景が珍しくて、いいですね
 
 
北向観音の参道のようです。階段を下りて川を渡ります
 
 
参道と云うより温泉街のお土産屋さん通りですね
 
 
 
やって来ましたのは常楽寺・北向観音堂です
こちらへのお参りは『善光寺様は南向きに阿弥陀様を御本尊としてお祀りされているのにたいして、北向きにお祀りされているため、たまたま向き合ってる両方をお詣りしたほうが良い』と言われるからだそうです
右手は「手水舎」ですが全国的にも珍しい温泉の暖かい温泉水が出ています
 

北向観音堂は、平安時代初期の天長2年(825年)、比叡山延暦寺座主の慈覚大師円仁により開創された霊場です

安和2年(969年)、平維茂は一山を修理し、三楽寺、四院、六十坊を増築したと伝えられています。
寿永元年(1182年)には源平争乱の中、木曾義仲の手により八角三重塔と石造多宝塔を残して全て焼失してしまいますが、源頼朝の命のもと伽藍復興がおこなわれ、建長4年(1252年)、塩田陸奥守北条国時により再興されました』
『本堂が北に向いているのは、わが国でもほとんど例がりません。
北向観音様は北向に建立され 千手観音様を御本尊として現世利益を願い、また善光寺様は南向きに建立され阿弥陀様を御本尊として未来往生を願います』

愛染堂

『本尊は愛染明王で恐ろしい形相をしており、種々な誘惑や困難を打ち砕いてくれるという「恐れる仏」即ち「愛の仏」です
明治15年、上田常盤城村の色川徳兵衛が新築して献納しました』

愛染桂
『樹齢1200年の老木で天長の昔、常楽寺の火坑出現の観世音菩薩が影向(ようごう=神仏が一時姿を現すこと)した霊木といわれています』

『境内の東隅にある愛染明王堂とこの桂の木に因んで故川口松太郎氏(1899 - 1985、第一回直木賞受賞)が「愛染かつら」を書かれたことはあまりに有名です
若い人たちからは「縁結びの霊木」として親しまれております。
昭和14年6月5日、長野県の天然記念物に指定されました』

鐘楼

『鐘楼の建立年代は不明ですが梵鐘は寛政五年に上田の鋳物師、小島久兵衛弘文とその子、国一の合作でした
またこの梵鐘には消失してしまった長楽寺の銘があったようです』


『しかし第二次世界大戦で金属の供出という運命にあい行方不明となってしまいました
現在の鐘は昭和二十四年に長野市で開かれた平和博覧会に出陳された香取正彦の作によるものですが、当時善光寺大勧進の副住職であった常楽寺半田孝海大僧正が求めてこの鐘楼に納めました』

『また今の鐘楼は、昭和四十六年にこの地方の寺社建築に数多くの実績のある別所の大工、西島敏雄棟梁が再建寄進したものです』

ずらり並んだ六地蔵様



不動堂(護摩堂)
『昭和五十八年に本堂の傍らの護摩堂が再建されまし。』



温泉薬師瑠璃殿
『この温泉薬師は伝説には行基菩薩の創建、慈覚大師の再建といわれますが、以前の薬師堂の位置は今の「大師湯」の西隣りであったようです。寛保二年(1741)湯川の氾濫によって薬師堂は流され、寛保四年から湯本講中で再建を計画したようです。そして今の建物は文化六年(1809)に湯本講中の積立金により再建されました』

北原白秋歌碑

『1923年(大正12年)に家族と別所へ遊びに来た北原白秋はわずか数日で百六十二首の俳句を詠んだようです』(*北向観音堂の説明は常楽寺HPより引用させて頂きました)

色い雪に映える赤い木の実が目を引きました

帰りの石段より参道を見ると雪国の温泉街の情緒を色濃く感じました

行きには気付かなかった橋と側の碑が見えます


 

慈覚大師(円仁)之湯」とあり、飲めるようで、糖尿病、痛風、便秘に効果がある単純硫黄温泉と書かれています



別所の市神
市の安全と市を守る市神がこの柱の右の平たい台に祀られていましたが、今は祇園祭の際に、別所神社より牛頭天王を乗せたご神体を載せる発着の台になっているようです

 
こちらは参道北にある「安楽寺」、この反対側東側を行くと常楽寺です

『常楽寺は北向観音堂が建立された天長2年(825年)、三楽寺(長楽寺、安楽寺、常楽寺)の一つとして建立されました。 北向観音の本坊であり、ご本尊は『妙観察智弥陀如来』で全国的にも珍しい阿弥陀様です』

お店は写っていませんが、旅行社お勧めのお茶所で一服できます

駐車場に戻ってきました。とそこにラッピングされた千曲バス、そうですここは上田市、信州真田三代の居城上田城のお膝元です

江戸時代あり、温泉あり、信仰の寺ありとなにやら賑やかでした

そしてお宿は長野市内、朝のホテルからの山国信州の雄大な眺めです

上信越の2000m級の山々、何故こんな所に善光寺があるのでしょうか?

 

===本当は次の日に善光寺さんにお参りしたのですがブログUPの都合上先に、善光寺さんの後にお参りしました「元善光寺」さんを先に紹介します===

 

翌朝はうそのように晴れ上がった天気でしたので、新たな気分で雪景色を楽しみながらお参りに行きました 

その途中・・

***閑話休題***

長野市内の千曲川沿いのお土産センターにやって来ました
駐車場の隅っこに何やら案内板を見つけました

胴合橋
小さな清流の小川が流れていて、小さな石の橋が架かってます

山本勘助翁鎮魂碑建立の由来」
「山勘は勘に頼って万一の成功をねらったり、計略にかけて相手を欺くこと。または、武田信玄に仕えた軍略家山本勘助の名から出た熟語。
その山本勘助は武田信玄に「キツツキ戦法」を進言したが、上杉謙信に見破られ、上杉軍に討って入り戦死、家来が首を奪い返し泥真木明神付近のこの川で血を洗っていたとき、鎧をつけた胴が流れ着き、首と繫ぎ合わせた場所だといわれている橋だったのです

さて、そこから走ること2時間、左手に日本アルプス・赤石山脈を見て、やってきた所は飯田市坐光寺、地名の由来にもなっている、「元善光寺」さんにやって来ました

定額山は善光寺と同じ山号です

こちらが元々の「元善光寺」さんです。
『推古天皇十年に信州麻績の里(おみのさと)(現在の飯田市座光寺)の住人、本多善光卿が難波の堀から一光三尊の御本尊様をお迎えしたのが元善光寺の起源です』

『その後皇極天皇元年にその後本尊様は現在の長野市へと遷座され、出来たお寺が善光卿の名をとって「善光寺」と名付けられました
それから飯田の方の当山は勅命によって、木彫りで同じ御尊像が残され「元善光寺」と呼ばれるようになりました』

『本尊様のお言葉「毎月半ば十五日間は必ずこの麻績の里に帰り来て衆生を化益せん」という御請願を残されたとのことで、長野の善光寺と飯田の元善光寺と両方にお参りしなければ片詣りと昔から云われる由縁です』
「一度詣れよ元善光寺 善光寺だけでは片詣り」

『堀江でめぐり会った仏様を連れて帰り、どんな所へお祀りすればよいのか考えましたが、臼より清らかなものはないだろうと、西の部屋の床の間に臼を置いて、その上に仏様を祀って四十一年の間親子三人で朝夕礼拝供養を致しておりました
如来様のご利益は広く世間にも知られるようになり、善光公は、村中の人たちと相談して粗末ながら小さなお堂を建て、如来様をお移しした』

『そして朝になってお堂へ行って見ると如来様の姿が消えていて、驚いて探すと、元の臼の上に戻っておられた。又、お堂を清めてそこにお移しすると、又帰ってしまわれると云うことが三度続いた。そして如来様が善光におっしゃった事は、たとえ金銀財宝で飾ったり立派なお堂に安置されても私の名を唱える者がいないところには住めない。私はいつも西にいる。善光公はそれを聞いて感激し、仏様を西の間の臼の上に安置して四十一年の長い間供養した』

『皇極天皇の頃、芋井の里(現在の長野市)に移せとの如来様のお告げを受けた善光公は、自身で仏様を移し、勅命によって立派なお堂を建てて、自分の名をもって善光寺と名付けた。そして挫光寺に残された臼から、光明が差して光り輝いていたのでこれを仏様の台座が光ったのだから即ち「座光の臼」と呼ばれ、元善光寺の宝物殿に今も残っております』

本多善光誕生霊地」の扁額
「多と田」どちらが正しいのでしょうか?
『ちなみに地名の座光寺と云うのは、この「座光の臼」から出たと云う説もあります。小学校のの国語の教科書に「光る臼」という題で、このお話が載せられていた事もあります』
本堂地下には、こちらにも戒壇巡りができます

「平和の鐘」
昭和25年4月平和を祈念するため再鋳奉献されました。鐘の命名は「久迩元宮」殿下で、重量は350貫。除夜の鐘は無料で誰でもつけます

飯田城主脇坂安政が兄の菩提を弔うために350年前に植樹されてと云う見事な紅枝垂れ桜ですが今は時期外れ、残念!

珍しい「矢場」です
奉納の「金的中額」です

「無財の七施」

住職の教えを書かれています

「つもり違い十か条」

こちらも前住職の教えです

木彫涅槃像、鬼瓦の前身と言われる木彫りの鬼面、藤原時代の愛染明王像、雪舟の描いた寒山拾得図等も宝物殿に展示されております。是非ご一覧を・・
こちらも善光寺と同じく、七年に1度のご開帳が同じ期間行われます

尚、説明文『』については元善光寺さんのHPより引用させて頂きました



そして山門を抜ければお別れです

「身はここ(茲)に 心は信濃の善光寺 導き給え 弥陀の浄土へ」の御詠歌を胸に、お礼参りとしましょう

 

善光寺さんへのお礼参りは

この後の後半に譲ります

 


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