過日、用事で車を運転していたところ、信号機のない横断歩道にランドセルの方が大きいくらいの女の子が立っていたので停車しました。すると、その子は軽くお辞儀をしてから横断歩道を渡り、渡り終えるとくるりと向きを変えまたお辞儀をしました。
この光景を見て、心が和む思いがしました。その反面、これはどういうことなのか、どうしてこうするのかと疑問も感じました。
横断歩道に横断しようとする歩行者がいる場合、クルマは徐行し停止しなければなりません(道交法38条)。これは運転者の義務です。そうであれば、歩行者は運転者(車か?)に辞儀をする必要はさらさらありません。
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江戸時代でもないのに、なぜ、そこまで歩行者はクルマに対して礼を尽くさなければならないのか。
私は殿様気分を味わうために停止したのではありません。ルールだからです。教習所で教わったことを免許取得後も実行し続けているだけです。
横断歩道で停止する車は、有難いこと、稀有なことだからと頭を下げるのであれば悲しすぎます。
学校でそのように指導されているのでしょうか。
横断の前後にお辞儀をさせるよりも、さっさと離脱してもらった方が安全なのではないかと思います。安全に渡ってからも車が突っ込んできたり、スマホ片手の自転車や暴走ランナーが突進してきたりと小さな子供には危険がいっぱいです。お辞儀をしている間は辺りの様子が見えません。小さな子供はお辞儀をすることに一生懸命になります。大変危険な状態です。
そう考えながら自宅に帰りましたが、横眼で見た彼女の真剣な眼差しが忘れられませんでした。∎
図書館に行った帰りに撮影した今日の魚眼写真です。
バラのようなきれいな花が目を惹きました。サザンカの季節になったようです。ストーブの準備をしなくてはいけないかな。諸物価高騰の折柄、暖冬だといいな。
iPhone SE/2 + Kenko Real Pro Clip Lens(魚眼)
この日本特有の礼の文化、時と場合構わず、頑固に教育されていますよね。
ただ美徳だからと横断歩道でも、わたしてもらったらお辞儀をせよと教われて、あの子は自分が正しいと思ったことをしたでしょう。
だが、筆者さまの意見とおり、安全にわたればそれですべきことは済んだので、それ以上のことは場所上、してはいけないと思っています。
場所をわきまえることも教えないと、判断力を養うことに偏りが出ますよね。
なんとなく矛盾を感じてましたが、似たような疑問が上がっていたので、少し私の私見も書いておきます。
考えさせる記事でいいと思ったのもあって。
この問題はちいさな小学生がいろいろと考えさせてくれるような気がします。
子供に横断歩道を渡る前後にお辞儀をする意味は何もないどころか、かえって危険にさらしてしまうことは間違いないと思います。表面的な礼節では解決にならず、一部のドライバーの思い違いを増加させるだけです。
つまり、これは本来の「礼の文化」ではない疑惑が湧いてきます。「クルマに対してお辞儀をせよ」というのは形式的、表面的なものです。礼にはそのような面もありますが、本来、もっと深いところから出るものではないかと思っています。そういうものは自動車という機械やドライバーという一時的な役割に向かうものでしょうか。
現代の交通状況は礼節で制御できるものではありません。事故があった場合、処理するのは冷厳な法律です。そこに礼節やマナーなどが入る余地は少しもありません。ここはしっかりと分離しなければならないと思います。この点から考えてもお辞儀は「余計なこと」に過ぎません。まさしく、歩行者、ドライバー両者がルールに従い安全に止まり、渡ればそれで済むことです。それで済むことにわざわざ何かを追加する必要はありません。
お辞儀したり、させることよりも、本来は、誰もが(ドライバーも含む)安全に通行できる道路、都市を作ることの方が先決であり、移動する自由を有する者全員に対するより大きな「礼節」なのではないかと、最近は思っています。