偶然から読み始めたオースター。私には珍しく海外文学を読んでいる(笑)。3冊目となる今回は犬の物語を日本語訳で読んだ。
動物が見る目はクリアーである。だからこそ,いくつもの物語の主人公に動物たちが選ばれ,人間社会の本質を捉えようとしてきたのだろう。『ティンブクトゥ』もそのような試みのひとつと思える。
この主人公(雑種犬,その名もミスター・ボーン!)の最初の飼い主で最良の伴侶であるのはウィリー。子犬の頃からの付き合いで絆も深い。奔放な言葉を発するこの放浪の詩人からミスター・ボーンは人間の言葉を理解する力を得る。だが,ウィリーの才能は世に認めらているわけではない。小さい頃の唯一の賛美者であった女教師がいなくなるとドロップ・アウトしてしまう。ついには精神を病む。しかし,犬のミスター・ボーンにとって,へっぽこ詩人との放浪の旅は自由で幻想に包まれた理想郷であった。
だが,「漂泊の詩人」の命は短かった。最愛の後ろ盾を失ったミスター・ボーンは生きるために新しい庇護者をみつけようとするが,彼のクリアーな目には人間社会のひずみが見えてしまう。犬にとって恵まれた環境に思える場所も命の危険と隣り合わせだったり,家庭内暴力の巣であったりすることを感得してしまう。幸福そうな一家の裏事情までが見えてしまうのだ。人々は犬に対しては無警戒に話してしまうので言葉を理解するミスター・ボーンは諸事情を理解する。彼にはどこにも幸福な場所が見いだせないのである。幸福な場所とは詩人がティンブクトゥと言った場所しかないことを彼は悟るのである。
人間の暮らしの矛盾は,人間の視線ではなく他の生き物の目を通したときに最も客観的に提示されるのではないか。人間は犬という存在に対してつい気を許して,ありのままの姿を見せてしまう。作家はそれを逆手に取りミスター・ボーンの視点を作り,いくつかの悲劇を見せてくれたのだと思う。
ミスター・ボーンという,不思議な犬の存在はかなり強烈に心に残る。もしかしたら,うちの犬も言葉を理解するのではなかろうかなどと妄想してしまう(笑)。時折モモの目に宿る表情は何であろうとも思う。人間の側にいて,何となく観察しているような,不思議な存在に思える。臭覚を主としてひたすら現在に生きているはずの彼らなのだが,哲学者のような風情を見せるときもある。どちらが主人なのか分からないような時もある。犬を友とした狂える詩人ウィリーの内面世界が,意外と遠くはないところにあるのではないかと感じることもある。犬と人間との垣根の一線とは一体何であろうか。
■『ティンブクトゥ』ポール・オースター[著],柴田元幸訳. 2006年12月(4刷),新潮社
動物が見る目はクリアーである。だからこそ,いくつもの物語の主人公に動物たちが選ばれ,人間社会の本質を捉えようとしてきたのだろう。『ティンブクトゥ』もそのような試みのひとつと思える。
この主人公(雑種犬,その名もミスター・ボーン!)の最初の飼い主で最良の伴侶であるのはウィリー。子犬の頃からの付き合いで絆も深い。奔放な言葉を発するこの放浪の詩人からミスター・ボーンは人間の言葉を理解する力を得る。だが,ウィリーの才能は世に認めらているわけではない。小さい頃の唯一の賛美者であった女教師がいなくなるとドロップ・アウトしてしまう。ついには精神を病む。しかし,犬のミスター・ボーンにとって,へっぽこ詩人との放浪の旅は自由で幻想に包まれた理想郷であった。
だが,「漂泊の詩人」の命は短かった。最愛の後ろ盾を失ったミスター・ボーンは生きるために新しい庇護者をみつけようとするが,彼のクリアーな目には人間社会のひずみが見えてしまう。犬にとって恵まれた環境に思える場所も命の危険と隣り合わせだったり,家庭内暴力の巣であったりすることを感得してしまう。幸福そうな一家の裏事情までが見えてしまうのだ。人々は犬に対しては無警戒に話してしまうので言葉を理解するミスター・ボーンは諸事情を理解する。彼にはどこにも幸福な場所が見いだせないのである。幸福な場所とは詩人がティンブクトゥと言った場所しかないことを彼は悟るのである。
人間の暮らしの矛盾は,人間の視線ではなく他の生き物の目を通したときに最も客観的に提示されるのではないか。人間は犬という存在に対してつい気を許して,ありのままの姿を見せてしまう。作家はそれを逆手に取りミスター・ボーンの視点を作り,いくつかの悲劇を見せてくれたのだと思う。
ミスター・ボーンという,不思議な犬の存在はかなり強烈に心に残る。もしかしたら,うちの犬も言葉を理解するのではなかろうかなどと妄想してしまう(笑)。時折モモの目に宿る表情は何であろうとも思う。人間の側にいて,何となく観察しているような,不思議な存在に思える。臭覚を主としてひたすら現在に生きているはずの彼らなのだが,哲学者のような風情を見せるときもある。どちらが主人なのか分からないような時もある。犬を友とした狂える詩人ウィリーの内面世界が,意外と遠くはないところにあるのではないかと感じることもある。犬と人間との垣根の一線とは一体何であろうか。
■『ティンブクトゥ』ポール・オースター[著],柴田元幸訳. 2006年12月(4刷),新潮社
一方ネコはヒトの言葉をわかってもヒトをわかろうとはしないみたい、というのが三匹のネコと暮らす日々の感想です。
ネコはヒトに要求しかしません。
しかもネコを飼っているヒトはアホなことにネコに要求されると喜んでしまうという矛盾・・・・・・・
www,stevenisserlis.comを久しぶりに見ると何と明日から我が街に来るのであります。早速、日曜の前列席を購入しました。街は、うちから高速で2時間飛ばすとたどり着く、Wisconsin州のMadisonという州の首都です。SchumannのCello ConcertをMadison Symphonyと弾くそうです。昨年、この曲は、聞きそびれたので
後日、レポートします。
また、面白い本を探し出しました。東大工学部の宇宙開発の糸川先生の自伝とStradivariousの研究とご自分のCello演奏などについて、書かれたもので、大変
面白いです。日刊工業社 やんちゃな独創 というタイトルです。是非お勧めです。
大石
>一方ネコはヒトの言葉をわかってもヒトをわかろうとはしないみたい
名言かも。そこがいいという人も多いと思います。猫はすでにヒトのことを理解しているので余計な探求は省略しているのか?でも,あの小さな容積の脳にそんな余力は無いように思えるし(笑)。。。得意技=レム睡眠!みたいな。。。(笑)
モモは猫より容積があるはずですが,我々をどう理解しているのか分かりません。その「分からない」ところが存在の妙とでもいうのでしょうかねえ。。。(笑)。
昨夜も練習を始めるとのそのそ机の下から這い出してきてじっと見つめておりました(聴き入っていたのではないと思う(笑))。猫とは反対に人間に興味があることは事実のようです。
大石さん,
イッサーリスの来演,おめでとうございます。大石さん得意の前列席。レポート楽しみにしております。
この,前列席の楽しみは大石さんから教わったようなもの。私は,正直,前過ぎる,と思っておりました。しかし,実際はチェロの音はよく聞こえるし,楽器の細部や演奏法は丸見えで大変勉強になります。チェロを聴くなら前列というのは鉄則ですね。
亡くなったロケット工学の糸川先生はユニークな方でしたね。バレエもやられたのではないですか?