
ですが、庭仕事をするほどは、暖かくありませんでした。今日は、お彼岸が過ぎて、身近な人の行事もいろいろ済みましたが、フッと母の事を想いだし、全国の献体事務局の出している本に、去年、献体の感想文が載りました。感想文は、私ひとりでしたから、ちょっと、うまくない文章ですが2回位に分けて載せますので、わたなべ 緑の物の考え方として、読んで下さい。写真はねこずくしです!
▲草むらにいた猫をパチリ


▲ダンディーですね♪
母が94歳で亡くなって3年余りが過ぎ、長年の母の希望であった、献体と散骨を済ませて、今、長女の私は時々寂しく想う事はあっても、悲しくはありません。
大正元年うまれの母は、大変に進歩的な、 モガ(モダンガール)で、運転免許証は日本女性で4番目に取得、オープンカーに乗り、ダンスを教え、着物から洋装に変わる時代、ドレスメーカー女学院の2期生でした。
洋装に切り替える、奥様、お嬢さん達の、下着から全部作っていたそうです。今で言う所のコーディネーターかスタイリストの走りでしょうか?進歩的な夫の影響を受けて、どんどん前に突き進んでいく人でした。そして太平洋戦争を世田谷で体験しました。
5歳の私の一番最初の記憶は、戦火にまみれ火の海の中、水につけた布団をかぶせられ、リアカーに乗せられて、父母、妹と私で甲州街道を逃げ惑った思い出です。
▲ニュージーランドの野良猫です

▲ロタ島の猫です
とても強い魅力的な女性で、戦後、母の古里の山口に帰っても、物資のない頃なのに、毎週末、里親として孤児院の子供達の2~3人自宅で面倒を見ていました。
私と妹とその子供達も、すべての事が平等でした。でも、そんな母が、昔から自分も入るであろう墓参りに行く度に、こんな冷たく狭い石の中に入りたくない、灰になって、何処かに飛んでいきたいと言っていましたが、30年も前に、献体の事を知り、本人は決めつつも、古い里の親、兄弟を説得するのは大変な事でした。
医科大学を目指していた、従兄も手伝ってくれて、献体と一緒に、散骨の会にも入りました。母の口癖、精神は私の物、体は天から借りているので、人の役にたつ献体にするとの母の精神を私も尊重しましたが、母の最後の心配は、こんなヨボヨボに歳取った体が医学の役に立つのかしら?と、言う事でした。・・つづく

▲夫婦ネコです
色んな国の猫ですが、最後の猫は我が家の風呂のふたの上の、猫です!クリックしてみて下さい。もっと、山盛りの時もありますよ!ではまたね!
ごちゃごちゃ書いてごめんなさいね。



>