今日は少し暖かで、被災地の方々も作業しやすいと思いますが、これ以上暑くならない事を願っています。
この震災で亡くなられた方々に、お悔やみ申し上げます。私のブログを見て下さっている方もいらっしゃったかもしれません。お見舞い申し上げます。
随分ブログをお休みしてしまいました。電話もやっと通じましたが、EMOBAILの方が全然通じなくなり、今日までお休みしました。光通信を申し込みましたが、こんな状況の中、NTTも忙しく、4月5日の工事がやっと決まりました。それまでは、青戸のデザインセンターでしか、出来ない事になるかもしれません。
タイから帰った翌日に地震、幸いに、東海地震を想定して、家具は作り付け、扉にはストッパー等、富士山の家の方も、対策をしてありましたから、まぁまぁ大丈夫でしたが、旦那をソファに座らせ、私も立っている事が出来ない位でした。5強の地震でしたが、家のあたりは6弱だそうです。
そのまたすぐ後に、富士宮で地震、私の家は5強でした。東海地震、遂に来たかと思いました。その後電車が動かなくなり、ガソリンも無いし、病院も予約を延長したりして、やはり、大変でしたが、薬は切れてしまうと困るので、電車が間引き運転始めたので、乗り継ぎ乗り継ぎして、押しつぶされそうになりながら、病院に着いたら、ガラガラでまだまだ来られない人が居るのだと、ちょっと悲しい思いをしました。
私は、とても古い人間なので、昔の戦争の時に東京の世田谷の松原にいました。まだ4~5歳くらいでした。毎日、防火訓練に親達が行きます。浅草のあたりの爆弾で家を焼かれて逃げてくる人も沢山いました。でも、最後の東京の空襲で、世田谷の松原も爆弾が落ちて、焼けだされてしまいました。
母と父が私たち姉妹を防火水槽の中にざぶんとつけて、布団も水の中につけて、リヤカーに乗せられ、ご飯を炊いた電気釜を(この頃家にはあったんです、電気釜が・・)一緒に載せて甲州街道の火の粉の川を逃げ惑いました。松原には子供が3人しか居ないし、代田の駅の周りの家は、戦車が来て、線路から30メートルの家は全部壊して行きました。
たった一軒だけ残った家の影で、又びしょびしょに水をかけられ、4人でぬれた布団の中に居て、この家が焼けたら、死ぬしか無いと云われ、でも、助かりました。火の粉の川が治まりかける夜明け、自宅の前に戻った時、私の鉄パイプのベッドが燃えて黒々と見えて、大泣きしました。何も無い焼け野原になっていました。父が集めた骨董品や、楽器、こけし(本を出すほどの収集家でした。)レコード、家の前で立ち尽くし、涙がほほを流れていたのを忘れられません。
毎晩聞いた、敵機来襲のサイレン・・防空壕から見てた、敵機来襲・・焼け野原の中、配給を配って歩いた事、1週間に1度遠いお風呂屋さんに歩いて行った事、全部覚えています。私が小学生になっても学校が無く、母の古里の山口市に帰り、学校に途中から行きましたが、小学校の時の4年生くらいまでの、何も記憶してません。ただ、何度か引っ越しをして川っぷちの家に移りましたが、ここは、年に多い時で5回も畳をあげるような場所でした。そこが晴れて居ても、山で大雨が降ると25分くらいで床まで水がきます。
今回の震災で、これらの事が頭の中を真っ白にして、戦争の事で頭がいっぱいになり、手がプルプルと震えだします。夜も3~4時まで寝られません。パニクってはいません。でも、突然に地震の警報が鳴っても、手が震えます。こうして助けてくれた父と母に感謝です!
母は、震災孤児等の面倒もみてたので、週末には孤児達が山口の家に来たりしてました。今回の被災者の気持ち、痛いほど分かります。母が云ってた、前を向いて、顔をあげて、生きていつて欲しいです。父は空に、母は献体の後、海にいます。空と海を見て今日も生きようと思います。こころざし半ばにして、もし倒れても、前を向いてた、顔を上げて生きてたら、私は本望です。前を向いて(何かが見つかるまで)がんばり過ぎないように、時には、休んで構わないと思います。こんなに歳をとっても忘れる事は出来ません。突然に出て来たので、自分でびっくりしてます。
これからもジェジェ共によろしくお願いします。みぃさん、みえさん、有り難うございます。それから、福田さん、あなたはボランティアで、被災地にいってるのではと心配してますよ!