さて前置きがすっかり長くなりました。今回のメインは紫式部と、和泉式部の娘であります。
歳の順からすれば、和泉式部と橘和泉守道貞との間の娘 小式部内侍でしょう。美貌と歌の才能を母から濃厚に受け継いでおり、その恋愛関係も華麗さでは母、和泉式部にも引けを取りません。
お相手は道長の子供たちの頼宗、教通等等。
彰子にも随分気に入られた様子が内侍という職名に残っていると思います。ただ残念なことに藤原公成との間の男子分娩に際し28歳の若さで亡くなってしまっています。
「無名草子」には理想的な女性として記述があり、彼女が亡くなった際に母 和泉式部の詠んだ歌は後拾遺和歌集に載っており、愛傷歌の傑作として非常に有名です。
とどめおきて誰をあはれと思ふらむ 子はまさるらむ子はまさりけり
対象的に長生きしたのは、紫式部の娘「越後弁」(後に大宰三位)であります。
紫式部と藤原宣孝との間に999年に生まれ、本名は藤原賢子。父宣孝は1001年2歳の時に死去してしまい、その後紫式部とその実家にて育てられたようです。
その後既に皇太后となっていた彰子に15歳頃に女房として出仕しますが、紫式部は1012年頃に既に離れていますので、和泉式部母娘のように同時期の出仕は無かったようです。
出仕時の女房名は祖父(紫式部の父 藤原為時)の官職「越後守」と「左少弁」から越後弁。
母紫式部はかの日記等の記述から、気難しそうで女房仲間への辛辣な批評など、決して社交的でフェミニンな魅力に溢れた(和泉式部や、その娘のように)女性ではなかったようなイメージですが、その娘の賢子は明るくおおらかな人柄であったようで、複数の貴公子の恋人ができ、小式部内侍にフラれた藤原頼宗などもその取り巻きだったと伝えられてます。
20代半ばに道長の甥 兼隆もしくは公信(藤原為光の子)との間に子供が。そして同時期に春宮(実質皇太子)敦良親王妃の藤原嬉子(道長の娘)が親仁皇子を出産し、そのまま亡くなってしまい、彰子皇太后が厚く信任していた賢子が乳母に選ばれました。
その10年後、三十代後半(和泉式部の再婚もこの時期ですね~)に、10歳年上で貴公子ではないにせよ受領として莫大な財宝を持っている、高階成章と結婚し以降の高階家主流となる男児為家を生みます。
更に乳母として育てた親仁親王が後冷泉天皇として踐祚すると、彼女は従三位に叙され(1045年)ます。更に欲の大弐とも揶揄された、夫高階成章が太宰大弐として大宰府に下向(1054年)し、以降太宰三位と呼ばれるようになります。
夫に死別、後冷泉帝の若すぎる(44歳)崩御などを経て、80歳にて息子高階成章の歌合にて代詠を務めている消息が最後になります。
賢子は実は母がどちらかといえば苦手であった、歌詠みとしても後拾遺集などに37首が残るなど優れていたようです。