前回よりつづく
「悲劇」
桐朋学園大学の二年生の時に、毎日コンクールに出たら第2位になったが、そのあとは結構天狗になっていた。
大学3年4年と進むうち演奏する機会も段々増え、桐朋学園オーケストラでドボルザ ークのコンチェルトを弾かせてもらったり、東京女子大オーケストラでもハイドンのコンチェルトを弾いた。
しかし、大学4年の時だったか、巨匠のシュタルケルさんが学校で公開レッスンをされると聞いてすかさず受けたが、その時に弾いた曲が悪かったのと、あることにより僕の予定は大きく変わったのだ。
弾いた曲はシューベルト「アルペジオーネ・ソナタ」だった。意気揚々とその場にあがった僕だったが、その場に何と堤剛、岩崎洸さんのご面々のお顔があったのだ。これには、ちょっと舞い上がってしまった。
「ヤバ! こりゃあ気合入れて弾かないと、男がすたる」と思ったかどうか…。
まあ、普段の自分の演奏をすれば良かったのに、二倍も三倍も上手に弾かなくては! と思ったところが、そもそもの間違いだった。
何だか、どう弾きたいとかじゃなくて、「上手に!」 しか頭になかった。
1楽章を弾いたところで、シュタルケル先生に英語で何か言われた。
通訳の方もその言葉を正しく翻訳出来なかったらしく、会場に向けて助けを求められた。会場の堤先生がお答えになった。
その言葉は「悲観主義者」ということだった。彼はどうして電話ボックスの中で弾いているような感じで弾くんだ? と言われたのを覚えているが、その頃には僕は既に自分を失っていた。
このレッテルは、これ以後、僕のなかでなかなか拭い去ることの出来ないこととなる。
つづく
「悲劇」
桐朋学園大学の二年生の時に、毎日コンクールに出たら第2位になったが、そのあとは結構天狗になっていた。
大学3年4年と進むうち演奏する機会も段々増え、桐朋学園オーケストラでドボルザ ークのコンチェルトを弾かせてもらったり、東京女子大オーケストラでもハイドンのコンチェルトを弾いた。
しかし、大学4年の時だったか、巨匠のシュタルケルさんが学校で公開レッスンをされると聞いてすかさず受けたが、その時に弾いた曲が悪かったのと、あることにより僕の予定は大きく変わったのだ。
弾いた曲はシューベルト「アルペジオーネ・ソナタ」だった。意気揚々とその場にあがった僕だったが、その場に何と堤剛、岩崎洸さんのご面々のお顔があったのだ。これには、ちょっと舞い上がってしまった。
「ヤバ! こりゃあ気合入れて弾かないと、男がすたる」と思ったかどうか…。
まあ、普段の自分の演奏をすれば良かったのに、二倍も三倍も上手に弾かなくては! と思ったところが、そもそもの間違いだった。
何だか、どう弾きたいとかじゃなくて、「上手に!」 しか頭になかった。
1楽章を弾いたところで、シュタルケル先生に英語で何か言われた。
通訳の方もその言葉を正しく翻訳出来なかったらしく、会場に向けて助けを求められた。会場の堤先生がお答えになった。
その言葉は「悲観主義者」ということだった。彼はどうして電話ボックスの中で弾いているような感じで弾くんだ? と言われたのを覚えているが、その頃には僕は既に自分を失っていた。
このレッテルは、これ以後、僕のなかでなかなか拭い去ることの出来ないこととなる。
つづく