「大地に刻まれた藤沢の歴史Ⅳ・・古墳時代」
※防備録としてUPします。
少し前に、自宅の裏で発掘作業があったとUPしました。
そのときに、発掘調査員の女性の方が詳しく話をしてくださって、「暮れに発掘調査の結果の展示がありますよ」と教えてくれたのですが、ちょうどその展示が始まったので仕事帰りにいってみました。
今回は「古墳時代」の展示だそうです。
JRの藤沢駅のビルの6F、無料です。
思ったよりたくさんんのご年配の男性の方などが来ていました。
毎年行われているそうですが、これがなかなか面白かった!
一般に私たちが歴史で勉強している「時代」と、考古学上の時代は若干違います。
歴史上は・・
「縄文時代」→「弥生時代」→「古墳時代」→→→→→→「飛鳥時代」→「奈良時代」・・と進んでいきますが、
考古学上は・
「縄文時代」→「弥生時代・前期・後期」→→「古墳時代前期」→「中期」→「後期」→→「古代」・・となるそうです。
今回は藤沢の歴史の中でもとてもミステリアスな「古墳時代」です。
古墳時代は3世紀半ばから7世紀くらいまでの450年間、だいたい1,750年前から1,500年前の時代です。
ざっくり言うと、卑弥呼が魏の国に使者を送っていたのが239年、小野妹子が遣隋使として派遣されたのが607年、仏教伝来もこのころです。
・・ってことは仏教と一緒に沢山の人や物が大陸方面からやってきた時代だって言うことになりますね。
すごいなー!
あの日本海を、命の危険も省みずに木造の小さな船が沢山やってきたんですよ!これってすごいことじゃない!!・・と思っちゃうわけです。
特徴は「古墳」という名のとおり、「墳墓遺構」が作られた時代です。(前方後円墳とかが良く知られていますが、藤沢の古墳はみな円型の円墳です。)
弥生時代から古墳時代は、古代国家形成のときで、中心は2世紀後半あたりの奈良の大和盆地の「ヤマト王権」。
3世紀前半には、巨大は墳墓が奈良に作られています。
その後、全国に様々な大きさ・形の墳墓が波及していきます。これが古墳時代。
藤沢には約60箇所の古墳時代の遺跡が確認されていて、そのうち発掘されたもの、または記録のある古墳は10基(現存するもの1基を含む)です。
この時代の土器の特徴は面白い。
縄文土器の特徴は皆さんよくご存知の「縄目」が有名ですが、はっきりした太い線で単純なもようがかかれていることが多いです。
弥生時代は細かい線でシュシュと書かれた模様が多く、これがその時代の流行、いわゆる「いけてる土器」だったんだなー・・と思えます(w)
面白い試みとして、「触れる土器の破片」が用意されていました。
「ガラスの向こうの展示ばかりじゃよくわからない!」という主催者側の意図がとても素敵!
実際に触ってみたのは初めてですが、これがまた、暖かい!
素焼きの土器は、上薬が塗られていないからか陶器のような冷たい感じではなく、温度がある感じでビックリしました。
↑の、お写真は古墳時代の土器、2種類・・
左側・・「土師器(はじき)」
弥生時代からの流れを汲む土器。野焼きで800℃くらいで焼く開放型の焼き方で作るため、赤みを帯びた色合い。
クシのようなもので付けた線状の模様があるものも。
右側・・ 「須恵器(すえき)」
古墳時代中期以降。朝鮮半島からの技術伝播により、ろくろを使い、窯で焼かれる密閉型。灰色のような色合い。
土器の底部分が、大きさに比べて小さいことが多く、不安定なのでは?と、思っていたんですが、今回の展示で、かまどでの様子を再現しているコーナーがあり、こんなふうに↓使っていることがわかりました。
かまどの形をU字型に作って、そこを支えに立てかけたり、土器のうえにまた土器を重ねるために底部分が小さいのですね。
一つのかまどの火で熱を効率よく使っていたのがわかります。
実はこの古墳時代・・前述の通り、前期・中期・後期と分かれているのですが、中期が短く、この時代に藤沢周辺に人が急にいなくなってしまったことが集落の発掘からわかっています。
(弥生時代後期から古墳時代前期での集落跡の発掘は約40箇所、それに比べて中期は6箇所のみ。また弥生時代の集落跡は古墳時代前期の集落跡と重なり、ほぼ同じ場所で生活していたこともわかっている。)
つまり・・弥生時代後期からの流れで、古墳時代の前期には人々の生活は連綿と続いているのですが、中期になると突然減少し、また後期になると数を増やしていく・・このミステリアスな現象の原因はいまだ謎のままです。
地震?津波?噴火?疫病?・・歴史に答えはありません。推測するだけです(w)・・ソレが考古学の面白いところ。
土器についても、面白いことがわかります。
土器は普通、作られたところで使われ捨てられます。発掘してみると、古墳時代後期に入ると埼玉や静岡で作られた土器が一定量発掘されています。
後期から古代時代には、飛鳥の都周辺で作られた畿内産土師器やそれをまねた物もありました。
なにか中に入れられて品物の容器として移動したものか、はたまた土器そのものが売買されたものか、わかりませんが、舗装道路もなく車もなく、この壊れやすい土器が移動してきたことに、私はただただ展示品のまえで「はー!」とか「ほー!」とか関心してガラスにかぶりついていました。
もしかしたら、この古墳時代後期に(人口減少後に)藤沢に増えていった人達は・・・この土器を持参で、引っ越してきた遠方の人達だったのかもしれませんね・・。
この古墳時代後期の集落の遺跡には、「牧(まき)」といわれる馬の飼育場所があったようです。
なぜ、「馬の飼育場所」とわかるのか・・・
特徴は・・・・建物跡が細長くかまどがない。
入口が階段ではなく坂になっている。
建物の中央部分に長く馬の尿をためる溝が切られている。・・・・などです。
この時代の印象は、もっと原始的なのかと思っていましたが、人間の「生きる力」とはすごいものですね。
お散歩に行ったことがある新林公園の崖には、横穴墓が多数見つかっています。
横穴墓は崖などを掘って作ったお墓なので、当時の有力者であろう人物の骨も中から見つかっていて、ガラス玉や大刀(まっすぐな刀)も一緒に装飾品として発見されています。
今回の展示は、この発見された「金銅装・単鳳環頭大刀」(有形重要文化財)が修復されて展示されていました。
金銅製で、握り部分に飾りがついています。丸い輪の中には美しい鳳凰のすかし飾りがあります。
(複製)
このすかし飾りは同じようなものが県内でも20個ほどみつかっているようなので、時代の流行だったのか、もしかしたら、同じ人が作っていた作品(当時の流行ブランド?)だったりして?
・・・ね。考えるとすっごく面白いでしょ?(w)
1時間ほどの時間でしたが、古代ミステリーを楽しみました。
☆ ☆
そうそう。1854年の今日、11月5日は安政南海大地震が発生し、東海地方から九州までの太平洋側に倒壊、火災、津波などの大きな被害が出た日です。
安政南海地震(あんせいなんかいじしん)は、江戸時代後期の嘉永7年11月5日に発生した南海地震で、南海トラフ巨大地震の一つであす。
約32時間前には安政東海地震が発生しています。(東南海地震含む)
安政南海地震の2日後には豊予海峡でM 7.4の豊予海峡地震が発生。また翌年には安政江戸地震(M 6.9-7.4)が起きています。
本地震や安政東海地震は安政江戸地震と合わせて「安政三大地震」とも呼ばれています。
江戸時代には南海トラフ沿いを震源とする巨大地震として、この他に慶長9年(1605年)に起きた慶長地震、および宝永4年(1707年)の宝永地震の記録があります。
この地震に関しては記録や手紙が多く残っていて、吉原に泥水が吹き上がった(埋め立て地盤液状化現象か?)などもあります。
もっと古いところでは、明応7年(1498年)の9月20日にも明応地震があり、鎌倉の大仏のお社が流されているという記録があります。
そんな大きな地震や津波が、この古墳時代のミステリアスに関わっているのかも知れません。
そう考えると、意外と短いスパンで巨大地震が起こっていることに気が付きます。
地震・津波は日本とは切っても切れないもの、そう、「巨大地震・巨大津波は起こるもの」と捕らえて日本の展望を語らなくてはならない、ということです。
日本の政治家の皆さん、経済界の方々、原発推進派の方々、まさか知らないわけじゃないでしょうね・・。
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