大学進学で滋賀県にやってきたわけだが、もう驚くくらいに人身事故が多い。人身事故といってもここでは自殺を指す。
小学生の頃のわたしの「自殺」へのイメージは、なんでこんなことするのだろうか。迷惑だ、ただそれだけだった。これはわたしの小学生時代はあくまで幸せだったからなのだろう。そうでないとこんなに他人事のようなイメージは持たないはずだ。
しかしどうだ。中学生になって、「死にたい」と何度思ったことだろう。
その理由はだいたい察せると思うし、あえて書くようなことではないと思うから、書かない。
涙を流した数が数えきれない。両親に隠れて泣いたこともあった。中学校から帰ってきて夕方のリビングで。必ず両親のどちらかが帰ってくるまで泣きやむように。ゴミ箱に捨てた、涙を拭いたティッシュを隠すために上にいろいろ被せてカモフラージュさせたりしていたなぁ。
高校生になっても「死にたい」と思わなくなることはなくなった。ただ、回数は減ったかな。その理由もあえて書かないでおく。
自殺の話とは関係ないのだが、高校三年生の大学受験期、苦しかった。家に帰りたくなくて、塾は夜10時まで開いているのだが、ほぼ毎日10時までいることにした。家に帰って母の作る夕食に文句をつける父親の姿を見たくなかったから。父親のあらゆる愚痴を聞きたくなかったから。だから、塾が閉まるまでいた。もちろん勉強はちゃんとした。たとえ集中力がきれそうになっても、きれても、家には帰りたくなかった。別に成績がのびなやんだことを今さら父親のことや(他にも様々な要因があった)があったからとか誰かのせいにするのは違うと思うから、もう今はそこまで思うことはない。
そういえば、塾にほぼ毎日10時までいた理由を両親にまだ話したことないなぁ…。勉強頑張ってるね!って言ってくれていたけど、本当は違ったんだよ。
「自殺」の話からかなり話が逸れてしまった。けれど、大学生になって、変わったことがあるんだ。
小学生の頃と一転、中学生から高校生までは、「自殺する人は、悩みを吐き出せず抱え込み思い悩んだ末、自殺をするにいたった。きっとすごくすごく優しいひとだったんだろうなぁ」と、「自殺」という行為を肯定したり、自殺者に共感したりしていた。
しかし、今はちがう。大学生になって、自分の気持ちも大切だけど、色々な人の気持ちを考えるようになった。とある講義がきっかけで。
自殺が起こるということは、同時にいわゆるはねられたご遺体を処理する人もいるということだ。
自殺をした人や自殺をしようと考えている人の中にその人たちの気持ちを考えたことがある人がどれくらいいるだろう?
なによりも運転士の気持ち。彼ら彼女らの中には幼い頃から「車掌さんになりたい」という想いで運転士になる夢を叶えた人もいるだろう。そんな人たちの運転中、目の前に人が飛び込んでくる。そしてはねる。こんなもの誰が耐えられるというのだろう。
はねられた後のご遺体。これを処理する方々もいる。彼らの精神的苦痛はおそらく我々の想像を絶するものだろう。
だから今は「自殺という行為」に全く肯定できない。
自殺する人は優しい人だったのかもしれない。でもそれは自殺するその時まで。地獄の日々、散々悩んで、苦しみもがいて。
だけど、生きている人もいるんだよ。あなたと同じ状況で。嫌なら全て投げ出してみれば、なんて綺麗事なのは共感する。
私だって中学生の頃からずっと生きづらい。それでも今生きている。たったひとつの趣味のために。
こんなことを書いたら批判されるかもしれないけれど書く。私のブログだから。
「ほんとうにやさしいひとはしなない」
自殺の話はここまで。
話は変わって、この前YouTubeで、私の地元は和歌山県なのだが、紀南の田辺市の集落で暮らす「山奥ニート」の動画、大変見応えがあった。視聴してよかった。こんな暮らしもいいのかもしれないなぁ。
大切なのは勉強?ちがう。人との繋がりだ。19歳でようやく気づいた。どうしてこんなにも大切なことに今まで気づかなかったのだろう。
そうか、学校では教えてくれないからだ。