まだストックはたくさんあるので来年には訪韓を予定している。
今度のときは梁淳恵さんには1度電話をしなければならない。自宅は私が宿泊しているホテルから近いと聞いているがお元気にしておられるだろうか。
昨年、川にもどされた清渓川、この川を埋め立てして道路にする工事をしているときに韓国に行った梁淳恵さん。国家建設の槌音に震えたという。
こんな思いで北朝鮮に帰国した同胞が不憫でならない。
日本におればよかった。仕事を選ばなかったらなんでも仕事がある。食べていくことはできた。
なにより自分の言葉で話せて論議する自由があった。
梁淳恵さんをインタビューしながら分断国家のイデオロギーに振り回された世代だと痛感した。
生活保護受給者から北朝鮮に帰国させた当時の日本政府の責任もあると私は思っている。北朝鮮の状態を知っていて帰国させたことは大きな罪である。
日本に帰りたい人を戻せる運動をしてもらいたいものである。
そんなことをまた思い出してしまった。
1960年に私は高校に入学したが父親は何ヶ月か1度は私の本棚を見ていた。たぶん政治的、たぶん北朝鮮よりの本がないかと心配して本棚を調べていたと思う。それぐらい分断国家になって民団も総連からも極端に遠ざかった父だった。
しかしどちらの団体のことは所属していないのに実情はよく知っていた。
総連関係で活動する親戚は父の前で話をすることを躊躇した。
すこし話しただけで大方知っているとが読み取られているようだった。
父は私が雑誌記者になったころの1980年代、親戚の名前を名指しにして「あいつがきたら何も話すな」と強く私に注意した。
だから挨拶だけの付き合いになった。
結婚式でも親戚が集まるが親戚の中でも自然とグループに分かれていた。
そんな中で南北の分断を見て来た。何も話さないことは身を守る1つの知恵だった。まったく組織の活動は知らずに過ごしてきた。
縁があって民団新聞の記者をしているが関西地区の地方の記者である。
与えられた仕事を淡々とこなしている。詳細に内部事情をしらなくても仕事はできる。ただ淡々としてきた。
だから日本社会で生きる在日韓国人として南北の国家のあり方が客観的に見るのでよく見える。ただ在日韓国人の立場で発言することは控えてしまう。
父が民団にも総連にも所属しないで黙って生きてきた行動を見て育った私もそんなふうになっている。
日本で生きていく在日韓国人、声高にあげられないことがいっぱいあるという現実の中で生きている。
そんなことで昨日の訪問者の話は私には強烈だった。
たまげた。驚いた。
在日韓国人の人生は多様で個々に違う人生はその人、その人が大事な歴史の証人である、いつかはメモを取らせて下さいと言った。
私の半生なんてたいしたことない。
彼女にいった。わたしなんかたいしたことない。ホリペンペンイと言っていた。
今日夫は2時半の帰還、入麺作って夕食にしてしまった。夫はもう休んでしまった。私はこけからゆっくりテレビでも見るとしよう。
久しぶりにゆっくりとテレビも見られる。
明日からはまた忙しくなりそうだ。
今度のときは梁淳恵さんには1度電話をしなければならない。自宅は私が宿泊しているホテルから近いと聞いているがお元気にしておられるだろうか。
昨年、川にもどされた清渓川、この川を埋め立てして道路にする工事をしているときに韓国に行った梁淳恵さん。国家建設の槌音に震えたという。
こんな思いで北朝鮮に帰国した同胞が不憫でならない。
日本におればよかった。仕事を選ばなかったらなんでも仕事がある。食べていくことはできた。
なにより自分の言葉で話せて論議する自由があった。
梁淳恵さんをインタビューしながら分断国家のイデオロギーに振り回された世代だと痛感した。
生活保護受給者から北朝鮮に帰国させた当時の日本政府の責任もあると私は思っている。北朝鮮の状態を知っていて帰国させたことは大きな罪である。
日本に帰りたい人を戻せる運動をしてもらいたいものである。
そんなことをまた思い出してしまった。
1960年に私は高校に入学したが父親は何ヶ月か1度は私の本棚を見ていた。たぶん政治的、たぶん北朝鮮よりの本がないかと心配して本棚を調べていたと思う。それぐらい分断国家になって民団も総連からも極端に遠ざかった父だった。
しかしどちらの団体のことは所属していないのに実情はよく知っていた。
総連関係で活動する親戚は父の前で話をすることを躊躇した。
すこし話しただけで大方知っているとが読み取られているようだった。
父は私が雑誌記者になったころの1980年代、親戚の名前を名指しにして「あいつがきたら何も話すな」と強く私に注意した。
だから挨拶だけの付き合いになった。
結婚式でも親戚が集まるが親戚の中でも自然とグループに分かれていた。
そんな中で南北の分断を見て来た。何も話さないことは身を守る1つの知恵だった。まったく組織の活動は知らずに過ごしてきた。
縁があって民団新聞の記者をしているが関西地区の地方の記者である。
与えられた仕事を淡々とこなしている。詳細に内部事情をしらなくても仕事はできる。ただ淡々としてきた。
だから日本社会で生きる在日韓国人として南北の国家のあり方が客観的に見るのでよく見える。ただ在日韓国人の立場で発言することは控えてしまう。
父が民団にも総連にも所属しないで黙って生きてきた行動を見て育った私もそんなふうになっている。
日本で生きていく在日韓国人、声高にあげられないことがいっぱいあるという現実の中で生きている。
そんなことで昨日の訪問者の話は私には強烈だった。
たまげた。驚いた。
在日韓国人の人生は多様で個々に違う人生はその人、その人が大事な歴史の証人である、いつかはメモを取らせて下さいと言った。
私の半生なんてたいしたことない。
彼女にいった。わたしなんかたいしたことない。ホリペンペンイと言っていた。
今日夫は2時半の帰還、入麺作って夕食にしてしまった。夫はもう休んでしまった。私はこけからゆっくりテレビでも見るとしよう。
久しぶりにゆっくりとテレビも見られる。
明日からはまた忙しくなりそうだ。
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