春の雷が鳴り響いた。
これを春雷という。春を告げる雷だろうか。これから日差しは少しずつ初夏に近づいているのだろうか。今日は4月2日日曜日、朝から雨が降っている。そして日曜日久しぶりに仕事がなくて雨が降っている。こんなときは今までの疲れを休養するのに最適なのである。
晴れてくるとあれをしなきゃ、これをしなきゃと気持が落ち着かない。別に何もしないで体の休養と専念と決め込むが心の中はざわざわしている。
今日は朝7時半まで寝る。夫はすでに起きている。8時まで寝ようと思ったが落ち着いて寝ていることができない。起きて夫の日曜日の定番、インスタントラーメンに野菜をいっぱいいれたラーメンを作る。今日はもやしとにらをたっぷり入れた。
これを肴にして夫はビールを飲んでテレビを見ている。
しばらく夫と一緒にテレビを見ているが私はもう一度ふとんに入った。
ふとんの中で仰向けになって新聞を読んでいるときか1番至福の時間である。
居間で新聞を読むとテレビが気になって新聞に集中できない。それでふとんの中で新聞を読むようになった。
このままウトウトと寝てしまうこともある。
そんなとき春雷、春の雷が鳴り出した。
夫は居間にいたのでベランダ側にある部屋で寝ている私に言った。雷の音に「あー、びっくりしはた。お前のおならと思った」という。まさか冗談でもきつい。私はそんなアホなと思った。「雷の音」と言った。
雷の音に思い出すことがある。
22年も私の家にいた白と黒のツートン柄の猫が死ぬ時も夜中、すごい雷がなっていた。
佐紀町に住んでいたとき若い知人が訪ねてきて西大寺駅まで歩いて送っていくときだった。
当時は50ccのバイクを乗っていたので「ラッタター」を押しながら歩いていた。
二条町の住宅街まで来て奈良ファミリーの近くにきたとき停車している車の下から子猫がでてきた。
「ニャー」と鳴いて私にすりよってきた。私はそういえば何日か前に夢にでてきた白と黒ノツートンカラーの猫の出現に驚き思わず私は抱き上げてバイクの前の籠に乗せた。
私は子猫を連れて家に帰った。まず尿のしつけからして飼い出した。しばらく名前のない猫だった。ある日、息子の友だちが4・5人私の家に遊びにきた。(息子たちはそのとき小学校5年の春だったと思う)
そのとき1人の男の子が「パトカーみたいなツートンカラーみたいだな」と言った。
私はそのツートンが頭に響き名前をその場で「この猫の名前、ツートンにしょう」と言ってツートンとつけた。この人の母親は今も仲のよい女友達である。
ツートンの思い出はいっぱいあるので時に思い出して書いていくことにするが今日は雷のなった7月の深夜、死んだツートンを思い出したことを書いておく。
2001年、22年間私の家で過ごして老衰で腎臓を悪くして命を閉じた。
体調の悪いことに気がついた春ごろから動物病院につれていって注射をうったりしたが、獣医も22年間も生きていたのでこのまま自然死させたほうがいいと言う。特別の治療はしなかった。
亡くなる1週間前あたりになると歩くこともおぼつかなくなって私が連れて行っておしっこさせた。賢い猫で自分の便器のところでしかしなかった。ヨタヨタして歩いて尿をするのに見ていられなくて私が連れて行ってさせた。
ようやく命をはてるとき深夜だった。私は仕事をしてきて疲れていてそのまま眠ってしまった。しかし夫は夜中に目をさますと一瞬、目を開いてそのまま寝たようになったという。夫にお礼でもいっていたのだろうか。
この猫は私の家には福の招き猫だった。
この猫がきてから私の神経症の病気も治癒した。また普請の悪い家から奈良市内にあるマンションをローンだが購入して隙間風の入る家から脱出できた。
そしてまえからやりたいと思っていたペングループの活動も人の出会いでできた。そしてこれが縁で高校卒業だけの学歴の私が雑誌記者と編集者になった。
もちろん関係会社の新聞社や雑誌社も周りは大学卒ばかりでその軋轢で悩むことはあったがどうにかこうにか5年の勤務で実績をつくることができた。
当時、新聞記者が1人前になるのに7年かかると先輩たちが言っていた。まだまだ未熟だったが5年間の実績は後の仕事にいい意味で影響をしていった。
息子も普通の社会人になって家族を持ってそれなりに自立してくれた。
ツートンが我が家に福をもってきたと私は思っている。
夫は猫好きではなかったが私の家族の健康や仕事に福をもたらしたことにようやく気がついてくれたのだろうか。それとも飼っているうち情もわいてきたのだろうか。
けっこう可愛がっていた。食卓の横で夫のくれる刺身に足をそろえて行儀よく座っていたときのことも思い出している。長い間キャッツフードしか食べさせなかったがだんだん年をとるツートンに私も夫も甘くなってつい人間のたべる刺身をあげていた。これが命を縮めることにもなった。
私は夫にも息子にも言っていた。「うちの家に福を運んでくれた招き猫だ」
大事に大事に飼った。
マンションに引っ越してきて2回ほど外にでたが下の道路で震えていたところを隣の奥さんが見つけて私の家に連れてきてくれた。
このとき人間によほど悪いことされたのだろうか。それとも道路で走る車に恐れをなしたのか、それから外に絶対にでなくなった。家族以外の人がくると押入れに入って人が帰るまででてこなかった。
2001年7月、22年私の家での暮らしで命を閉じた。雷がなっていた。真夏の前触れの嵐の雷の音とともに昇天した。
ツートンは天理にある動物霊園で静かに眠っている。死んで1年間は何回か夫と墓地に訪れたが2年目からは行っていない。動物への愛情はこれでけじめをつけないと決めた。
そして死んだ後のことも考えてそれから2度と猫は飼わないと決めた。
いなくなって半年ほど夫はさびしかったのだろうか。会社の近くに真っ白な野良猫がいるといっていたが私は心を鬼にして「もう夫婦は年もとったし世話もできない。そして死んでいくのも大変だと知ったので飼わない」と言って飼わなくなって長い年月になろうとしている。
めったにふとんの中に入ろうとしなかったツートンはなぜか死ぬ前の半年ぐらいまえから私の肩の横に頭をおいて私の体をふれあうよにして寝ていた。
「もうじゃまやな」と何ども怒ったが自分の死期を知っていたのだろう。
今日は春雷、春の雷にツートンのことを思い出した。またマンションの住民も静かに見守ってくださったことなどいろんなことを思い出した。
これを春雷という。春を告げる雷だろうか。これから日差しは少しずつ初夏に近づいているのだろうか。今日は4月2日日曜日、朝から雨が降っている。そして日曜日久しぶりに仕事がなくて雨が降っている。こんなときは今までの疲れを休養するのに最適なのである。
晴れてくるとあれをしなきゃ、これをしなきゃと気持が落ち着かない。別に何もしないで体の休養と専念と決め込むが心の中はざわざわしている。
今日は朝7時半まで寝る。夫はすでに起きている。8時まで寝ようと思ったが落ち着いて寝ていることができない。起きて夫の日曜日の定番、インスタントラーメンに野菜をいっぱいいれたラーメンを作る。今日はもやしとにらをたっぷり入れた。
これを肴にして夫はビールを飲んでテレビを見ている。
しばらく夫と一緒にテレビを見ているが私はもう一度ふとんに入った。
ふとんの中で仰向けになって新聞を読んでいるときか1番至福の時間である。
居間で新聞を読むとテレビが気になって新聞に集中できない。それでふとんの中で新聞を読むようになった。
このままウトウトと寝てしまうこともある。
そんなとき春雷、春の雷が鳴り出した。
夫は居間にいたのでベランダ側にある部屋で寝ている私に言った。雷の音に「あー、びっくりしはた。お前のおならと思った」という。まさか冗談でもきつい。私はそんなアホなと思った。「雷の音」と言った。
雷の音に思い出すことがある。
22年も私の家にいた白と黒のツートン柄の猫が死ぬ時も夜中、すごい雷がなっていた。
佐紀町に住んでいたとき若い知人が訪ねてきて西大寺駅まで歩いて送っていくときだった。
当時は50ccのバイクを乗っていたので「ラッタター」を押しながら歩いていた。
二条町の住宅街まで来て奈良ファミリーの近くにきたとき停車している車の下から子猫がでてきた。
「ニャー」と鳴いて私にすりよってきた。私はそういえば何日か前に夢にでてきた白と黒ノツートンカラーの猫の出現に驚き思わず私は抱き上げてバイクの前の籠に乗せた。
私は子猫を連れて家に帰った。まず尿のしつけからして飼い出した。しばらく名前のない猫だった。ある日、息子の友だちが4・5人私の家に遊びにきた。(息子たちはそのとき小学校5年の春だったと思う)
そのとき1人の男の子が「パトカーみたいなツートンカラーみたいだな」と言った。
私はそのツートンが頭に響き名前をその場で「この猫の名前、ツートンにしょう」と言ってツートンとつけた。この人の母親は今も仲のよい女友達である。
ツートンの思い出はいっぱいあるので時に思い出して書いていくことにするが今日は雷のなった7月の深夜、死んだツートンを思い出したことを書いておく。
2001年、22年間私の家で過ごして老衰で腎臓を悪くして命を閉じた。
体調の悪いことに気がついた春ごろから動物病院につれていって注射をうったりしたが、獣医も22年間も生きていたのでこのまま自然死させたほうがいいと言う。特別の治療はしなかった。
亡くなる1週間前あたりになると歩くこともおぼつかなくなって私が連れて行っておしっこさせた。賢い猫で自分の便器のところでしかしなかった。ヨタヨタして歩いて尿をするのに見ていられなくて私が連れて行ってさせた。
ようやく命をはてるとき深夜だった。私は仕事をしてきて疲れていてそのまま眠ってしまった。しかし夫は夜中に目をさますと一瞬、目を開いてそのまま寝たようになったという。夫にお礼でもいっていたのだろうか。
この猫は私の家には福の招き猫だった。
この猫がきてから私の神経症の病気も治癒した。また普請の悪い家から奈良市内にあるマンションをローンだが購入して隙間風の入る家から脱出できた。
そしてまえからやりたいと思っていたペングループの活動も人の出会いでできた。そしてこれが縁で高校卒業だけの学歴の私が雑誌記者と編集者になった。
もちろん関係会社の新聞社や雑誌社も周りは大学卒ばかりでその軋轢で悩むことはあったがどうにかこうにか5年の勤務で実績をつくることができた。
当時、新聞記者が1人前になるのに7年かかると先輩たちが言っていた。まだまだ未熟だったが5年間の実績は後の仕事にいい意味で影響をしていった。
息子も普通の社会人になって家族を持ってそれなりに自立してくれた。
ツートンが我が家に福をもってきたと私は思っている。
夫は猫好きではなかったが私の家族の健康や仕事に福をもたらしたことにようやく気がついてくれたのだろうか。それとも飼っているうち情もわいてきたのだろうか。
けっこう可愛がっていた。食卓の横で夫のくれる刺身に足をそろえて行儀よく座っていたときのことも思い出している。長い間キャッツフードしか食べさせなかったがだんだん年をとるツートンに私も夫も甘くなってつい人間のたべる刺身をあげていた。これが命を縮めることにもなった。
私は夫にも息子にも言っていた。「うちの家に福を運んでくれた招き猫だ」
大事に大事に飼った。
マンションに引っ越してきて2回ほど外にでたが下の道路で震えていたところを隣の奥さんが見つけて私の家に連れてきてくれた。
このとき人間によほど悪いことされたのだろうか。それとも道路で走る車に恐れをなしたのか、それから外に絶対にでなくなった。家族以外の人がくると押入れに入って人が帰るまででてこなかった。
2001年7月、22年私の家での暮らしで命を閉じた。雷がなっていた。真夏の前触れの嵐の雷の音とともに昇天した。
ツートンは天理にある動物霊園で静かに眠っている。死んで1年間は何回か夫と墓地に訪れたが2年目からは行っていない。動物への愛情はこれでけじめをつけないと決めた。
そして死んだ後のことも考えてそれから2度と猫は飼わないと決めた。
いなくなって半年ほど夫はさびしかったのだろうか。会社の近くに真っ白な野良猫がいるといっていたが私は心を鬼にして「もう夫婦は年もとったし世話もできない。そして死んでいくのも大変だと知ったので飼わない」と言って飼わなくなって長い年月になろうとしている。
めったにふとんの中に入ろうとしなかったツートンはなぜか死ぬ前の半年ぐらいまえから私の肩の横に頭をおいて私の体をふれあうよにして寝ていた。
「もうじゃまやな」と何ども怒ったが自分の死期を知っていたのだろう。
今日は春雷、春の雷にツートンのことを思い出した。またマンションの住民も静かに見守ってくださったことなどいろんなことを思い出した。
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