夫と1時間、韓国テレビでバライテイー番組を見た。韓国ドラマにでているイケメン俳優2人をゲストに迎えての番組、韓国人の冗談を聞いているだけでも面白い。日本ではこんなやり取りはないのでありきたりの番組になっている。
会話術がないのかもしれない。会話術は韓国人が上手い。
これは在日韓国人社会の1世、2世の世界も同じである。
その会話術は上手い。私はそんなに話さないところもあったが在日韓国の中で取材するようになってピンポンのように会話ができるようになった。
その冗談の仕方も覚えた。
これがうるさいほど話すようになった。
朝9時から原稿1本作成して写真を送信して10時半過ぎに仕事は終えた。
そのかわり昨日は11時まで原稿を作成していた。
昨日は近鉄大阪上本町駅近くのホテルが現場。事前にインターネットでコンビニを検索するが見つからない。このホテルに何度も言っているのに目の前のコンビニに気がついていない。ホテルから宅急便を送ることにした。
それが着払いなのでまた編集局に連絡を入れないといけないがしかたがない。
会合の現場で資料をもう1部頂いて編集局に送る準備をした。
会場の会議室の外は節電で宛名を書いていると汗が流れてくる。
まちがった。仕方がない。フロントに行った。
書き直したがフロントは涼しい。
それがコンビニは出た道のすぐ側にあった。気がついていない。これから気をつけることにしよう。
朝10時から開かれていた会合だったが午後の部から取材、1人の講義が2時40分に終わった。10分の休憩を待って次の講義の写真を撮って退場をしょうと思ったが2時45分に会場を出た。
近鉄の上本町駅について3時38分の奈良行き特急券を買って駅構内の立ち食いうどんの店でざるそばを食べた。昼は行きつけの喫茶店でジャムトースト1枚食べたげだった。駅構内の書店で本の背表紙をみていて買わないでホームに下りた。椅子に腰掛けて15分ほど待った。
奈良に着くと4時10分、20分過ぎに中循環バスがあるのでスーパーに急いだ。夫のビールのつまみ、少し高い目のハムやウインナーにベーコンの塊を買った。急いでバス乗場に行くと中循環バスは春日大社前表参道を走行していた。あと3つの停留所を過ぎればバスがくるところだった。
自宅にもどると4時半、シャワーを浴びて簡単に夕食の支度をしてパソコンに座るが原稿を1本でも作ろうと思うが頭が回転しない。
夫が戻ってきたので夕食、終わってテレビ見て後片付けをすると9時、それからパソコンを開いて原稿1本作成した。写真も送って11時、このまま寝ればいいのにまたチュサンウクをインターネットで見たい。
お気に入りから引っ張り出して見ていない数々を見た。
家族のこと、お父さんが亡くなったこと、お母さんが公務員だったこと、そして姉と妹さんのことなど検索できて日常生活の一面が分かった。
幼い頃は韓国の瑞草区の瑞草洞に住んでいたという。韓国、ここに三豊百貨店が1989年に開店した。そのあの崩壊、1995年6月29日に崩壊したニュースは日本にも流れた。
1987年から1992年、日本に赴任していた韓国の知人は当時、この瑞草洞に住んでいた。何年間、ここに住んでいたのでひょっとしたら、この町でチュサンウクとすれ違っているかもしれない。
三豊百貨店の倒壊したときチュサンウクは高校1年だったという。倒壊した三豊百貨店の光景を見たという。はたして知人の子ども3人、どこかで一緒だったのではと思ったりしている。
今はここに住んでいない。蚕室である。
1995年といえば私は韓国に3度、訪問している。
母親の弟と妹を探しにでかけている。この間に韓国で在日韓国人教育者大会もあった。母親の弟と妹探しのために1週間ばかり滞在したことがあった。
また春には「板門店」を訪ねて、知人のいる慶州に行き1泊して母親の妹がいる釜山に向かった。釜山で京都に留学していた夫のために民団京都本部で働いていた奥さんたちと釜山であって母親の妹が住んでいる家を一緒に探してもらった。そんなことを思い出した。
こんなこと思い出しながらインターネットを見ていると時計は12時になった。あわててパソコンを切って床についたがなかなか寝られない。
夜、パソコンをすると目が冴えて寝られない。
12時半過ぎてからやっと眠りについた。
昨日は、朝9時前から身支度して行きつけの喫茶店についたのは10時15分、1時間ほど新聞を読んで11時過ぎに店を出た。
近鉄奈良から鶴橋に向かう。着くと12時、改札口を出て急いで韓国市場に行く。韓国海苔の購入、これを買うとまた急いで鶴橋駅に戻って上本町に向かう。
買ったものは駅のロッカーに入れて現場に向かった。
着くと12時半、頭上は真夏の太陽が照り付けて暑い。暑い。汗が顔から流れている。ハンカチはビショビショになっている。
暑い1日だった。今日も暑い。さてこれから昼食、何をしようか。
会話術がないのかもしれない。会話術は韓国人が上手い。
これは在日韓国人社会の1世、2世の世界も同じである。
その会話術は上手い。私はそんなに話さないところもあったが在日韓国の中で取材するようになってピンポンのように会話ができるようになった。
その冗談の仕方も覚えた。
これがうるさいほど話すようになった。
朝9時から原稿1本作成して写真を送信して10時半過ぎに仕事は終えた。
そのかわり昨日は11時まで原稿を作成していた。
昨日は近鉄大阪上本町駅近くのホテルが現場。事前にインターネットでコンビニを検索するが見つからない。このホテルに何度も言っているのに目の前のコンビニに気がついていない。ホテルから宅急便を送ることにした。
それが着払いなのでまた編集局に連絡を入れないといけないがしかたがない。
会合の現場で資料をもう1部頂いて編集局に送る準備をした。
会場の会議室の外は節電で宛名を書いていると汗が流れてくる。
まちがった。仕方がない。フロントに行った。
書き直したがフロントは涼しい。
それがコンビニは出た道のすぐ側にあった。気がついていない。これから気をつけることにしよう。
朝10時から開かれていた会合だったが午後の部から取材、1人の講義が2時40分に終わった。10分の休憩を待って次の講義の写真を撮って退場をしょうと思ったが2時45分に会場を出た。
近鉄の上本町駅について3時38分の奈良行き特急券を買って駅構内の立ち食いうどんの店でざるそばを食べた。昼は行きつけの喫茶店でジャムトースト1枚食べたげだった。駅構内の書店で本の背表紙をみていて買わないでホームに下りた。椅子に腰掛けて15分ほど待った。
奈良に着くと4時10分、20分過ぎに中循環バスがあるのでスーパーに急いだ。夫のビールのつまみ、少し高い目のハムやウインナーにベーコンの塊を買った。急いでバス乗場に行くと中循環バスは春日大社前表参道を走行していた。あと3つの停留所を過ぎればバスがくるところだった。
自宅にもどると4時半、シャワーを浴びて簡単に夕食の支度をしてパソコンに座るが原稿を1本でも作ろうと思うが頭が回転しない。
夫が戻ってきたので夕食、終わってテレビ見て後片付けをすると9時、それからパソコンを開いて原稿1本作成した。写真も送って11時、このまま寝ればいいのにまたチュサンウクをインターネットで見たい。
お気に入りから引っ張り出して見ていない数々を見た。
家族のこと、お父さんが亡くなったこと、お母さんが公務員だったこと、そして姉と妹さんのことなど検索できて日常生活の一面が分かった。
幼い頃は韓国の瑞草区の瑞草洞に住んでいたという。韓国、ここに三豊百貨店が1989年に開店した。そのあの崩壊、1995年6月29日に崩壊したニュースは日本にも流れた。
1987年から1992年、日本に赴任していた韓国の知人は当時、この瑞草洞に住んでいた。何年間、ここに住んでいたのでひょっとしたら、この町でチュサンウクとすれ違っているかもしれない。
三豊百貨店の倒壊したときチュサンウクは高校1年だったという。倒壊した三豊百貨店の光景を見たという。はたして知人の子ども3人、どこかで一緒だったのではと思ったりしている。
今はここに住んでいない。蚕室である。
1995年といえば私は韓国に3度、訪問している。
母親の弟と妹を探しにでかけている。この間に韓国で在日韓国人教育者大会もあった。母親の弟と妹探しのために1週間ばかり滞在したことがあった。
また春には「板門店」を訪ねて、知人のいる慶州に行き1泊して母親の妹がいる釜山に向かった。釜山で京都に留学していた夫のために民団京都本部で働いていた奥さんたちと釜山であって母親の妹が住んでいる家を一緒に探してもらった。そんなことを思い出した。
こんなこと思い出しながらインターネットを見ていると時計は12時になった。あわててパソコンを切って床についたがなかなか寝られない。
夜、パソコンをすると目が冴えて寝られない。
12時半過ぎてからやっと眠りについた。
昨日は、朝9時前から身支度して行きつけの喫茶店についたのは10時15分、1時間ほど新聞を読んで11時過ぎに店を出た。
近鉄奈良から鶴橋に向かう。着くと12時、改札口を出て急いで韓国市場に行く。韓国海苔の購入、これを買うとまた急いで鶴橋駅に戻って上本町に向かう。
買ったものは駅のロッカーに入れて現場に向かった。
着くと12時半、頭上は真夏の太陽が照り付けて暑い。暑い。汗が顔から流れている。ハンカチはビショビショになっている。
暑い1日だった。今日も暑い。さてこれから昼食、何をしようか。
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