鄭容順の直言!

日頃気が付いたこと徒然に。

午後3時過ぎたところです。

2010-12-03 16:15:53 | 直言!
冬の季節を思わせる風の強さ、ヒューヒューと聞こえてくる。
今日はゆっくり休みたいなと思っていたが電話で問い合わせる作業が入った。
11時半ごろから昼食をして12時ごろから休憩、新聞を読んだが2紙目は全部読めない。ウトウトと居眠りをするがすぐに眼が覚めた。
午後からしなければならない仕事があった。
この仕事がなかったらボチボチと原稿を作っていた。
1時に起きてテレビを15分ほど見ながらコーヒーを飲んだ。
それから電話取材や問い合わせする作業をした。
まず電話するところの電話とFAXをA4判の紙に大きく書く。
冊子の電話番号の記帳、文字が小さくて読めない。
1つ1つ、この作業をする。
とりあえず9ヶ所に電話をしないといけない。
電話をして電話・FAX番号の下の空白に電話をしながらメモを入れていく。
なんとか4ヶ所が終わった。
これをまたパソコン入力をして編集局に送信する。
次はまた5ヵ所の電話作業、終わるとパソコン入力をして編集局に送った。
さてこれから1日に取材した原稿を作らないといけない。
それが電話取材や問い合せをすると、ものすごくストレスがたまる。
とりあえず第1段階が終わったと、思ったら原稿作成にとりかかる意欲がわいてこない。
ぼんやりしている間、時間は過ぎていく。
とりあえず編集局には明日は現場があるので日曜日に作りますとメールで送信した。

昨日、脱北者と会った。
その話はけっして公にできないほど苦難の脱北である。
彼は話す。
けっして脱北者は日本人拉致被害者のことは多く語らないのに彼は話した。
日本人拉致被害者も取り返さないといけない。
日本の代表が行って知り戻してこないといけない。
それで現政権のふがいなさに残念がっているようだった。
多くの言葉を話さないが------。
しかし北朝鮮に帰国した人たちも日本に往来できるものにしないといけない。
全部が日本に戻ることは無理もある。
北朝鮮で結婚して家族もできている。
それぞれの事情がある。

韓国の新聞の記事に出ていた。
アメリカの誰かが予測したというもの。
北朝鮮の指導者が2015年という。その人の没後は3年後に崩壊するという。
そんなニュースが出ていたと話すと彼は5年と3年、8年は長いといった。
なぜ長いとは私は聞かなかったが-----。
それほど北朝鮮に帰国した同胞たちのことを思っているのだろう。
もし万が一、崩壊したら帰国した在日朝鮮人は日本に戻ってくるだろうかと私は聞いた。
彼は「いや。全部が事情があるので戻ることはできない。しかし往来することになるだろう」
この日を待ちわびている親や兄弟がいるだろう

高齢のハルモニが生野コリアタウンの御幸森神社前で1メートルにも満たない板の上に北朝鮮の食材を載せて売っていた。そのハルモニのことがまた脳裏に浮かんでくる。なぜあんなところに高齢者のハルモニが商いしているのだろうと家族の冷たさに不思議に思っていた。
10数年前に見たこの光景を韓国政府関係者に話したことがあった。
もう調査しておられた。
「北朝鮮に帰国した息子たちにお金を送るために食材を売っておられるです」と、聞いたとき、私は胸に大きい痛みを覚えた。
こんなことが日本の中であった。
また生野区のコリアタウンを歩く。
そこはかつて朝鮮総連活動をする人の多いところであった。
ある人に話しをしてあるところにいくとものすごく私を冷ややかな眼で見られる。この周りの何軒かがそうだった。
なぜかわからない。
しかしある日、在日同胞の男性にこの話をすると私が話した人はかつて朝鮮総連の活動者で帰国運動を推進された人とという。周りの地域の同胞は恨みつらみを持っておられるという。なるほど口に出さないが多くの苦悩を持って生きておられる。
この話を聞いて在日コリアンの中ではまだまだ南北分断国家の傷を引きずって生きていることを認識させられた。

もし今、父親が生きていたらと思う。
私が脱北者にあって取材をしている。
こんな話を聞いてきたと話せば父親はどんな言葉を発しただろうか。
政治的に絡む仕事は娘の身を考えていつも言っていた。
「いいかげんに仕事しとき」と。
この言葉はもう仕事はやめていいかげん専業主婦に戻ったらと言う意味なのかと思っていた。しかし年を重ねてくると一番、娘の身辺を心配してくれていたということが分かった。
父親自身が日本植民地支配下で日本の政治に翻弄された人生だったのか---。それも父親を見送ってから分かるようになった。
南北分断国家になってからは民族団体にも一切行かなかった。民族運動からも一切、手をひいて日本社会で生きた、日本の会社で定年まで働いて家族を支えてきた。稼ぎは母親の方が上だったが子どもの教育やしつけ、家の決まりごとなど父親がいたからできた。
そう思うとあれほど嫌いだった父親にどれほど民族をさらけ出して民族運動をしたかったかもしれないだろうと分かるようになった。
日本植民地支配で日本に翻弄された自身の人生、けっして日本は甘くないと考えていたのだろうか。娘には平凡に主婦に専念して生きてほしかったのかもしれない。しかし反面、自分がしたかった活動している娘の姿にまぶしく見ていたのかもしれない。
けれど父親は「いいかげんに仕事しとき」と口癖のように言っていた。
今、生きていればどんなことを言葉に出して教えてくれただろうか----。
そんなことを思った今日の日です。
さてこれから夕食の支度をしないといけない。
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