いよいよ冬の季節を迎えることになるのかと考えている。
いよいよ年末を意識しないといけない。
こんな年末に忙しい時に昨日、夫は何かを言っていた。
言っていた内容を忘れてしまったが年末に相応しくないものだった。
どこかに行きたいとかなんとか言っていたように思う。
私は思わず「何を考えているの。年末はすることは多いのに」と一蹴してしまった。
男性というのは家のことは何もしない。
どこで忙しいのもわからないのだろう。
女性はあれやこれやと考えている。
それに私は昨日、新年号企画が入って来週、再来週はこのために現場にいかないといけない。日々また追われていくのである。
それに家のこともある。
年賀状のプリントもしないといけないのに---。
そんなことで夫の気楽さにちょっと呆れていた。
今日は奈良の現場、クリスマス関係を取材して新年号企画の取材もしてくる。
9時過ぎにはパソコンを閉めないといけない。
バタバタするのがだんだん苦手になってきているのか、この頃は早い目に身支度をするようにしているが----。それでも時によってはバタバタしている。
昨日は風が強かった。
強い中でも新聞の購読の集金に来られる。
集金人の年末になると必ず言われる言葉、「年末まで集金に来ます」と言われる。
大方の人は月末の25日が給料日である。
私のところはずっと月末だった。
それで月初めに来てもらっていた。
現役を引退してもう何年もなるのに月末にこられると落ち着かない。
慣れとはこんなものかと思っている。
月半ばに年金を引き出しているのにそれで払えるのにどういうわけか月末にこられると落ち着かなくてつい、「月初めにして下さい」と言っている。
どうせ支払う物なのにと思うのに-----。
そんなことで月初めに来てもらっている。
それで年末になると集金人は必ず「月末にきてもいいですか」と。
それはそうですね。正月はゆっくり休みたいものですから。
今日は12月4日、県内在住の在日コリアンの子どもたちが奈良市内にある民団奈良県本部に来てのクリスマス会です。子どもたちは幼少から同胞と触れ合うところに参加して同胞の友だちを作っていく。
奈良県内の在日コリアンも世相にもれず大方、日本国籍を取っていく。
日本人との国際結婚も多く子どもたちはダブル国籍になっている。
22歳で国籍の選択をするが大方が日本国籍になっていく。
こんなことで在日コリアンの国籍は変化している。
新渡日の韓国人も日本人と結婚していくとたいていは日本国籍になっている。
20数年前だったら考えられない在日コリアンの有様である。
日本政府が在日コリアンに法的地位も日本人と同等にあって就職・入居差別もなかったら帰化していく人はこんなに多くなかったかもしれない。
差別や偏見を徹底しておいた日本政府、それで在日コリアンは日本で暮すには日本国籍に変えないと生きていけない先入観にとらわれて帰化をしていく。
いわゆる日本政府の狙った同化政策だったのかと思ってしまう。違いをみとめようとしない。
1965年の日韓国交正常化で当時の首相、佐藤栄作は韓国の交渉相手に言った言葉が残っている。20年後の協定永住問題を話し合うときである。
在日韓国人の法的地位などについて話し合うときに佐藤栄作が言った。
「20年後の在日韓国人はすべて帰化していてそのときは在日韓国人が存在していない」と。
しかし20年後の1985年当時、在日コリアンの大部分がまだ韓国籍・朝鮮籍だった。
そうした中で4世の誕生になり無国籍という問題が出てきて国籍問題が浮上してきた。
1980年代の後半は4世の国籍をどうするのか。この問題は在日コリアンの中で何度も何度も話し合われた。
そして「子々孫々までの永住権」を要請して在日韓国人の民族団体は問題提議をして大阪・東京では大きなデモを行った。
やっと話し合いの場になった。
1991年、当時の海部首相が韓国に訪問、当時の盧泰愚大統領と話し合いのテーブルについた。
そのときに取り決められたのが「日本植民地時代に渡日した在日韓国人の子々孫々までの永住権を付与する」となった。
永住権獲得運動に反対したのが朝鮮総連関係者だった。北朝鮮の支持でそうした活動をしていた。けっして韓国にも永住しないし北朝鮮の現状を知った在日朝鮮人も帰国しなかったのに-----。
これが「1991年問題」で在日韓国人の在留資格の問題、両国家政府代表が話し合ってようやく片付いた。そして朝鮮総連関係者も便乗する形で在留資格が子々孫々までとなった。
しかしここで在日コリアンの教師たちの立場が変わった。
当時はまだ教員採用に国籍条項があった。公務員も教員も採用されていなかった。しかし大阪は日本で在日コリアンの最多住地域で在日コリアンに対する人権問題は市民と一緒に在日コリアンは活発に活動していたので大阪府では何人か在日コリアン教師が採用されていた。
それで1991年を機会に教員採用に国籍条項が撤廃されたものの肩書きは「常勤講師」になった。この処遇は教師生活をする中で問題が多く生じている。
これを機会に採用された在日コリアンの教師も多く、肩書きは「常勤講師」、
教頭にも校長にもなれない。受験資格がなく定年まで昇進もない。
大阪府では独自に肩書きをつけて何らかの方法が取られている。
主任にもなれない。副主任にも問題が生じて今、神戸在住の在日コリアン教師の問題が浮上して未だ解決されていない。
弁護士も在日コリアンが採用されているものの調停委員にもなれない差別現象がそこにある。
佐藤栄作が言った「20年後には在日韓国人は帰化していて在日韓国人がいなくなっている」と。帰化をして日本国籍をとっていく者、そして日本人の婚姻で日本人になっていく子どもたちもいるが在日コリアン、韓国・朝鮮籍は589,239人、特別永住者416,309人、このうち日本人配偶者は21,990人(2009年8月現在―在日本大韓民国民団中央本部手帳から)。
国際結婚が10人に8人と言われているのに日本人配偶者が2万1990人、やはり日本人との結婚によって日本国籍をとっていく人が多いというのが統計から見えてくる。
そして新しい現実問題として北朝鮮から脱北して日本に戻ってきておられる在日朝鮮人が増加している。日本に戻ってこられると韓国籍に変えて日本で生活の糧を築いておられる。
今後の日本はこうした形の在日コリアンも増加して、さらに多様化した在日コリアンになっていく。脱北者の話を聞いていると未だに日本植民地支配は終わっていないと実感している。日本植民地支配に残した負の遺産、現実に未だにあることを日本人は認識してもらいたい。
韓流で韓国旅行をリピートする日本人の姿になおさら私は韓流に背中を向けている。
いよいよ年末を意識しないといけない。
こんな年末に忙しい時に昨日、夫は何かを言っていた。
言っていた内容を忘れてしまったが年末に相応しくないものだった。
どこかに行きたいとかなんとか言っていたように思う。
私は思わず「何を考えているの。年末はすることは多いのに」と一蹴してしまった。
男性というのは家のことは何もしない。
どこで忙しいのもわからないのだろう。
女性はあれやこれやと考えている。
それに私は昨日、新年号企画が入って来週、再来週はこのために現場にいかないといけない。日々また追われていくのである。
それに家のこともある。
年賀状のプリントもしないといけないのに---。
そんなことで夫の気楽さにちょっと呆れていた。
今日は奈良の現場、クリスマス関係を取材して新年号企画の取材もしてくる。
9時過ぎにはパソコンを閉めないといけない。
バタバタするのがだんだん苦手になってきているのか、この頃は早い目に身支度をするようにしているが----。それでも時によってはバタバタしている。
昨日は風が強かった。
強い中でも新聞の購読の集金に来られる。
集金人の年末になると必ず言われる言葉、「年末まで集金に来ます」と言われる。
大方の人は月末の25日が給料日である。
私のところはずっと月末だった。
それで月初めに来てもらっていた。
現役を引退してもう何年もなるのに月末にこられると落ち着かない。
慣れとはこんなものかと思っている。
月半ばに年金を引き出しているのにそれで払えるのにどういうわけか月末にこられると落ち着かなくてつい、「月初めにして下さい」と言っている。
どうせ支払う物なのにと思うのに-----。
そんなことで月初めに来てもらっている。
それで年末になると集金人は必ず「月末にきてもいいですか」と。
それはそうですね。正月はゆっくり休みたいものですから。
今日は12月4日、県内在住の在日コリアンの子どもたちが奈良市内にある民団奈良県本部に来てのクリスマス会です。子どもたちは幼少から同胞と触れ合うところに参加して同胞の友だちを作っていく。
奈良県内の在日コリアンも世相にもれず大方、日本国籍を取っていく。
日本人との国際結婚も多く子どもたちはダブル国籍になっている。
22歳で国籍の選択をするが大方が日本国籍になっていく。
こんなことで在日コリアンの国籍は変化している。
新渡日の韓国人も日本人と結婚していくとたいていは日本国籍になっている。
20数年前だったら考えられない在日コリアンの有様である。
日本政府が在日コリアンに法的地位も日本人と同等にあって就職・入居差別もなかったら帰化していく人はこんなに多くなかったかもしれない。
差別や偏見を徹底しておいた日本政府、それで在日コリアンは日本で暮すには日本国籍に変えないと生きていけない先入観にとらわれて帰化をしていく。
いわゆる日本政府の狙った同化政策だったのかと思ってしまう。違いをみとめようとしない。
1965年の日韓国交正常化で当時の首相、佐藤栄作は韓国の交渉相手に言った言葉が残っている。20年後の協定永住問題を話し合うときである。
在日韓国人の法的地位などについて話し合うときに佐藤栄作が言った。
「20年後の在日韓国人はすべて帰化していてそのときは在日韓国人が存在していない」と。
しかし20年後の1985年当時、在日コリアンの大部分がまだ韓国籍・朝鮮籍だった。
そうした中で4世の誕生になり無国籍という問題が出てきて国籍問題が浮上してきた。
1980年代の後半は4世の国籍をどうするのか。この問題は在日コリアンの中で何度も何度も話し合われた。
そして「子々孫々までの永住権」を要請して在日韓国人の民族団体は問題提議をして大阪・東京では大きなデモを行った。
やっと話し合いの場になった。
1991年、当時の海部首相が韓国に訪問、当時の盧泰愚大統領と話し合いのテーブルについた。
そのときに取り決められたのが「日本植民地時代に渡日した在日韓国人の子々孫々までの永住権を付与する」となった。
永住権獲得運動に反対したのが朝鮮総連関係者だった。北朝鮮の支持でそうした活動をしていた。けっして韓国にも永住しないし北朝鮮の現状を知った在日朝鮮人も帰国しなかったのに-----。
これが「1991年問題」で在日韓国人の在留資格の問題、両国家政府代表が話し合ってようやく片付いた。そして朝鮮総連関係者も便乗する形で在留資格が子々孫々までとなった。
しかしここで在日コリアンの教師たちの立場が変わった。
当時はまだ教員採用に国籍条項があった。公務員も教員も採用されていなかった。しかし大阪は日本で在日コリアンの最多住地域で在日コリアンに対する人権問題は市民と一緒に在日コリアンは活発に活動していたので大阪府では何人か在日コリアン教師が採用されていた。
それで1991年を機会に教員採用に国籍条項が撤廃されたものの肩書きは「常勤講師」になった。この処遇は教師生活をする中で問題が多く生じている。
これを機会に採用された在日コリアンの教師も多く、肩書きは「常勤講師」、
教頭にも校長にもなれない。受験資格がなく定年まで昇進もない。
大阪府では独自に肩書きをつけて何らかの方法が取られている。
主任にもなれない。副主任にも問題が生じて今、神戸在住の在日コリアン教師の問題が浮上して未だ解決されていない。
弁護士も在日コリアンが採用されているものの調停委員にもなれない差別現象がそこにある。
佐藤栄作が言った「20年後には在日韓国人は帰化していて在日韓国人がいなくなっている」と。帰化をして日本国籍をとっていく者、そして日本人の婚姻で日本人になっていく子どもたちもいるが在日コリアン、韓国・朝鮮籍は589,239人、特別永住者416,309人、このうち日本人配偶者は21,990人(2009年8月現在―在日本大韓民国民団中央本部手帳から)。
国際結婚が10人に8人と言われているのに日本人配偶者が2万1990人、やはり日本人との結婚によって日本国籍をとっていく人が多いというのが統計から見えてくる。
そして新しい現実問題として北朝鮮から脱北して日本に戻ってきておられる在日朝鮮人が増加している。日本に戻ってこられると韓国籍に変えて日本で生活の糧を築いておられる。
今後の日本はこうした形の在日コリアンも増加して、さらに多様化した在日コリアンになっていく。脱北者の話を聞いていると未だに日本植民地支配は終わっていないと実感している。日本植民地支配に残した負の遺産、現実に未だにあることを日本人は認識してもらいたい。
韓流で韓国旅行をリピートする日本人の姿になおさら私は韓流に背中を向けている。
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