マウスをもったまま居眠りをしている。このままこんなことをしているとパソコン機器をこわしてしまうと考えてそのままセットアップした。誤字がいっぱいあるだろう。
それから12時半に布団の中にはいったが今朝6時半まで目をさまさないでぐっと寝てしまった。
今朝は6時半で目がさめた
このまますっとおきればよいが30分ほど布団の中でウトウトしていた。来週も連日現場に入らなければならない。そんなことで少しでも体を休めておこうと思ってすぐにおきなかった。
それでも今日は2本の原稿を作って月曜日の連載も仕上げなければならない。
明日も明後日も連日大阪に入る。
昨日は京都国際高校になって初めての高校生の卒業生を送り出した。
1条校になって初めての卒業生である。
国際学校で日本人生徒も多くなってきた。そのために人権学習の中で差別をしない1人1人を認め合う学校教育を主眼として行われている。
昨日初めて卒業していく高校生、野球部を中心に元気だった。卒業証書で大きい声で在日同胞子弟は本名、日本人生徒は日本名で呼ばれたがみんな韓国語で「イエー」と答えた。その声は元気よく大きかった。
みんな驚いたがびっくりした。
生徒たちは元気に学び舎を去っていった。
卒業生の1人に「みんな元気だったね。どうして」と聞くと男子生徒の卒業生は「今年だけ」と言った。この言葉に校長への思いを知った。
校長はこの3月で退職をしていく。定年過ぎても1条校が軌道にのるまでということだったのだろう。そして1条校になって初めても卒業生を送り出す校長へのはなむけだったのだろう。元気に巣立つことを言いたかったのだろう。女子高校生は涙ぐんでいた。
校長の似顔絵はかきやすかったのだろうか。事務室に行くと校長の似顔絵がはってあった。あまりにもそっくりなのである。それもユーモラスに描いている。ユーモラスで上手くて見ると必ず噴出してそしてまじまじと見てしまう。私は校長に「よく似ていますね」といったらテレクサそうに「これ、生徒がかいたんや。よく見て描いているわ」と言った。
私はまた「ほんまにこの似顔絵うまいわ。よく似ているわ」と言ったら「もう何かんがえているのやろ」と呟いておられた。
私は校長が内心うれしかったのではと思っている。
現在、人の悪口をまかりとっているのにあんなに見る人を楽しませる似顔絵を描いてもらうことは校長冥利につきると思う。
あんなにユーモラスに描いた似顔絵はきっと生徒たちに愛されていたのだろう。そして校長も生徒たちを慈しんでこられたのだろう。
1960年 代に韓国ソウル大学に留学されて日本に戻ってきて京都韓国学校時代から教鞭をとられて36年、多くの在日同胞の生徒たちを教えてこられた。
私は最初、1988年から京都韓国学校時代からこの学校に入って現場取材をしてきたがこの校長はまだ教諭だった。目立たない教諭だった。しかし年齢を重ねて教務主任などの立場になると学校を思う気持ちが現れてその真摯にとりくんでおられる姿に親しみをもつようになった。
たぶん生徒たちもそうだったのだろう。
学校生活を送る中で真面目に在日同胞子弟に対する愛情が生徒たちにも響くものがあったのだろう。
そんな思いが今年の生徒たちは大きい声で返事をしていた。
特に野球部の生徒たちはまた格別な思いがあったのだろう。
そして理事長と校長の呼吸があって少しずつ国際学園にむかっていた。
京都市東山区本多山にある環境の素晴らしい学校で青春を過ごした生徒たちは大学や就職にと巣立っていった。
卒業生たちは「この学校にきてよかった」と話していた。
在日同胞の生徒たちは家庭でできなかった自分のアイデンテイテイーを見つめなおすことになりそして日本人生徒は韓国語を収得して次の人生の飛躍になることだろう。
昨日、送辞を読んだ中学生は日本人生徒である。
私は駐在の子どもかなと思ったら違った。日本人生徒である。
発音も的確に流暢な韓国語に参列者は驚いた。
学習をすれば努力をすれば日本人であってもできるのだ。
と、認識した。そして韓国語に努力をする真摯な日本人生徒に感動した。
確かに時代が変わってきた。
どこかでアジアの水が流れ出してきた。
それも韓国を軸にして水が流れ出した。
資本主義、民主主義、言論の自由の水が流れ出した。
人々はアジアの水を足で踏み出した。どこかで水車の音が聞こえる。
コトコトコットン、コトコトコットンと水車、アジアの水車が回りだした。
日本が歴史を変えないなら私たちが変えていく。そんな日本人生徒のはつらつとした韓国語の送辞だった。日本社会を私たちが変えていく。そんな力強いものを感じた。
在日同胞生徒と日本人生徒、きっと未来は韓国と日本に新しい水車の回る音を作ってくれるだろう。少なくともこの学校で外からきた人たちにもきちんと挨拶をする。韓国語で挨拶をする。
韓国の伝統、儒教の育んだ礼儀もちゃんと生かされている。
日本公立学校では見えないまた倫理感をみるようだった。
この学校は1951年、在日同胞のために創立された韓国系の民族学校である。先人たちの創立の精神を生かして韓国語を重要にして授業が行われているが多民族・多文化共存として1人1人の違いを認めていく人権教育もおこなわれている。
そして高校野球も年々たくましく強くなっている。日夜、生徒たちは一生懸命努力をしている。
何年もすればきっと水車の音の流れを変えてくれるだろう。
いくつものハーモニー、水車の音になることだろう。
元気だった高校生、そして校長の退職に感慨深いものがある。
しかしここまでくるのに1世たちの血と汗と涙のたゆまない努力の積み重ねでこの学校が運営され今日まできたことも言うまでもない。
それから12時半に布団の中にはいったが今朝6時半まで目をさまさないでぐっと寝てしまった。
今朝は6時半で目がさめた
このまますっとおきればよいが30分ほど布団の中でウトウトしていた。来週も連日現場に入らなければならない。そんなことで少しでも体を休めておこうと思ってすぐにおきなかった。
それでも今日は2本の原稿を作って月曜日の連載も仕上げなければならない。
明日も明後日も連日大阪に入る。
昨日は京都国際高校になって初めての高校生の卒業生を送り出した。
1条校になって初めての卒業生である。
国際学校で日本人生徒も多くなってきた。そのために人権学習の中で差別をしない1人1人を認め合う学校教育を主眼として行われている。
昨日初めて卒業していく高校生、野球部を中心に元気だった。卒業証書で大きい声で在日同胞子弟は本名、日本人生徒は日本名で呼ばれたがみんな韓国語で「イエー」と答えた。その声は元気よく大きかった。
みんな驚いたがびっくりした。
生徒たちは元気に学び舎を去っていった。
卒業生の1人に「みんな元気だったね。どうして」と聞くと男子生徒の卒業生は「今年だけ」と言った。この言葉に校長への思いを知った。
校長はこの3月で退職をしていく。定年過ぎても1条校が軌道にのるまでということだったのだろう。そして1条校になって初めても卒業生を送り出す校長へのはなむけだったのだろう。元気に巣立つことを言いたかったのだろう。女子高校生は涙ぐんでいた。
校長の似顔絵はかきやすかったのだろうか。事務室に行くと校長の似顔絵がはってあった。あまりにもそっくりなのである。それもユーモラスに描いている。ユーモラスで上手くて見ると必ず噴出してそしてまじまじと見てしまう。私は校長に「よく似ていますね」といったらテレクサそうに「これ、生徒がかいたんや。よく見て描いているわ」と言った。
私はまた「ほんまにこの似顔絵うまいわ。よく似ているわ」と言ったら「もう何かんがえているのやろ」と呟いておられた。
私は校長が内心うれしかったのではと思っている。
現在、人の悪口をまかりとっているのにあんなに見る人を楽しませる似顔絵を描いてもらうことは校長冥利につきると思う。
あんなにユーモラスに描いた似顔絵はきっと生徒たちに愛されていたのだろう。そして校長も生徒たちを慈しんでこられたのだろう。
1960年 代に韓国ソウル大学に留学されて日本に戻ってきて京都韓国学校時代から教鞭をとられて36年、多くの在日同胞の生徒たちを教えてこられた。
私は最初、1988年から京都韓国学校時代からこの学校に入って現場取材をしてきたがこの校長はまだ教諭だった。目立たない教諭だった。しかし年齢を重ねて教務主任などの立場になると学校を思う気持ちが現れてその真摯にとりくんでおられる姿に親しみをもつようになった。
たぶん生徒たちもそうだったのだろう。
学校生活を送る中で真面目に在日同胞子弟に対する愛情が生徒たちにも響くものがあったのだろう。
そんな思いが今年の生徒たちは大きい声で返事をしていた。
特に野球部の生徒たちはまた格別な思いがあったのだろう。
そして理事長と校長の呼吸があって少しずつ国際学園にむかっていた。
京都市東山区本多山にある環境の素晴らしい学校で青春を過ごした生徒たちは大学や就職にと巣立っていった。
卒業生たちは「この学校にきてよかった」と話していた。
在日同胞の生徒たちは家庭でできなかった自分のアイデンテイテイーを見つめなおすことになりそして日本人生徒は韓国語を収得して次の人生の飛躍になることだろう。
昨日、送辞を読んだ中学生は日本人生徒である。
私は駐在の子どもかなと思ったら違った。日本人生徒である。
発音も的確に流暢な韓国語に参列者は驚いた。
学習をすれば努力をすれば日本人であってもできるのだ。
と、認識した。そして韓国語に努力をする真摯な日本人生徒に感動した。
確かに時代が変わってきた。
どこかでアジアの水が流れ出してきた。
それも韓国を軸にして水が流れ出した。
資本主義、民主主義、言論の自由の水が流れ出した。
人々はアジアの水を足で踏み出した。どこかで水車の音が聞こえる。
コトコトコットン、コトコトコットンと水車、アジアの水車が回りだした。
日本が歴史を変えないなら私たちが変えていく。そんな日本人生徒のはつらつとした韓国語の送辞だった。日本社会を私たちが変えていく。そんな力強いものを感じた。
在日同胞生徒と日本人生徒、きっと未来は韓国と日本に新しい水車の回る音を作ってくれるだろう。少なくともこの学校で外からきた人たちにもきちんと挨拶をする。韓国語で挨拶をする。
韓国の伝統、儒教の育んだ礼儀もちゃんと生かされている。
日本公立学校では見えないまた倫理感をみるようだった。
この学校は1951年、在日同胞のために創立された韓国系の民族学校である。先人たちの創立の精神を生かして韓国語を重要にして授業が行われているが多民族・多文化共存として1人1人の違いを認めていく人権教育もおこなわれている。
そして高校野球も年々たくましく強くなっている。日夜、生徒たちは一生懸命努力をしている。
何年もすればきっと水車の音の流れを変えてくれるだろう。
いくつものハーモニー、水車の音になることだろう。
元気だった高校生、そして校長の退職に感慨深いものがある。
しかしここまでくるのに1世たちの血と汗と涙のたゆまない努力の積み重ねでこの学校が運営され今日まできたことも言うまでもない。
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