そして何行か書いていてこれはジャーナリスト・ネットに入れたほうがいいと考えて編集局との打ち合わせのメールそっちのけで急いで書き込んだ。
私の持っている知識はしれたもので著書を引っ張り出した。どの著書も記述されているがそれをあちらこちらと抜粋している時間がない。
それで無難に韓国政府発行の在日韓国人が国際教育振興院の語学留学で使用する「韓国史」の教科書から抜粋した。この教科書は上段がハングルで表記され下段7・8センチぐらいを利用して日本語で記述されている。
ハングルを読んで日本語を通して意味も理解していく教科書になっている。この教科書は韓国政府派遣教師から1冊頂いた。
私は現場取材をしていてもよほどのないかぎり記事を書いたからと言ってけっしてご相伴にもならない。また何がしのことも広告も一切しないときめている。韓国では新聞記者と食事も一緒にしたりして日本の新聞記者とまた違う環境にある。
しかし私は日本の雑誌記者時代の上司たちが教えてくれた現場の有様が在日韓国人社会でもそれを貫き通している。いいのか悪いのかわからないが私の生き方にしている。神経の病気になり治癒してこうして元気に働いている。それも多くの人に支えられて好きな仕事ができている。
私はこれが私の人生の中で還元する生き方と考えて元気になった私のほんのお返しのつもりだと思って働いた報酬は頂くがそれ以外のことはよほどのないかぎりしないと決めている。
そんなことで記事を書いてもなんの見返りも求めない私に韓国政府派遣教師が国際教育振興院で使用する「韓国史」の教科書を私に贈呈して下さった。頂いてずいぶんの年月は経っているが日本植民地時代の歴史記述はそう変わらないと考えて大切に保管している。何かの時にわかりやすく記述されているこの教科書を資料にしている。
この教科書を下さった教師はもう韓国に帰国された。
「この本、大切に使っています」と言いたい。
あわてて書き込んでさて写真の箱から写真を探す。展示館の中や記念館の外観も撮った写真が何枚もあるのに私の入った写真ばかりが残っている。
「えー。なんてこと」とがっくりする。
よくよく考えてみると独立記念館はほとんど仕事を兼ねて行ったもの。仕事で撮った写真は編集局にフイルムごと送達しているか自分で焼いた写真も仕事用だった。しかしいつか本に書き込むことはあるかもしれないと考えて大事な写真は別の箱に取って残していた。
それが昨年の部屋の模様替えに大掃除をして写真の入っている箱がいくつかあったのに中を確認しないで紐で縛って廃品回収用にまとめてしまった。
弟から借りた軽トラに全部載せてしまった。もうとっくにプレス機械で粉々にされてどこかの製紙原料扱いの商社に行っているだろう。
なんせ大掃除しているときはもう体はクタクタでへとへとである。とりあえず不用品と必要品を分けていく。そして収納を考えていく。
今日はこれだけしょう。今日はここを片付けていこうと。おおかた20数年の本や衣類、雑貨などを整理してパソコン置き場の模様替えをした。
そんなことであわててした大掃除で大事なものをなくしてしまった。
プライベートで独立記念館まで足を伸ばしたのは夫と一緒に行った大田博覧会の見学の時だった。それで記念に写真を撮った。
これも旅行会社がついてまわって撮る写真屋さんである。もうこのときは帰るときに高い写真代が撮られるので逃げ回って数が少ないがこの写真は撮っていた。
さて朝からネットで紹介するとさっそくまた韓国の水原で起きた事件の証言者のことが記述され証言者の写真も掲載されていた。
すごいジャーナリストに驚いた。
日本人ジャーナリストの取材に驚いた。
それも詳細に取材だった。
そしてまたしばらくしてネット代表の書き込みになった。
「3・1運動」を頭に記憶しておられる日本人に驚いた。
日本政府がこのことをきちんと把握してほしい。この気持ちでいっぱいである。けっしてこれは捏造でもない。実際にあった歴史史実である。
1919年2月28日、東京に留学していた学生が10数人(人数を記憶していなくて)が日比谷公園に集まって「独立宣言文」をひそかに読んだ。そして宣言文に血判が押された。これを持ってひそかに韓国ソウルに渡った。そして3月1日、タプコル公園で合流した韓国内外の独立運動家と一緒に独立万歳運動を宣言した。決議文に押された血判に独立運動の歴史を知らなくても先人たちが血と涙の苦闘の日本植民地時代を過ごしたことが知ることが出来る。
実際にあった話しである。
日本植民地支配をするときに朝鮮民族を劣悪な民族として啓蒙した当時の日本そして憲兵たちの行為もけっして許されるものではない。
こんな血判書をみたことのない人たちが「嫌韓流」の著書を書いているのだろう。
編集局の打ち合わせを放置したまま3・1節の原稿を書き込んでメールの受信をあけると案の定、編集局からのメール、次の記事についての打ち合わせでその対応に追われた
それに編集局から2月原稿掲載のメモがFAXで流れてくる。
この確認もしなければならない。
若い記者が圧倒的に数が多い。一瞬、ムカッとするがすぐに思いなおす。後輩育成に寄与していると思えばいい。と思うことにしている。
私は後何年、現場に入れるかわからない。体力の続く限り必要とされるかぎり現場に入って記事を書きたいと思っているがいずれ後継者に譲っていかなければならない。人材育成も大切な仕事、私に課せられた責任でもあると思っている。私を育てて下さった人に対しての恩返しでもある。
そうこうしているうちに2月の取材活動明細書をまだ作成していなかった。今夜から明日にかけて作成して上司に送信しなければならない。これも鞄づくりに集中していてうっかり忘れていた。いつもだったら月末の2・3日前に仕上げているのに------。1つすれば他のことを忘れている。もうあかんなと思う。
今日はあわただしく過ぎていく。服のリフオームするどころではなかった。
私の持っている知識はしれたもので著書を引っ張り出した。どの著書も記述されているがそれをあちらこちらと抜粋している時間がない。
それで無難に韓国政府発行の在日韓国人が国際教育振興院の語学留学で使用する「韓国史」の教科書から抜粋した。この教科書は上段がハングルで表記され下段7・8センチぐらいを利用して日本語で記述されている。
ハングルを読んで日本語を通して意味も理解していく教科書になっている。この教科書は韓国政府派遣教師から1冊頂いた。
私は現場取材をしていてもよほどのないかぎり記事を書いたからと言ってけっしてご相伴にもならない。また何がしのことも広告も一切しないときめている。韓国では新聞記者と食事も一緒にしたりして日本の新聞記者とまた違う環境にある。
しかし私は日本の雑誌記者時代の上司たちが教えてくれた現場の有様が在日韓国人社会でもそれを貫き通している。いいのか悪いのかわからないが私の生き方にしている。神経の病気になり治癒してこうして元気に働いている。それも多くの人に支えられて好きな仕事ができている。
私はこれが私の人生の中で還元する生き方と考えて元気になった私のほんのお返しのつもりだと思って働いた報酬は頂くがそれ以外のことはよほどのないかぎりしないと決めている。
そんなことで記事を書いてもなんの見返りも求めない私に韓国政府派遣教師が国際教育振興院で使用する「韓国史」の教科書を私に贈呈して下さった。頂いてずいぶんの年月は経っているが日本植民地時代の歴史記述はそう変わらないと考えて大切に保管している。何かの時にわかりやすく記述されているこの教科書を資料にしている。
この教科書を下さった教師はもう韓国に帰国された。
「この本、大切に使っています」と言いたい。
あわてて書き込んでさて写真の箱から写真を探す。展示館の中や記念館の外観も撮った写真が何枚もあるのに私の入った写真ばかりが残っている。
「えー。なんてこと」とがっくりする。
よくよく考えてみると独立記念館はほとんど仕事を兼ねて行ったもの。仕事で撮った写真は編集局にフイルムごと送達しているか自分で焼いた写真も仕事用だった。しかしいつか本に書き込むことはあるかもしれないと考えて大事な写真は別の箱に取って残していた。
それが昨年の部屋の模様替えに大掃除をして写真の入っている箱がいくつかあったのに中を確認しないで紐で縛って廃品回収用にまとめてしまった。
弟から借りた軽トラに全部載せてしまった。もうとっくにプレス機械で粉々にされてどこかの製紙原料扱いの商社に行っているだろう。
なんせ大掃除しているときはもう体はクタクタでへとへとである。とりあえず不用品と必要品を分けていく。そして収納を考えていく。
今日はこれだけしょう。今日はここを片付けていこうと。おおかた20数年の本や衣類、雑貨などを整理してパソコン置き場の模様替えをした。
そんなことであわててした大掃除で大事なものをなくしてしまった。
プライベートで独立記念館まで足を伸ばしたのは夫と一緒に行った大田博覧会の見学の時だった。それで記念に写真を撮った。
これも旅行会社がついてまわって撮る写真屋さんである。もうこのときは帰るときに高い写真代が撮られるので逃げ回って数が少ないがこの写真は撮っていた。
さて朝からネットで紹介するとさっそくまた韓国の水原で起きた事件の証言者のことが記述され証言者の写真も掲載されていた。
すごいジャーナリストに驚いた。
日本人ジャーナリストの取材に驚いた。
それも詳細に取材だった。
そしてまたしばらくしてネット代表の書き込みになった。
「3・1運動」を頭に記憶しておられる日本人に驚いた。
日本政府がこのことをきちんと把握してほしい。この気持ちでいっぱいである。けっしてこれは捏造でもない。実際にあった歴史史実である。
1919年2月28日、東京に留学していた学生が10数人(人数を記憶していなくて)が日比谷公園に集まって「独立宣言文」をひそかに読んだ。そして宣言文に血判が押された。これを持ってひそかに韓国ソウルに渡った。そして3月1日、タプコル公園で合流した韓国内外の独立運動家と一緒に独立万歳運動を宣言した。決議文に押された血判に独立運動の歴史を知らなくても先人たちが血と涙の苦闘の日本植民地時代を過ごしたことが知ることが出来る。
実際にあった話しである。
日本植民地支配をするときに朝鮮民族を劣悪な民族として啓蒙した当時の日本そして憲兵たちの行為もけっして許されるものではない。
こんな血判書をみたことのない人たちが「嫌韓流」の著書を書いているのだろう。
編集局の打ち合わせを放置したまま3・1節の原稿を書き込んでメールの受信をあけると案の定、編集局からのメール、次の記事についての打ち合わせでその対応に追われた
それに編集局から2月原稿掲載のメモがFAXで流れてくる。
この確認もしなければならない。
若い記者が圧倒的に数が多い。一瞬、ムカッとするがすぐに思いなおす。後輩育成に寄与していると思えばいい。と思うことにしている。
私は後何年、現場に入れるかわからない。体力の続く限り必要とされるかぎり現場に入って記事を書きたいと思っているがいずれ後継者に譲っていかなければならない。人材育成も大切な仕事、私に課せられた責任でもあると思っている。私を育てて下さった人に対しての恩返しでもある。
そうこうしているうちに2月の取材活動明細書をまだ作成していなかった。今夜から明日にかけて作成して上司に送信しなければならない。これも鞄づくりに集中していてうっかり忘れていた。いつもだったら月末の2・3日前に仕上げているのに------。1つすれば他のことを忘れている。もうあかんなと思う。
今日はあわただしく過ぎていく。服のリフオームするどころではなかった。
Sさんから民団新聞「千字文巨大緞帳」国連大学の記事
に「カッターシャツの捨てる布」と校正してFAXきました。
韓国霊巌王仁文化祭開幕セレモニーに「千人・千字文」
の企画書が届きましたので今からFAX送信しときます。