朝、今、夫の夕食を作った。
そしてパソコンの前にすわったのがいつもより20分遅くなって今7時42分。
9時には外出の支度をしないといけない。
木曜日連載の原稿を夕べに作っていたが夜中の12時になった。翌日のことがあるのでパソコンを閉じて休んだ。
今日は朝からずっと外出、自宅に戻るのが夜の10時前後になる。
その後自宅に戻っても木曜日連載の原稿はたぶん体力の限界と睡魔で作れないだろう。
明日の朝から仕上げて明日あげることにしよう。
今日の深夜にセットアップするのは無理だ。
そう考えると気が楽になった。
今夜はネットの会合がある。
昼間は地方紙の例会に参加する。
ここを終るのが2時過ぎである。
その後大和路快速で大阪にでないといけない。
木曜日の連載、前回に続いて「婚活」を書く予定だったが今回は昨日の夕刊を見ていて思いついた。
ネタ切れの時にまた「婚活」を書こう。
ネタ切れの時もある。このブログのようにだらだらと日常のことを書くわけにはいかない。
何かテーマを書いていくことで1つの形になっていくと考えている。
それにしても「花粉」が飛んでいるのがわかる。
もう私は2月に入ったころから目は痒い。鼻はズルズルでる。いつもより酷い。
東の山は春日大社から連なる山々が見えている。
目の前にすぐ見えるのでここから飛んでくるのだろう。
話は変るが間寛平がロスアンゼルスの港に今朝、3月11日、7時前後に着いた。
日本を出発して70日間、太平洋を横断していたという。元マネジャーと一緒に朝の7時前後に到着した。
思わず私は「偉いな。寛平ちゃん。ほんまに偉いな」と言いながらテレビをみていた。そしたら夫が横から水を指す。
「俺はそんなに偉くなくて悪かったな」と嫌味を言う。
私は「そんな問題と違う。口では簡単に太平洋横断というがそんな簡単なことと違う」と言ったら黙っていた。
そう。そんな問題と違う。寛平ちゃんのこのやる気、そして奥さんは寛平ちゃんを信じて送り出した夫婦愛、奥さんを説得した寛平ちゃんにまた心の中で「偉いな」と思った。
人を説得するのに我が身がまず家族にその意気込みを見せて家族に信頼をよせてももらう行いをしないといけない。
寛平ちゃんは真っ直ぐな性格で嘘も偽りもない。
思い込んだらそれに向かって努力をしている。これにまわりに説得力を与えていく。口でなくて行動で説得をしている姿に近年、寛平ちゃんの生き方に感動している人が多くなった。私もその1人である。
人間は顔ではない。まさに心だとまた痛感している。
寛平ちゃんごめん。木村拓哉みたいにイケメンじゃないのでごめん。
韓国の俳優で「砂に器」にでていた俳優みたいにイケメンではないのでごめん。
心の綺麗さに奥さんがずっと支えてこられたのが近年分かるようになった。
寛平ちゃんはまだ1度もあったことがないが会うとどこかに信頼関係が生まれるオーラーを持っているのだろう。
だから寛平ちゃんの周りの人は応援をしていくのだろう。
今回の世界一周に向かったその動機に「目立ちたいの」と言った言葉は人間本来持ち合わせている素直な気持をそのまま言葉にされた。
6時半ごろからテレビでは福留アナウンサーがロスアンゼルスで待ち受けている。一緒に長い間「波瀾万丈」の番組をしてきたので絆が深いのだろう。
ロスアンゼルスから第1報を中継する福留さんの声も寛平ちゃんの乗っているヨットがはるか向こうに見えると喜びで声が上ずっていた。
そして寛平ちゃんはまたこの後、陸地をマラソンして世界の街を駆け抜けていく。
無事に走り抜けてほしいと心から祈っていた。
マラソンで通過する街の人の声援が励みになります。
寛平ちゃんが走るというニュースを聞くと街の人たちはぜひ駆けつけて応援して下さい。
寛平ちゃん。けっこう孤独に強い人だけど本当はものすごく寂しがりや。孤独に打勝つためにマラソンをし出したように私は思える。
3月11日、ロスアンゼルスの港についてようやく陸地に日本の足を踏み入れた。
元マネジャーの助けは何より大きく支えになっただろう。
心の広い人のように思える。
双方のご家族の夫婦愛がテレビ中継の中、一瞬だったが見えた。
今時の若い夫婦の参考になればいいと思って見ていた。
夫婦は側にいなくても「あ・うん」の呼吸だということ。
そんなことをふと思ったロスアンゼルスの中継だった。
そんな私のところは双方言いたいこと言って暮らしている。
長いこと夫婦しているといろんなことがある。
もちつ、もたれつつできたように思う。
また今日は釜山で拉致被害者の田口さんたちが金賢姫さんと会見をされる。
国によって見解の相違はあるだろう。
しかし何の罪もない1人の母親を拉致して北朝鮮に連れて行ったことは普通考えると人間のすることではない。
しかし政治論理を哲学的に話す人が「革命のためなら何でもする」と言ったがしかしいくら「革命」と言ってもしていいことと悪いことがある。
拉致された家族の心の痛みは計り知れない。
普通一般はそう考える。
こんなことが行われていた日本海沿岸、時の日本政府も知っていたはずだと思うが何を黙認させたのか。日本の政治の一端にも責任がある。と、私は思ってしまう。
1960年代から1970年そして1980年前半、日本海や海外から拉致された日本人たち、やはり北朝鮮の国家体制に問題がある。
政治的なことはよく分からないがこれだけ浮上してきた拉致被害者の現実に目をそむけてはならないだろう。
鶴橋の町を歩くと1960年から1970年代のことがふと思う。
今でこそ韓流で多くの日本人が出入りしているが当時は在日コリアンがほとんどだった。見えない日本社会の裏側で日本全国にまたがって何をしていたのだろうか。
今でも鶴橋駅近くの喫茶店でコーヒーを飲みながら新聞を読んでいると断片的に聞こえてくる会話、繋ぎ合わせると小説になりそうな会話が聞こえてくる。
私はそれを元に何かを書こうという度量もないので新聞を読むことに集中しているので深い内容はわからない。
どの街でもそうだがいいことも悪いこともある。
しかし鶴橋の町はいい意味でも悪い意味でも魅力のある町、多くの人が訪れている。
この街で日本人と在日コリアンの人が出会って恋も生まれているだろう。
ソウルの南大門市場によく似たミニ市場、異国をおもわせるエキゾチックに街に魅せられて多くの人がやってきている。
そしてパソコンの前にすわったのがいつもより20分遅くなって今7時42分。
9時には外出の支度をしないといけない。
木曜日連載の原稿を夕べに作っていたが夜中の12時になった。翌日のことがあるのでパソコンを閉じて休んだ。
今日は朝からずっと外出、自宅に戻るのが夜の10時前後になる。
その後自宅に戻っても木曜日連載の原稿はたぶん体力の限界と睡魔で作れないだろう。
明日の朝から仕上げて明日あげることにしよう。
今日の深夜にセットアップするのは無理だ。
そう考えると気が楽になった。
今夜はネットの会合がある。
昼間は地方紙の例会に参加する。
ここを終るのが2時過ぎである。
その後大和路快速で大阪にでないといけない。
木曜日の連載、前回に続いて「婚活」を書く予定だったが今回は昨日の夕刊を見ていて思いついた。
ネタ切れの時にまた「婚活」を書こう。
ネタ切れの時もある。このブログのようにだらだらと日常のことを書くわけにはいかない。
何かテーマを書いていくことで1つの形になっていくと考えている。
それにしても「花粉」が飛んでいるのがわかる。
もう私は2月に入ったころから目は痒い。鼻はズルズルでる。いつもより酷い。
東の山は春日大社から連なる山々が見えている。
目の前にすぐ見えるのでここから飛んでくるのだろう。
話は変るが間寛平がロスアンゼルスの港に今朝、3月11日、7時前後に着いた。
日本を出発して70日間、太平洋を横断していたという。元マネジャーと一緒に朝の7時前後に到着した。
思わず私は「偉いな。寛平ちゃん。ほんまに偉いな」と言いながらテレビをみていた。そしたら夫が横から水を指す。
「俺はそんなに偉くなくて悪かったな」と嫌味を言う。
私は「そんな問題と違う。口では簡単に太平洋横断というがそんな簡単なことと違う」と言ったら黙っていた。
そう。そんな問題と違う。寛平ちゃんのこのやる気、そして奥さんは寛平ちゃんを信じて送り出した夫婦愛、奥さんを説得した寛平ちゃんにまた心の中で「偉いな」と思った。
人を説得するのに我が身がまず家族にその意気込みを見せて家族に信頼をよせてももらう行いをしないといけない。
寛平ちゃんは真っ直ぐな性格で嘘も偽りもない。
思い込んだらそれに向かって努力をしている。これにまわりに説得力を与えていく。口でなくて行動で説得をしている姿に近年、寛平ちゃんの生き方に感動している人が多くなった。私もその1人である。
人間は顔ではない。まさに心だとまた痛感している。
寛平ちゃんごめん。木村拓哉みたいにイケメンじゃないのでごめん。
韓国の俳優で「砂に器」にでていた俳優みたいにイケメンではないのでごめん。
心の綺麗さに奥さんがずっと支えてこられたのが近年分かるようになった。
寛平ちゃんはまだ1度もあったことがないが会うとどこかに信頼関係が生まれるオーラーを持っているのだろう。
だから寛平ちゃんの周りの人は応援をしていくのだろう。
今回の世界一周に向かったその動機に「目立ちたいの」と言った言葉は人間本来持ち合わせている素直な気持をそのまま言葉にされた。
6時半ごろからテレビでは福留アナウンサーがロスアンゼルスで待ち受けている。一緒に長い間「波瀾万丈」の番組をしてきたので絆が深いのだろう。
ロスアンゼルスから第1報を中継する福留さんの声も寛平ちゃんの乗っているヨットがはるか向こうに見えると喜びで声が上ずっていた。
そして寛平ちゃんはまたこの後、陸地をマラソンして世界の街を駆け抜けていく。
無事に走り抜けてほしいと心から祈っていた。
マラソンで通過する街の人の声援が励みになります。
寛平ちゃんが走るというニュースを聞くと街の人たちはぜひ駆けつけて応援して下さい。
寛平ちゃん。けっこう孤独に強い人だけど本当はものすごく寂しがりや。孤独に打勝つためにマラソンをし出したように私は思える。
3月11日、ロスアンゼルスの港についてようやく陸地に日本の足を踏み入れた。
元マネジャーの助けは何より大きく支えになっただろう。
心の広い人のように思える。
双方のご家族の夫婦愛がテレビ中継の中、一瞬だったが見えた。
今時の若い夫婦の参考になればいいと思って見ていた。
夫婦は側にいなくても「あ・うん」の呼吸だということ。
そんなことをふと思ったロスアンゼルスの中継だった。
そんな私のところは双方言いたいこと言って暮らしている。
長いこと夫婦しているといろんなことがある。
もちつ、もたれつつできたように思う。
また今日は釜山で拉致被害者の田口さんたちが金賢姫さんと会見をされる。
国によって見解の相違はあるだろう。
しかし何の罪もない1人の母親を拉致して北朝鮮に連れて行ったことは普通考えると人間のすることではない。
しかし政治論理を哲学的に話す人が「革命のためなら何でもする」と言ったがしかしいくら「革命」と言ってもしていいことと悪いことがある。
拉致された家族の心の痛みは計り知れない。
普通一般はそう考える。
こんなことが行われていた日本海沿岸、時の日本政府も知っていたはずだと思うが何を黙認させたのか。日本の政治の一端にも責任がある。と、私は思ってしまう。
1960年代から1970年そして1980年前半、日本海や海外から拉致された日本人たち、やはり北朝鮮の国家体制に問題がある。
政治的なことはよく分からないがこれだけ浮上してきた拉致被害者の現実に目をそむけてはならないだろう。
鶴橋の町を歩くと1960年から1970年代のことがふと思う。
今でこそ韓流で多くの日本人が出入りしているが当時は在日コリアンがほとんどだった。見えない日本社会の裏側で日本全国にまたがって何をしていたのだろうか。
今でも鶴橋駅近くの喫茶店でコーヒーを飲みながら新聞を読んでいると断片的に聞こえてくる会話、繋ぎ合わせると小説になりそうな会話が聞こえてくる。
私はそれを元に何かを書こうという度量もないので新聞を読むことに集中しているので深い内容はわからない。
どの街でもそうだがいいことも悪いこともある。
しかし鶴橋の町はいい意味でも悪い意味でも魅力のある町、多くの人が訪れている。
この街で日本人と在日コリアンの人が出会って恋も生まれているだろう。
ソウルの南大門市場によく似たミニ市場、異国をおもわせるエキゾチックに街に魅せられて多くの人がやってきている。
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