が、私は午後の分科会から参加した。会場に入ったのが12時15分ごろだった。ちょうど度昼食の時間だった。私は八木駅で簡単に済ませてきた。
1時の分科会まで時間があってロビーで待っていた。参加者もウロウロしている。
私の知っているおばさんがいた。久しぶりに会う。
もう年齢は80歳を越えているのに夜間中学で学んでおられる。
なつかしい。長いことお会いしていなかった。奈良で行なわれる在日韓国人の敬老会にもこの2年顔を出していないので会うことがなかった。
私が暮らした木津におられた。私は小学校1年に上る時に上狛から木津に引越しをした。おばさんは私が小学校5年のときに桜井に引越しをしていかれた。少しの期間だったがお世話になった。
引越しをする時何を思って泣いておられたのかそのときの光景を思い出してしまう。
外の水道のところで泣きながら釜に磨き砂をつけて磨いておられた。そのとき綺麗好きな人と子どもながら思った。そしたらやっぱり今も綺麗好きである。
展示会場でおばさんの判子、石に彫った判子、本名の1字「尚」の文字が掘ってあるがその文字がおばさんそのものの明るい文字の判子になっている。人の顔が笑っているように判子になっている。私はその展示会場の判子の画面に1人でくすくす笑っていた。おばさんらしい。
そしてロビーで会った。私はすぐに「おばさんの判子、おばさんらしいは。面白い判子」と言うと笑っていた。
そしておばさんは聞く。
「おかあちゃん。元気にしているか」
私は「もう亡くなりましたよ。今度の10月で丸3年になります」と言ったらびっくりしておられた。私の母もおばさんも周りが日本人で昔から住んでいる人の地域で暮らしてその付き合いに苦労された思う。
私が小学校4年から3年間、自転車の後ろに1斗缶を積んで豚の餌を取りにいっていたころおばさんは私の母親に言った。「あんな小さな子どもによく橋をこえて行かすな」と。何気なしに母親に言っているのを聞いたことがあった。
私の家は父親が日本の会社に勤めていたが本家の家で法事も多く親戚も多い。母親は廃品回収をして家計を助け3匹ばかりの豚を裏庭で飼ってこれも生計の足しにしていた。そのとき泉大橋を越えたすぐの魚屋さんに私は豚の餌として1週間に2・3度もらいに言っていた。これももう中学に行くと父親がやめさせたので行くことはなかった。今から考えると私の母親は長女の私をよくこきつかったと思っている。
桜井に住んでいた祖父が急に我が家にくると私は小学4年だったか5年だったのか、何もできなくておばさんを呼びに行って簡単な酒の肴を作ってもらったことがあった。
今日はなつかしく少し話しをした。
16歳に渡日した父親の姉も1年半前に亡くなったこと話しをするとびっくりしていた。私はおばさんに「母親は苦労して亡くなりましたが娘として悔いのないことはしました。戦争が終わって母親の家族は韓国に帰りました(母親は私がいたために日本に残った)その母親の親戚を韓国で私が探して釜山にいた妹を探しました。母親は車椅子で韓国にこられないので日本にきて1度あってほしいと言いましたら叔母さんは生きているうちに会わないといけないといって日本に来てくれました。54年ぶりの再会をして1週間母親の看病して韓国に帰りました。母親に生き別れになっていた妹にあわすことができて私は思いのことはありません」と言ったらおばさんは「いいことしてやった。よかったな」と褒めてくれた。おばさんなら私が釜山に探しに行った気持ちはきっと理解していると思う。私が長女で苦労した話をすると「あの時代、みんな苦労したやんで」という。
私が中1の時に弟ができてさらに長女の私が苦労したことはしらないと思う。もうすでに桜井に引越ししていたので。人づてに聞いて知っているかもしれない。
そんなことで私が木津にいたとき子どものころ、1番世話になったおばさん。今は夜間中学の生徒である。勉強が好きなおばさんと思っている。桜井から天理まで毎晩、灯りのついた学び舎に通学しておられる。
母親は長女の私をこきつかったが亡くなってしまうと親不孝だった娘だった今は思う。ただ釜山にいる妹を探したのはせめてもの私の親孝行だったと思っている。
今日は日曜日で夫が家にいたこともあって会場を途中で退席した。
夫の兄の子どもは夜間中学で教師をしているのでおばさんに伝言を頼んだ。
「本当は挨拶してかえらないといけないが早い目に帰りますが、いつまで元気で長生きして下さい」と伝えて下さいと言った。おばさんに本当は韓国語で「オレオレサセヨ、コンガンハセヨ(長生きして下さい。元気にして下さい)と言わなければならなかったが雪の降る橿原の町を急いで後にした。
おばさんは私の息子のことを聞いてくれた。
「孫が2人います。嫁さんは日本人です。沖縄でお酒の会社に勤めています」と話したら「そうか。孫がいるのか。よかった。今の世の中、日本人の嫁さんでもいい。孫がいてよかった」とすごい笑顔で喜んでくれていた。
おばさん。ありがとう。おばさんにほんま。息子も孫もみせたいくらい。けれどあんまり遠いところに行ってしまった。沖縄と言うところに。そして沖縄にいる息子に私の老後を心配して私に苦労かけた弟が「ねえちゃん。おれがなんかあったらちゃんとするからと言ってくれる」と言ったらおばさんはまたニコニコ笑っていた。あっそう。弟の嫁さんのこというものも忘れた。「何かあると奈良市内の用事で一緒に行く時は自宅まで車で迎えにきてくれる」ことも。これもいったらまたニコニコ喜んでくれただろうに。
そして夫のことを話した。「今日は自分の好きなてっちゃん(ホルモン)の油とりしているよわ」と言ったらおばさんは「だんなさん、大事にしいや」と。なんか私の母親から聞いている言葉と同じだった。おばさん。母親の言葉として胸に刻んでおきます。ありがとう。カムサハムニダ。
1時の分科会まで時間があってロビーで待っていた。参加者もウロウロしている。
私の知っているおばさんがいた。久しぶりに会う。
もう年齢は80歳を越えているのに夜間中学で学んでおられる。
なつかしい。長いことお会いしていなかった。奈良で行なわれる在日韓国人の敬老会にもこの2年顔を出していないので会うことがなかった。
私が暮らした木津におられた。私は小学校1年に上る時に上狛から木津に引越しをした。おばさんは私が小学校5年のときに桜井に引越しをしていかれた。少しの期間だったがお世話になった。
引越しをする時何を思って泣いておられたのかそのときの光景を思い出してしまう。
外の水道のところで泣きながら釜に磨き砂をつけて磨いておられた。そのとき綺麗好きな人と子どもながら思った。そしたらやっぱり今も綺麗好きである。
展示会場でおばさんの判子、石に彫った判子、本名の1字「尚」の文字が掘ってあるがその文字がおばさんそのものの明るい文字の判子になっている。人の顔が笑っているように判子になっている。私はその展示会場の判子の画面に1人でくすくす笑っていた。おばさんらしい。
そしてロビーで会った。私はすぐに「おばさんの判子、おばさんらしいは。面白い判子」と言うと笑っていた。
そしておばさんは聞く。
「おかあちゃん。元気にしているか」
私は「もう亡くなりましたよ。今度の10月で丸3年になります」と言ったらびっくりしておられた。私の母もおばさんも周りが日本人で昔から住んでいる人の地域で暮らしてその付き合いに苦労された思う。
私が小学校4年から3年間、自転車の後ろに1斗缶を積んで豚の餌を取りにいっていたころおばさんは私の母親に言った。「あんな小さな子どもによく橋をこえて行かすな」と。何気なしに母親に言っているのを聞いたことがあった。
私の家は父親が日本の会社に勤めていたが本家の家で法事も多く親戚も多い。母親は廃品回収をして家計を助け3匹ばかりの豚を裏庭で飼ってこれも生計の足しにしていた。そのとき泉大橋を越えたすぐの魚屋さんに私は豚の餌として1週間に2・3度もらいに言っていた。これももう中学に行くと父親がやめさせたので行くことはなかった。今から考えると私の母親は長女の私をよくこきつかったと思っている。
桜井に住んでいた祖父が急に我が家にくると私は小学4年だったか5年だったのか、何もできなくておばさんを呼びに行って簡単な酒の肴を作ってもらったことがあった。
今日はなつかしく少し話しをした。
16歳に渡日した父親の姉も1年半前に亡くなったこと話しをするとびっくりしていた。私はおばさんに「母親は苦労して亡くなりましたが娘として悔いのないことはしました。戦争が終わって母親の家族は韓国に帰りました(母親は私がいたために日本に残った)その母親の親戚を韓国で私が探して釜山にいた妹を探しました。母親は車椅子で韓国にこられないので日本にきて1度あってほしいと言いましたら叔母さんは生きているうちに会わないといけないといって日本に来てくれました。54年ぶりの再会をして1週間母親の看病して韓国に帰りました。母親に生き別れになっていた妹にあわすことができて私は思いのことはありません」と言ったらおばさんは「いいことしてやった。よかったな」と褒めてくれた。おばさんなら私が釜山に探しに行った気持ちはきっと理解していると思う。私が長女で苦労した話をすると「あの時代、みんな苦労したやんで」という。
私が中1の時に弟ができてさらに長女の私が苦労したことはしらないと思う。もうすでに桜井に引越ししていたので。人づてに聞いて知っているかもしれない。
そんなことで私が木津にいたとき子どものころ、1番世話になったおばさん。今は夜間中学の生徒である。勉強が好きなおばさんと思っている。桜井から天理まで毎晩、灯りのついた学び舎に通学しておられる。
母親は長女の私をこきつかったが亡くなってしまうと親不孝だった娘だった今は思う。ただ釜山にいる妹を探したのはせめてもの私の親孝行だったと思っている。
今日は日曜日で夫が家にいたこともあって会場を途中で退席した。
夫の兄の子どもは夜間中学で教師をしているのでおばさんに伝言を頼んだ。
「本当は挨拶してかえらないといけないが早い目に帰りますが、いつまで元気で長生きして下さい」と伝えて下さいと言った。おばさんに本当は韓国語で「オレオレサセヨ、コンガンハセヨ(長生きして下さい。元気にして下さい)と言わなければならなかったが雪の降る橿原の町を急いで後にした。
おばさんは私の息子のことを聞いてくれた。
「孫が2人います。嫁さんは日本人です。沖縄でお酒の会社に勤めています」と話したら「そうか。孫がいるのか。よかった。今の世の中、日本人の嫁さんでもいい。孫がいてよかった」とすごい笑顔で喜んでくれていた。
おばさん。ありがとう。おばさんにほんま。息子も孫もみせたいくらい。けれどあんまり遠いところに行ってしまった。沖縄と言うところに。そして沖縄にいる息子に私の老後を心配して私に苦労かけた弟が「ねえちゃん。おれがなんかあったらちゃんとするからと言ってくれる」と言ったらおばさんはまたニコニコ笑っていた。あっそう。弟の嫁さんのこというものも忘れた。「何かあると奈良市内の用事で一緒に行く時は自宅まで車で迎えにきてくれる」ことも。これもいったらまたニコニコ喜んでくれただろうに。
そして夫のことを話した。「今日は自分の好きなてっちゃん(ホルモン)の油とりしているよわ」と言ったらおばさんは「だんなさん、大事にしいや」と。なんか私の母親から聞いている言葉と同じだった。おばさん。母親の言葉として胸に刻んでおきます。ありがとう。カムサハムニダ。
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