それが今8時過ぎで雪雲なのか雨なのかまたどんよりして何も見えない。
昨日は夕食の後、少しテレビを見てから遅くまで現場取材の原稿作成とゲラのチェックをするともう11時半、それから昨日のブログを書きこんだ。
朝はテレビ番組を見て岩谷時子全集があると思っていたので見られたら見たいなと思っていた。そして夕食の後、夫は「今日は岩谷時子全集があるよ」と言って早々と床についた。言われたて見ると気になる。7時半にとりあえず原稿作成をひとまず置いてテレビを見た。
なつかしい映像と歌がでてきた。
越路吹雪さんのマネジャーをしていたことも宝塚で編集部員をしておられたこともこの番組で初めて知った。
ザピーナッツ全盛期の映像が流れる。
「ふりむかないで」「恋のバカンス」「ウナセラデセイ東京」も岩谷時子さんの作詞だった。また作曲もいいので歌は多くの人に親しまれた。
越路吹雪さんの歌は「愛の賛歌」「ろくでなし」「ラストダンスは私に」「サントワマミー」などこれも全部、岩谷時子さん作詞で岸洋子さんの「希望の歌」も岩谷時子さんだった。感性がその時代を先に走っていて世相が歌にのって追いついてきた。そんな感じがした。
顔立ちは普通の温厚そうな人柄に見えるが奥に秘めた心の琴線、感性は日本人離れをしていた。ソウル生まれといわれていたがこのところは多くは語らなかった。表向きらは分からないが歌手も俳優もお笑いタレントも芸能人の半分以上は在日コリアンである。在日コリアンの渡日史を理解しておられて多くは語らなかっただろうか。
青春ドラマの中で岡田河愛そして他の歌手の中で沢たまきもでていた。
岡田河愛は大阪市生野区に住んでいた。この間生野区に住んでいる人がこの近くに住んでいてよく知っていたと教えてくれた。
名前はここで挙げられないが芸能人の名前をあげるとほとんど在日コリアンである。そんなことを知っていてソウル生まれと言ったものの多くはこの番組で語らなかった。
ソウル生まれと親は西洋音楽が好きでフランス音楽をよく聞いていたという。そして自宅ちかくにあったに宝塚にもよく行ったという。
こうして岩谷時子さんの歌を聞いていると私の在りし日が物語になってつながってくる。
私の雑誌記者時代をつい思い出してしまった。
地方紙の報道カメラマンは地元で活躍するある音楽家に恋をしていた。生涯彼女に恋をして亡くなっていった。その間にたって私は彼女と彼のスキャンダル防止の柱になっていた。
彼はハンサムで周りの女性も結構騒いでいた。私も一時そんなことがあったが彼は彼女に恋をしていることで少し熱が冷めたことと私が在日韓国人の新聞社に転職してから疎遠になって彼と彼女から距離をおく日々が続いた。
そんなある日、訃報が届いた。彼が51歳でなくなった。今から6年前のことである。短い生涯だった。彼の欠点もたくさん知った。知ったら嫌になる人だったが死人にはクチナシである。いいことの思い出だけが浮かんでくる。
彼と彼女と私はカラオケにいくと彼は最初、決まって「琵琶湖就航歌」を歌った。そして彼女は越路吹雪の「ろくでなし」を歌った。そしたらどうですか。
彼は「愛の賛歌」を歌って彼女に切々と自分の思いを伝えました。その様子は彼から恋を聞かされている心の中が見て取れた。それを見ている私はアホみたいな道化師だった。
しかし彼が亡くなって今は考えが変った。
3人だけの共通の思い出を作ってくれたことに感謝をしている。
私の40代前後のほろ苦い思い出、彼が生きていれば今も彼に対する味方は違っていた。道化師の私が滑稽で自分で笑っていただろう。けれど今は地方紙の役員幹部になっているがかつて同僚だった人は私に言ってくれた。
「スキャンダル防止でもなんでもいい。一緒に活動できただけでもいいではないですか」この言葉に私ははっと胸が痛くなった。なるほど。今はいい思い出を作ってくれたと思うようになった。
だから夕べの岩谷時子全集で懐かしく懐かしく聴くことができた。
彼女は今も奈良県内で音楽活動をしている。
彼女がもう少し年を重ねた時にいつかは昼ランチをしながら昔の若いときの思いで話をしたいと思っている。
彼女のある公演舞台で前のほうに座っていた私は彼女の光る涙を見た。
「今年は大変な年でした。私をいつも応援して下さった方が亡くなりました」といいながら私の席の方を見た。そこに涙が光っていた。
もしといういろいろいろな障害がなかったら結婚していただろうと私は思う。結婚していたら彼の欠点も知っている私に彼女は愚痴をこぼしていたかもしれない。彼は外見が魅力的な人だったが中味はいろいろある。プライドが高くて人を寄せ付けない何かを持っていた。それが恋にわざわいしていたのだろうか。
容姿は現代版の光源氏みたいだった。それが容姿を一皮むけばここが嫌いというところも目についてくる。
雑誌記者をしているころは地元の人しか知らなかったので彼の欠点がみえなかったが在日韓国人の新聞社に転職して在日韓国人の寛容と感性の面白さそして韓国から赴任しておられるまた日本人と違う感性、話題はウイットに富んでいて日本人にない心の生き方にふれて一時は彼にのぼせていたがすーと冷めていった。
その後また多くの日本人に出会い世界にはばたいている日本人から見ると彼は小さかった。彼女が世界に目を向けていたので彼が小さく見えていたのだろうか。その彼がまわりにフアンが多かった。あれはなんだろう。
その光源氏も似た容貌だったのだろうか。
あっ。また。天の上から彼が怒鳴っている。
「うるさい。静かにせい。余計なこと知ったふりしてしやべるな。そんなことオレが1番知っている。知っているところをつかれるとまた男の沽券にかかわるので腹がたつ」と。
しかし優しいところもいっぱいあった。しかしその優しいところはすっかり忘れてしまった。
そしてもし生きていれば今も彼女の音楽活動を追いかけて蔭になり日なたになって応援していただろう。けれど周りは彼に対して「嫌い」と「好き」が2分化していただろう。それくらい彼は人間の好みも好き嫌いの裏表の激しい人だった。
また岩谷時子の歌をきいてこんなことを思い出していた。地方紙の会社の前も都市開発で整備されて奈良の町がどんどん変っている。残しておく大切さは彼は知っていたので生きていればこの整備している奈良の町の状況をいっぱい写真に撮っていただろう。
「ああ。なげかわしい町になってしもた」とぶつぶつ言いながら----。
そして神社仏閣も好きで「奈良はせやからええねん。宝物がいっぱいや」といいながらカメラを担いで宇陀あたりの自然に調和した神社仏閣を撮り続けていただろう。
死人にはクチナシ。いろんなこと書いてしまった。ごめんあそばせ。
昨日は夕食の後、少しテレビを見てから遅くまで現場取材の原稿作成とゲラのチェックをするともう11時半、それから昨日のブログを書きこんだ。
朝はテレビ番組を見て岩谷時子全集があると思っていたので見られたら見たいなと思っていた。そして夕食の後、夫は「今日は岩谷時子全集があるよ」と言って早々と床についた。言われたて見ると気になる。7時半にとりあえず原稿作成をひとまず置いてテレビを見た。
なつかしい映像と歌がでてきた。
越路吹雪さんのマネジャーをしていたことも宝塚で編集部員をしておられたこともこの番組で初めて知った。
ザピーナッツ全盛期の映像が流れる。
「ふりむかないで」「恋のバカンス」「ウナセラデセイ東京」も岩谷時子さんの作詞だった。また作曲もいいので歌は多くの人に親しまれた。
越路吹雪さんの歌は「愛の賛歌」「ろくでなし」「ラストダンスは私に」「サントワマミー」などこれも全部、岩谷時子さん作詞で岸洋子さんの「希望の歌」も岩谷時子さんだった。感性がその時代を先に走っていて世相が歌にのって追いついてきた。そんな感じがした。
顔立ちは普通の温厚そうな人柄に見えるが奥に秘めた心の琴線、感性は日本人離れをしていた。ソウル生まれといわれていたがこのところは多くは語らなかった。表向きらは分からないが歌手も俳優もお笑いタレントも芸能人の半分以上は在日コリアンである。在日コリアンの渡日史を理解しておられて多くは語らなかっただろうか。
青春ドラマの中で岡田河愛そして他の歌手の中で沢たまきもでていた。
岡田河愛は大阪市生野区に住んでいた。この間生野区に住んでいる人がこの近くに住んでいてよく知っていたと教えてくれた。
名前はここで挙げられないが芸能人の名前をあげるとほとんど在日コリアンである。そんなことを知っていてソウル生まれと言ったものの多くはこの番組で語らなかった。
ソウル生まれと親は西洋音楽が好きでフランス音楽をよく聞いていたという。そして自宅ちかくにあったに宝塚にもよく行ったという。
こうして岩谷時子さんの歌を聞いていると私の在りし日が物語になってつながってくる。
私の雑誌記者時代をつい思い出してしまった。
地方紙の報道カメラマンは地元で活躍するある音楽家に恋をしていた。生涯彼女に恋をして亡くなっていった。その間にたって私は彼女と彼のスキャンダル防止の柱になっていた。
彼はハンサムで周りの女性も結構騒いでいた。私も一時そんなことがあったが彼は彼女に恋をしていることで少し熱が冷めたことと私が在日韓国人の新聞社に転職してから疎遠になって彼と彼女から距離をおく日々が続いた。
そんなある日、訃報が届いた。彼が51歳でなくなった。今から6年前のことである。短い生涯だった。彼の欠点もたくさん知った。知ったら嫌になる人だったが死人にはクチナシである。いいことの思い出だけが浮かんでくる。
彼と彼女と私はカラオケにいくと彼は最初、決まって「琵琶湖就航歌」を歌った。そして彼女は越路吹雪の「ろくでなし」を歌った。そしたらどうですか。
彼は「愛の賛歌」を歌って彼女に切々と自分の思いを伝えました。その様子は彼から恋を聞かされている心の中が見て取れた。それを見ている私はアホみたいな道化師だった。
しかし彼が亡くなって今は考えが変った。
3人だけの共通の思い出を作ってくれたことに感謝をしている。
私の40代前後のほろ苦い思い出、彼が生きていれば今も彼に対する味方は違っていた。道化師の私が滑稽で自分で笑っていただろう。けれど今は地方紙の役員幹部になっているがかつて同僚だった人は私に言ってくれた。
「スキャンダル防止でもなんでもいい。一緒に活動できただけでもいいではないですか」この言葉に私ははっと胸が痛くなった。なるほど。今はいい思い出を作ってくれたと思うようになった。
だから夕べの岩谷時子全集で懐かしく懐かしく聴くことができた。
彼女は今も奈良県内で音楽活動をしている。
彼女がもう少し年を重ねた時にいつかは昼ランチをしながら昔の若いときの思いで話をしたいと思っている。
彼女のある公演舞台で前のほうに座っていた私は彼女の光る涙を見た。
「今年は大変な年でした。私をいつも応援して下さった方が亡くなりました」といいながら私の席の方を見た。そこに涙が光っていた。
もしといういろいろいろな障害がなかったら結婚していただろうと私は思う。結婚していたら彼の欠点も知っている私に彼女は愚痴をこぼしていたかもしれない。彼は外見が魅力的な人だったが中味はいろいろある。プライドが高くて人を寄せ付けない何かを持っていた。それが恋にわざわいしていたのだろうか。
容姿は現代版の光源氏みたいだった。それが容姿を一皮むけばここが嫌いというところも目についてくる。
雑誌記者をしているころは地元の人しか知らなかったので彼の欠点がみえなかったが在日韓国人の新聞社に転職して在日韓国人の寛容と感性の面白さそして韓国から赴任しておられるまた日本人と違う感性、話題はウイットに富んでいて日本人にない心の生き方にふれて一時は彼にのぼせていたがすーと冷めていった。
その後また多くの日本人に出会い世界にはばたいている日本人から見ると彼は小さかった。彼女が世界に目を向けていたので彼が小さく見えていたのだろうか。その彼がまわりにフアンが多かった。あれはなんだろう。
その光源氏も似た容貌だったのだろうか。
あっ。また。天の上から彼が怒鳴っている。
「うるさい。静かにせい。余計なこと知ったふりしてしやべるな。そんなことオレが1番知っている。知っているところをつかれるとまた男の沽券にかかわるので腹がたつ」と。
しかし優しいところもいっぱいあった。しかしその優しいところはすっかり忘れてしまった。
そしてもし生きていれば今も彼女の音楽活動を追いかけて蔭になり日なたになって応援していただろう。けれど周りは彼に対して「嫌い」と「好き」が2分化していただろう。それくらい彼は人間の好みも好き嫌いの裏表の激しい人だった。
また岩谷時子の歌をきいてこんなことを思い出していた。地方紙の会社の前も都市開発で整備されて奈良の町がどんどん変っている。残しておく大切さは彼は知っていたので生きていればこの整備している奈良の町の状況をいっぱい写真に撮っていただろう。
「ああ。なげかわしい町になってしもた」とぶつぶつ言いながら----。
そして神社仏閣も好きで「奈良はせやからええねん。宝物がいっぱいや」といいながらカメラを担いで宇陀あたりの自然に調和した神社仏閣を撮り続けていただろう。
死人にはクチナシ。いろんなこと書いてしまった。ごめんあそばせ。
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