鄭容順の直言!

日頃気が付いたこと徒然に。

今日は晴れている。

2007-03-26 17:21:22 | 直言!
またいろいろ動かなければならない。
今日は新聞1紙読むと睡魔で寝てしまった。1時半ごろから3時まで寝てしまった。
疲れているのだろうか。
おきてメールをあけると仕事の連絡のメールが入っている。
明日も入っていたが明日は膝治療の注射のために若い記者にと編集局に要請した。いけないこともないが病院でイライラして待つのが目に見えて分かる。またどうしてもの時は予約変更もするが明日の件は若い記者でも充分である。変わったことがあれば後日、また私が企画取材すればいいことなので明日は病院にいくことにした。

夜の取材は苦手だなと思い若い記者に任せているところもあったが私が大阪に入らないことが多くなってくると企画取材の見落とし、情報収集ができていないこぼれ話が目についてきた。
やはり夜の取材も入らないと見落としも多いことに気がついてはいらなければならない。1人でも多くの在日同胞の活動をとりあげていい紙面をつくっていくのに見落としてきたものを収集していかなければならない。

必要とされている間はありがたいと思っている。
こんなこと誰でもできる。訓練すれば出来る。
新聞記者というその姿勢がどこまで信頼してもらえるのか。それしかない。先輩がたくさんおられるので私がこんなこというのは恥ずかしさを感じるが日本の報道記者も在日韓国人の報道記者も仕事をする方法は同じだが内容である。書き方にかかっている。
日本の報道記者は日本の利益になるように書けばいいが在日同胞の中では日本社会に対してどこが矛盾でその課題は何か。それをどうしていくのか。ここに原点がある。ここを理解するまで私は少しの時間がかかった。
雑誌記者から転職して在日韓国人の新聞社の記者になって仕事の方法は同じだった。内容が違った。よく失敗した。
2回、編集局長直に電話をもらって怒られた。忘れもしない
1回目は韓・中・日本の宝物展に取材で入って撮影した写真が圧倒的に中国と日本の宝物が多くて編集局はあきれかえったという
新聞社の立場から考えて韓国の宝物を中心に撮影をしないといけなかった。
もう1つは地場産業をする在日同胞の連載企画の記事で桜井市の杉皮の蒸し、縄ないの業種の1つで2世の男性を訪ねた。夕方、お風呂に入ってくつろいでおられて甚平を着ておられた。その甚平を着た写真を撮ってかえった。
そして編集局長に「君はいったい何人や。あれは日本の着物や。あれはあかん」と怒られた。そしてそれも工場の印刷に入ってから気がついた。当時は日刊紙だった。左側の大きい枠で取った連載記事、差し替えもできない。
工場で困った。困ったになった。どうしても甚平さんが駄目だと言う。1989年か90年ごろの話である。
そして甚平さんの写真をどうしたかというと誰かのカッターシャツの写真と合成してカッターシャツの写真に仕上げた。当時はまだパソコン技術で新聞のレイアウトほしていなかった。どうしてしたのかわからないが----。
編集局長直接の電話に落ち込んだ私にデスクたちが励ましたてくれた。
「見込みがあるからそうして怒ってくれる。めったに直に電話をしない編集局だからその電話は悪い意味にとらないでこれから注意して下さい」と言ってくれたのが現在、民団新聞の編集局の直接の担当デスクになっている。
失敗はたくさんした。そのたびにまわりが支えてくれた。
多くの人に支えてもらってきた。

高校の同級生たちは「仕事を貫いたから一生の仕事になった」と私に言う。私は心の中で「そうじゃない。私1人でできた仕事ではない」と思っているが説明するのが面倒で黙っている。
書くことにこだわり地方紙の投稿から始まり趣味で書いていたものが仕事になると厳しくその道は平坦ではなかった。
書くことが好きだから続けられたこともあるがやはり周りの多くの支えがあって継続できて仕事ができたと思っている。この気持ちはずっと持ち続けている。
(家族も支えてくれた)
そして雑誌記者時代もそうだったが情報収集の大切さを教わった。
そして在日韓国人の新聞記者になっても顔つなぎの大切さを教わった。顔をつないでおくと向こうから情報が入ってくるということも教わった。
それともう1つ、「1行でもホロリとさせる記事を作る」この大切さも教わった。在日韓国人の新聞記者になったとき右も左も分からないのに飛び込んでいった。
緊張と不安で飛び込んでいった。そのときの地方紙の社長はまたお世辞でも私に励ましの言葉を言ってくれた。
私は雑誌記者を退職するときに挨拶に行った。
私は「在日同胞のことは何もしりません。それがただ心配です」と言ったら「君ならやれる。大丈夫」と言葉をかけてくれた。これもお世辞にしても私の心の励みになった。
在日韓国人の新聞記者になって失敗ばかりしていて落ち込んでいたときもあったが心の底で「日本人のふりをして日本人の記事を書きたくない」が私を前に前に向かわせた。そして多くの人たちに支えられて続けることができた。続けていくうちにいろんなものが見えてきて記者という仕事の方法も内容も少しずつ前に進めていくことが出来るようになった。「本人のやる気」と「好き」と後は周りが見守ることも大切である。
先日も高校時代の同級生にも言われた。電話で「まだ仕事しているの」と聞く。私は「まだしている」というと同級生は「そうか。すごいわ。ヒラカワはその仕事を貫いたからできたんや」と言う。電話では「いいえ。みんなのお陰で続けることができました」と言うがそれ以上説明するのも面倒だし時間がもったいないので黙っているが私の心の中では周りが多くの人が育ててくれたと私は思っているので「貫いた」ということばに違和感がある。
若い記者もなるべく育てていかないといけないと思っているので任せているが時々は私もしないといけない。
在日同胞が地域で活躍している人たちをたくさん見落としてきた。
先日、24日に百済史跡めぐりに入っただけでも3・4本の落ちこぼれがあった。それも大事なことばかりだった。
少しは夜も入らないと見落としがあるのでまたえっちらおっちらと夜の街を歩くことになる。




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