9時半からの建物探訪である。
7月から8月半ばまで、高校野球中継で番組がなかった。
高校野球が終わるとずっと取材が入っていて外出するまでパソコンの前にいてあわただしく身支度をしていく生活だった。
久しぶりに土曜日の現場がない。
明日の日曜日は現場が入っている。夕方からだが少し見学させてもらって帰ってくることにしている。
14日が十五夜と思う。
韓国では旧盆で「秋夕(チュソク)」の名節である。
韓国は13日から3日間、公休日になる。ソウル在住の人たちは故郷に向かう。それでいつも京釜高速道路は渋滞になる。日本の盆の帰省ラッシュよりもっと酷い渋滞になるらしい。
在日コリアンも昔は1世が生きているときは旧盆で祭祀をしていた。
旧盆でしていた光景を思い出すが大きくなると留守番だった。低学年の間は学校休んで行っていたが高学年になると学校があったのでたいてい家で留守番していた。
父親が祭祀の朝、1番の列車で桜井の祖父の家に行った。
そして高校1年のときに祖父がなくなって翌年の正月は日本の正月に合わせた。
父親も日本の会社員、叔父たちも日本の会社員で日本の公休日に合わせて新暦で名節をやるようになった。そして我が家でするようになった。
しかし2世になっても旧暦でしているところもあるが先日、8月15日、民団大阪本部の光複節に「在日同胞の歴史」の試作品のDVDが上映された。
私は当日、夫の兄に家に行き見ていないが見た感想のコメントをとりに8月の末に大阪本部会館に行った。
コメントを取ると大方の家が新暦、日本の公休日に合わせた8月15日に韓国伝統の祭祀を行っていた。
私と同様DVDを見ていない人が多かった。
在日コリアンの生活形態も日本人社会の中を組み込んでいる生活だった。
韓国では8月半ばから百貨店では「秋夕」用の食材やギフト商品が売りに出されたと韓国の新聞ニュースでは出ていた(インターネットを検索)
先日、神戸在住の在日韓国人女性に仕事でお会いした。
京都生まれの2世である。
韓国料理が好きで店の経営者である。
1ヶ月に1回韓国に訪問するという。
行く前は今度、どんな新しい出会いがあるだろうとワクワクしながらの訪韓をする。そして韓国の街を歩く。町の中は騒がしくて人もみんなよく話しよく食べてよく笑う。
韓国にいるとき毎日が楽しい。
しかし日本に戻ってくると喧騒から解放されてどっと疲れがでてくる。
また日本の生活スタイルのよさを認識するという。
これは日本で生まれて育った在日韓国人なら皆同じ感想だろう。
私も韓国に入ると日本で決めていた人と会う。また韓国に入って電話をして会う日など3・4日の滞在の間をそうして過ごす。
50代の半ばまでは日本で出会った人に電話をして食事をご一緒したりしたが50代の終わりからそういうことから避けた。
喧騒な空気から少しでも離れたい。
そんなことが1人でソウルの町を歩く。ホテル近くのコーヒー店で日本からもって行った本を読んだりしている。
以前は韓国滞在の間に慶州の知人を訪ね釜山の母親の妹を訪ねたがもうそれもわずらわしくなって誰とも会わないときは1人でソウルの町を歩いて百貨店を訪ねたりしている。
1人になりたいという気持にかられて誰にも連絡しない。
韓国の知人だけは韓国に入る時は必ず連絡をする。
何かあったときの身元保証人のような人なので必ず連絡をしている。
長年の知人で私の気性も知っているのでたいてい私のスケジュールに合わせてくれる。そんなことで連絡を取るのに携帯電話は欠かせない。
他の人と会う時も便利である。
携帯で場所の確認をして待ち合わせをよくしている。
今、韓国は秋夕の支度で皆、大忙しいというところだろう。
日本ではお月見で家庭や町の中で催しが開かれる。
雑誌記者時代は夜の猿沢池に足を運んだ。采女祭が行われている。今も行われている。地方紙の主催で毎年開かれている奈良公園で「薪能」がある。この日は在日韓国人も各本部・支部の団体で敬老会が行われるので私も現場によく入ったので「薪能」をバスの中から横目に夜、自宅に戻ることがよくあった。
近年は若い記者が入っていたが今年はある支部に私も顔を出すことになった。
大阪の現場に入らないといけない。
毎年「薪能」の案内を頂きながらたいていどこかの現場に行っている。
雑誌記者時代は奈良公園の飛火野で開かれる「薪能」の見学によく言った。勉強不足の私は見ていてもさっぱり意味がわからなかった。
しかしチケットを頂くか購入していたのでよく行った。
あの頃が懐かしい。
今は亡きMデスクも写真撮影でこの場所に来ていた。
カメラマンはカメラマンで自分の写真が1番と思っている。
Mデスクもご多分にもれずよく愚痴っていた。
男も愚痴るものだということをこの時知った。
あの頃の私はまだ40歳前後、若かった。
見合い結婚した私はハンサムな男性に心が傾いたがそれまでだけだった。
けっこう惚れっぽかったが何も出来なかった。テレビドラマは「金曜日の妻たち」に人気があって不倫のドラマだった。
そうしたことにも憧れながら気の小さい私は何も出来ないで年を重ねてきた。
惚れっぽい気持がなくなってタンタンと暮らすようになったのは50代からで何も燃えることもなくタンタンとして日々の暮らしをしている。
年を重ねてきてそうしたところのエネルギーにわずらわしくなってきた。
今はパソコンの前であれこれ書いて心の中を吐き出して日記代わりにしている。
秋夕の話からあちらこちらに話が飛んだ。
久しぶりに時間ができた。
新聞をよんでほんの2・3時間、ゆっくり過ごそう。
夕方になるとまた夕食の支度である。
7月から8月半ばまで、高校野球中継で番組がなかった。
高校野球が終わるとずっと取材が入っていて外出するまでパソコンの前にいてあわただしく身支度をしていく生活だった。
久しぶりに土曜日の現場がない。
明日の日曜日は現場が入っている。夕方からだが少し見学させてもらって帰ってくることにしている。
14日が十五夜と思う。
韓国では旧盆で「秋夕(チュソク)」の名節である。
韓国は13日から3日間、公休日になる。ソウル在住の人たちは故郷に向かう。それでいつも京釜高速道路は渋滞になる。日本の盆の帰省ラッシュよりもっと酷い渋滞になるらしい。
在日コリアンも昔は1世が生きているときは旧盆で祭祀をしていた。
旧盆でしていた光景を思い出すが大きくなると留守番だった。低学年の間は学校休んで行っていたが高学年になると学校があったのでたいてい家で留守番していた。
父親が祭祀の朝、1番の列車で桜井の祖父の家に行った。
そして高校1年のときに祖父がなくなって翌年の正月は日本の正月に合わせた。
父親も日本の会社員、叔父たちも日本の会社員で日本の公休日に合わせて新暦で名節をやるようになった。そして我が家でするようになった。
しかし2世になっても旧暦でしているところもあるが先日、8月15日、民団大阪本部の光複節に「在日同胞の歴史」の試作品のDVDが上映された。
私は当日、夫の兄に家に行き見ていないが見た感想のコメントをとりに8月の末に大阪本部会館に行った。
コメントを取ると大方の家が新暦、日本の公休日に合わせた8月15日に韓国伝統の祭祀を行っていた。
私と同様DVDを見ていない人が多かった。
在日コリアンの生活形態も日本人社会の中を組み込んでいる生活だった。
韓国では8月半ばから百貨店では「秋夕」用の食材やギフト商品が売りに出されたと韓国の新聞ニュースでは出ていた(インターネットを検索)
先日、神戸在住の在日韓国人女性に仕事でお会いした。
京都生まれの2世である。
韓国料理が好きで店の経営者である。
1ヶ月に1回韓国に訪問するという。
行く前は今度、どんな新しい出会いがあるだろうとワクワクしながらの訪韓をする。そして韓国の街を歩く。町の中は騒がしくて人もみんなよく話しよく食べてよく笑う。
韓国にいるとき毎日が楽しい。
しかし日本に戻ってくると喧騒から解放されてどっと疲れがでてくる。
また日本の生活スタイルのよさを認識するという。
これは日本で生まれて育った在日韓国人なら皆同じ感想だろう。
私も韓国に入ると日本で決めていた人と会う。また韓国に入って電話をして会う日など3・4日の滞在の間をそうして過ごす。
50代の半ばまでは日本で出会った人に電話をして食事をご一緒したりしたが50代の終わりからそういうことから避けた。
喧騒な空気から少しでも離れたい。
そんなことが1人でソウルの町を歩く。ホテル近くのコーヒー店で日本からもって行った本を読んだりしている。
以前は韓国滞在の間に慶州の知人を訪ね釜山の母親の妹を訪ねたがもうそれもわずらわしくなって誰とも会わないときは1人でソウルの町を歩いて百貨店を訪ねたりしている。
1人になりたいという気持にかられて誰にも連絡しない。
韓国の知人だけは韓国に入る時は必ず連絡をする。
何かあったときの身元保証人のような人なので必ず連絡をしている。
長年の知人で私の気性も知っているのでたいてい私のスケジュールに合わせてくれる。そんなことで連絡を取るのに携帯電話は欠かせない。
他の人と会う時も便利である。
携帯で場所の確認をして待ち合わせをよくしている。
今、韓国は秋夕の支度で皆、大忙しいというところだろう。
日本ではお月見で家庭や町の中で催しが開かれる。
雑誌記者時代は夜の猿沢池に足を運んだ。采女祭が行われている。今も行われている。地方紙の主催で毎年開かれている奈良公園で「薪能」がある。この日は在日韓国人も各本部・支部の団体で敬老会が行われるので私も現場によく入ったので「薪能」をバスの中から横目に夜、自宅に戻ることがよくあった。
近年は若い記者が入っていたが今年はある支部に私も顔を出すことになった。
大阪の現場に入らないといけない。
毎年「薪能」の案内を頂きながらたいていどこかの現場に行っている。
雑誌記者時代は奈良公園の飛火野で開かれる「薪能」の見学によく言った。勉強不足の私は見ていてもさっぱり意味がわからなかった。
しかしチケットを頂くか購入していたのでよく行った。
あの頃が懐かしい。
今は亡きMデスクも写真撮影でこの場所に来ていた。
カメラマンはカメラマンで自分の写真が1番と思っている。
Mデスクもご多分にもれずよく愚痴っていた。
男も愚痴るものだということをこの時知った。
あの頃の私はまだ40歳前後、若かった。
見合い結婚した私はハンサムな男性に心が傾いたがそれまでだけだった。
けっこう惚れっぽかったが何も出来なかった。テレビドラマは「金曜日の妻たち」に人気があって不倫のドラマだった。
そうしたことにも憧れながら気の小さい私は何も出来ないで年を重ねてきた。
惚れっぽい気持がなくなってタンタンと暮らすようになったのは50代からで何も燃えることもなくタンタンとして日々の暮らしをしている。
年を重ねてきてそうしたところのエネルギーにわずらわしくなってきた。
今はパソコンの前であれこれ書いて心の中を吐き出して日記代わりにしている。
秋夕の話からあちらこちらに話が飛んだ。
久しぶりに時間ができた。
新聞をよんでほんの2・3時間、ゆっくり過ごそう。
夕方になるとまた夕食の支度である。
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