パソコン技術は使えば便利だがその技術ははてしなく多い。それまた上乗せしていろんなことが起きる。
明日、仕事の帰りに年賀状を取りに行こうと思ったが今日行くことにした。大阪にでると寄り道して遅くなりそうだ。
今日は思い切って外出をしよう。
する仕事はたくさんあるがとりあえずブログを書いておこう。
気になるニュースというのか私の青春が通り過ぎていった話である。
ゼロ型の新幹線が11月30日で運行されないことになった。
多くの人たちが「さようなら」をつげた。
昭和39年、1964年、東京オリンピックの時に開通した。
当時、私は奈良市内の印刷工場、小さな会社で和文タイプを打つ仕事をしていて夜は洋裁学校に通った。
高校時代の同級生とよく奈良公園飛火野に行きは寝転びながら話したものだった。
まだまだ私には新幹線に乗ることは遠い夢の話だった。
一緒に行った友達は彼氏ができて楽しそうにしているのに私はちっとももてなかった。異性というとただ唯一、中学3年から続けていたペンフレンドだけだった。本当にもてない女の子だった。
そんな時代を思い出す。
もてない女の子がまた見た。JR奈良駅で又従兄弟が私も知っている高校時代の同級生とデートするために待ち合わせてしているところをばったり見たものだった。楽しいデートと思っていた。しかしそれは別れるためだったと後日知った。
そのことを知ったのは東京に出て行き山城町上狛に帰ってきて親戚の結婚式で会ったときだった。東京で苦労していたのだろう。ソフトでハンサムな顔は頬が落ちていた。彼は数年後、胃癌で亡くなった。
新幹線が走って東京オリンピックがすんだ翌年の冬、伊丹にあった会社の出張のために大阪にきた東京のペンフレンドとあった。
大阪の梅田、当時は有名だった「田園」の喫茶店であった。
シルビーバルタンの「恋のよろこび」が喫茶店の真ん中の舞台で歌っている歌手の光景が今も目に残っている。
私に国籍の問題がなかったらもっと頻繁に会ってひょっとしたら結婚していたかもしれないが国籍が災いしてそのままになった。
大阪駅で別れるとき彼は新幹線に乗らないで夜行列車に乗った。
ホームで握手して別れた。列車が出るまで見送った。そのとき彼が私に手渡しものが置物のだるまだった。当時、これはどんな意味があるのかまったくわからなかった。深くも考えもしなかったし今も意味がわからない。
それから何通か手紙はきた。
しかし手紙の中に「ラシャメン」の映画を見たという文章に私はそんな対象でみているのか。国籍の災いを痛感した。
それから私は勤務先が変わり大阪に勤めるようになってから会社に電話はかかったが私は私でそれなりにデートするような彼もできたが日本人だった。親にすぐ分かってしまいすぐ見合いをさせて結婚させてしまった。
いろんなことがあった青春とさようならしたつもりだった。
それが子育てをしていて子どもが幼稚園行くようになってその幼稚園に八木先生がいた。住んでいるところは京都府綴喜郡である。
何気なしに高校時代の同級生と同じ苗字の人がいたと話した。
そしたら同級生の奥さんだった。八木君は当時の国鉄に勤務していた。
八木先生は話す。
「今、新幹線の運転手をしている。大阪と東京を往復して東京で1泊して家に帰ってきます」と話した。当時、結婚したばかりだった。翌年長男が誕生している。次男が現在、関西お笑い芸人で活躍するサバンナ八木さんである。
八木君は日本が高度経済成長期に入ったときに華々しく仕事をしておられた。
それでも私はまだまだ新幹線に乗れる身分ではなかった。
飛行機も乗ったことがなかったが飛行機は東京の落合恵子さんが経営するクレヨンハウスに行きたくて飛行機で往復したことがあった。
新幹線にやっと乗れたのは私が在日韓国人の新聞記者(日刊紙)になって東京本社会議に出席するために新幹線に乗ったのが初めてだった。
43歳の時である。それから何度か東京での会議の出席で何度か新幹線を利用するようになった。
乗るたびに八木君が運転しているのかと思ったものだった。
今は彼も定年退職をして自宅側の畑で農業をしている姿がサバンナ八木さんと一緒にテレビに出ていた。久しぶりに見る八木先生は相変わらず明るい人だった。
八木先生と親しかった幼稚園の先生から聞くところによると八木先生も定年退職をしてダンスにいったりしてけっこう忙しくしておられるという。
1昨日ゼロ型の新幹線廃止によるテレビニユースが流れていた。
日本高度経済成長期ら新幹線の運転をしていた八木君はどんな思いで見ていただろうか。
そしてこの時代、大学に行っていた者そして新米の企業戦士、日本の経済を支え続けた同級生たちはどういう思いで見ていただろうか。
何もなかった時代、新しい時代が見えたゼロ型新幹線、皆、夢があった。夢を運んだ新幹線だった。
新幹線といえば東京から伊丹にきたペンフレンドは夜行で東京に戻っていった。これが庶民の暮らしで普通だった。夜行といえば思い出した。
公務員でストレスがたまるのかいつもどこかで飲んでいたのだろう。
高校時代の女友達と一緒に奈良で映画を見た後、JR奈良駅から木津に帰る列車に乗るためにホームで待っていた。
たまたま公務員の彼とホームで一緒になった。
それが酔っ払っているからどの列車かわからない。
当時、夜行列車「明星」があった。奈良に停車した夜行列車に酔っ払っているのか乗る列車とカン違いをしたのだろうか。
一緒にいた女友達が夜行列車に飛び乗って彼を連れて降ろしてきた。
彼女は勇敢だった。私はボーとしていてそこまでの機転が働かなかった。
新幹線といえば夜行列車、夜行列車といえばよっぱらった公務員の同級生、新幹線と言えばサバンナ八木さんのお父さん。八木君夫婦を思い出している。
当時の一般人、走り出した新幹線になかなか乗れなかったけれどまだまだ地域の人たちは人情が残っていた。地域で助け合っていきていく仕組みがあった。
新幹線は転勤族を多く作り新興住宅の開発で全国各地には地域色がなくなった町づくり、東京集客は地方の文化が少しずつ寂れていった。
便利になった新幹線の出現、しかし便利になっただけ生活サイクルは忙しくなり人々も忙しいサイクルで暮らしてきた。転勤族はまた核家族を作り新興住宅は核家族を作っていった。
人々が暮らす生活様式から失ったものはものすごく大きい。
生活サイクルがかわったものの何かを取り戻さないといけない。ずさんな政治にずさんな学校教育と家庭、人間教育が早急に問われている。
次に新幹線は何を運んでくるのだろうか。
やはり人々と地域に密着した生活スタイルである。
新幹線は地域と東京と人々をどのように位置づけていくのか私たちに問われている。
明日、仕事の帰りに年賀状を取りに行こうと思ったが今日行くことにした。大阪にでると寄り道して遅くなりそうだ。
今日は思い切って外出をしよう。
する仕事はたくさんあるがとりあえずブログを書いておこう。
気になるニュースというのか私の青春が通り過ぎていった話である。
ゼロ型の新幹線が11月30日で運行されないことになった。
多くの人たちが「さようなら」をつげた。
昭和39年、1964年、東京オリンピックの時に開通した。
当時、私は奈良市内の印刷工場、小さな会社で和文タイプを打つ仕事をしていて夜は洋裁学校に通った。
高校時代の同級生とよく奈良公園飛火野に行きは寝転びながら話したものだった。
まだまだ私には新幹線に乗ることは遠い夢の話だった。
一緒に行った友達は彼氏ができて楽しそうにしているのに私はちっとももてなかった。異性というとただ唯一、中学3年から続けていたペンフレンドだけだった。本当にもてない女の子だった。
そんな時代を思い出す。
もてない女の子がまた見た。JR奈良駅で又従兄弟が私も知っている高校時代の同級生とデートするために待ち合わせてしているところをばったり見たものだった。楽しいデートと思っていた。しかしそれは別れるためだったと後日知った。
そのことを知ったのは東京に出て行き山城町上狛に帰ってきて親戚の結婚式で会ったときだった。東京で苦労していたのだろう。ソフトでハンサムな顔は頬が落ちていた。彼は数年後、胃癌で亡くなった。
新幹線が走って東京オリンピックがすんだ翌年の冬、伊丹にあった会社の出張のために大阪にきた東京のペンフレンドとあった。
大阪の梅田、当時は有名だった「田園」の喫茶店であった。
シルビーバルタンの「恋のよろこび」が喫茶店の真ん中の舞台で歌っている歌手の光景が今も目に残っている。
私に国籍の問題がなかったらもっと頻繁に会ってひょっとしたら結婚していたかもしれないが国籍が災いしてそのままになった。
大阪駅で別れるとき彼は新幹線に乗らないで夜行列車に乗った。
ホームで握手して別れた。列車が出るまで見送った。そのとき彼が私に手渡しものが置物のだるまだった。当時、これはどんな意味があるのかまったくわからなかった。深くも考えもしなかったし今も意味がわからない。
それから何通か手紙はきた。
しかし手紙の中に「ラシャメン」の映画を見たという文章に私はそんな対象でみているのか。国籍の災いを痛感した。
それから私は勤務先が変わり大阪に勤めるようになってから会社に電話はかかったが私は私でそれなりにデートするような彼もできたが日本人だった。親にすぐ分かってしまいすぐ見合いをさせて結婚させてしまった。
いろんなことがあった青春とさようならしたつもりだった。
それが子育てをしていて子どもが幼稚園行くようになってその幼稚園に八木先生がいた。住んでいるところは京都府綴喜郡である。
何気なしに高校時代の同級生と同じ苗字の人がいたと話した。
そしたら同級生の奥さんだった。八木君は当時の国鉄に勤務していた。
八木先生は話す。
「今、新幹線の運転手をしている。大阪と東京を往復して東京で1泊して家に帰ってきます」と話した。当時、結婚したばかりだった。翌年長男が誕生している。次男が現在、関西お笑い芸人で活躍するサバンナ八木さんである。
八木君は日本が高度経済成長期に入ったときに華々しく仕事をしておられた。
それでも私はまだまだ新幹線に乗れる身分ではなかった。
飛行機も乗ったことがなかったが飛行機は東京の落合恵子さんが経営するクレヨンハウスに行きたくて飛行機で往復したことがあった。
新幹線にやっと乗れたのは私が在日韓国人の新聞記者(日刊紙)になって東京本社会議に出席するために新幹線に乗ったのが初めてだった。
43歳の時である。それから何度か東京での会議の出席で何度か新幹線を利用するようになった。
乗るたびに八木君が運転しているのかと思ったものだった。
今は彼も定年退職をして自宅側の畑で農業をしている姿がサバンナ八木さんと一緒にテレビに出ていた。久しぶりに見る八木先生は相変わらず明るい人だった。
八木先生と親しかった幼稚園の先生から聞くところによると八木先生も定年退職をしてダンスにいったりしてけっこう忙しくしておられるという。
1昨日ゼロ型の新幹線廃止によるテレビニユースが流れていた。
日本高度経済成長期ら新幹線の運転をしていた八木君はどんな思いで見ていただろうか。
そしてこの時代、大学に行っていた者そして新米の企業戦士、日本の経済を支え続けた同級生たちはどういう思いで見ていただろうか。
何もなかった時代、新しい時代が見えたゼロ型新幹線、皆、夢があった。夢を運んだ新幹線だった。
新幹線といえば東京から伊丹にきたペンフレンドは夜行で東京に戻っていった。これが庶民の暮らしで普通だった。夜行といえば思い出した。
公務員でストレスがたまるのかいつもどこかで飲んでいたのだろう。
高校時代の女友達と一緒に奈良で映画を見た後、JR奈良駅から木津に帰る列車に乗るためにホームで待っていた。
たまたま公務員の彼とホームで一緒になった。
それが酔っ払っているからどの列車かわからない。
当時、夜行列車「明星」があった。奈良に停車した夜行列車に酔っ払っているのか乗る列車とカン違いをしたのだろうか。
一緒にいた女友達が夜行列車に飛び乗って彼を連れて降ろしてきた。
彼女は勇敢だった。私はボーとしていてそこまでの機転が働かなかった。
新幹線といえば夜行列車、夜行列車といえばよっぱらった公務員の同級生、新幹線と言えばサバンナ八木さんのお父さん。八木君夫婦を思い出している。
当時の一般人、走り出した新幹線になかなか乗れなかったけれどまだまだ地域の人たちは人情が残っていた。地域で助け合っていきていく仕組みがあった。
新幹線は転勤族を多く作り新興住宅の開発で全国各地には地域色がなくなった町づくり、東京集客は地方の文化が少しずつ寂れていった。
便利になった新幹線の出現、しかし便利になっただけ生活サイクルは忙しくなり人々も忙しいサイクルで暮らしてきた。転勤族はまた核家族を作り新興住宅は核家族を作っていった。
人々が暮らす生活様式から失ったものはものすごく大きい。
生活サイクルがかわったものの何かを取り戻さないといけない。ずさんな政治にずさんな学校教育と家庭、人間教育が早急に問われている。
次に新幹線は何を運んでくるのだろうか。
やはり人々と地域に密着した生活スタイルである。
新幹線は地域と東京と人々をどのように位置づけていくのか私たちに問われている。
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